壱 ▣ 問わず語りの蝉時雨
一、どうということもない朝
一、本名不明。この名前は
苗字は発見場所、名前は唯一の所持品であった
二、来歴および年齢不明。彼女には河原で発見される以前の記憶が一切ない。
時雨曰く「たぶんオレと同じ歳じゃねーの?」というわけで、発見された日を毎年誕生日代わりに祝ってきた。
三、ある意味ではこれがもっとも重要かつ身近な謎。
――清川蛍には、『声』がない。
「……」
よく勘違いされることのひとつが『蛍ちゃんは大人しい女の子』だ。何しろ傍目には、喋らないイコール自己主張をしない、という印象を与えやすい。
実際それは半分正しくて半分間違っている。
全否定できないのは『唇を読めない相手に細かい説明をするのが面倒で、会話を諦めてしまうことがままある』から。
その理由が当てはまらない相手、すなわち長年一緒に居て所謂ツーカーな仲である、時雨に対してはその限りではない。
というわけで今日も
「いていていてッ、ちょ、蛍、なに、何で朝っぱらからキレてんだよ!?」
「……!」
「あんたが昨夜食べたアイスのことじゃないの」
「そなの? ……あでっ! 悪い悪かったゴメンて、代わりの買ってやるから、な? ストップストップどうど……いっでッ! 猛獣か! んなキレんなら名前書いとけ……え? 書いた? ごめん見落としたわ。まあとにかく朝飯食おう、久々の
時雨も慣れたものだ。殴られつつ唇を読みつつ謝りつつ制服を着つつ、四つの動作を同時にこなしながら事態の収拾を図る手腕は、なるほど蛍の保護者を自負しているだけある。
……と、それらを傍から見ていた
まだ微妙に納得いかなさげにしている蛍であったが、さんざん相方を殴って疲れたらしい。目の前にあつあつの味噌汁が出されると大人しく椅子に収まった。
朝食は三人で順に当番を回しているのだが、今日は鳴虎の番なので純和食。白ごはんに味噌汁、焼き魚、納豆、出し巻き卵が卓上に並んでいる。
ようやく朝食をもぐもぐやり始めた子どもたちを横目に、鳴虎は端末を操作した。
ひとまず〈
今日は自分たち『萩森班』は非番で、緊急通報がないかぎりは自由行動が許されている。子どもたちは第二身分の学生として過ごせる日だ。
討伐任務だけでなく訓練や会議などにも時間を取られ、二人の学業は疎かになっている。何より同年代の一般人と関わる機会が少ないのが気がかりだった。
たまには一日ゆっくり学校に行かせてあげたいけれど、音念の発生は自然災害みたいなもの。今日だけ大人しくして、なんて言っても聞いてくれない。
――だから頼むなら人間相手でしかない、が。
「……なあおい蛍。めー姐のあの顔、絶対あれだ。
「……、……」
「な。とっととヨリ戻……あッ!?」
聞き捨てならん科白が聞こえたので、鳴虎は時雨の出し巻き卵を奪った。
「ひでー! オレ、めー姐の卵焼きめっちゃ好きなのに!」
「あら、ありがと。でも余計なことは言わんでよろしい。黙ってとっととお食べ!」
「へーい」
蛍が肩を震わせている。彼女の場合は笑っても声は出ないので、代わりに喉から空気が抜けるフスフスという音だけがする。
何のペナルティも受けない相方を見て「ずりー」と時雨がぼやいているが、これぞまさに口は災いの元、沈黙は金。その一点だけは確かに彼女は得をしているかもしれない。
清川蛍は話せない。だから失言で誰かの不興を買うこともない。
代わりに自分の意思を伝えるのには苦労するのだろう。鳴虎もしばしば彼女の考えが汲み取れなくて悩むことがあるし、筆談やジェスチャーといった代替手段も、緊急時にはまだるっこしすぎる。
だからもはや専任の翻訳係と化した時雨が、つかず離れずいつも傍にいるわけだが。
(ちょっとべったりしすぎじゃない……?)
仲がいいのは良いことだろう。しかしそれも、行き過ぎれば危うさを孕む。
二人の保護者としてもそうだが、同時にいち部隊を預かる身としては、その関係がいずれ任務に支障をきたすようにならないかが心配だった。命に関わることだから。
それに。
(隊員同士の恋愛なんて、ロクなことにならないんだから。……ってのは気にしすぎかな)
もう十年近くこの子たちのことを見ている。二人がお互いを特別扱いしているのは事実だが、それぞれの感情に帯びた色はまだ不鮮明なところも多い。
蛍はわかりやすい。幼馴染みとして、そしてある意味それ以上に恩人として、見るからに時雨を慕っている。
恐らく、異性としても。
問題は時雨だ。明るくてあっけらかんとしていて、思いついたことは全部口から出てくるような性格のくせ、掴めない。
大量の無駄口で本心を隠している。
蛍は、気づいているだろうか。時雨がときどき笑っているフリをしていることに。
*♪*
葬憶隊は非番の外出時にも制服着用が義務付けられている。つまり学校でも学ランやセーラー服の群れに混じって暗色の戦闘服姿、挙げ句に帯刀しているので、嫌でも目立つというか浮く。
二人はじろじろ見られるのに慣れっこで、とくに気にせず教室へ向かった。
「はよーっす」
「お、空蝉じゃん、生きてたかー!」
「久しぶりだな〜!」
「おまえらも元気そうじゃん。さっそくだけど誰かノート見して」
「見ても無駄じゃね?」
「ていうか勉強する気あんだな、全然こねーくせに」
「うるせぇ、グダグダ言うやつは音念から守ってやらんぞー? あっサンキュ。……おー、なんじゃこりゃ、さっぱりわかんね。宇宙語か?」
「そうだぞ火星語だぞ。あと空蝉に拒否られたら清川さんを頼るからいいわ」
「同じく。むしろ初めから清川ちゃんのほうがいいわ」
「……おーん??」
時雨はさっそく囲まれている。葬憶隊員のクラスメイト自体が珍しいし、彼は話し上手なこともあって、友人を作るのが得意だ。
やれ『最近どんな敵を倒したか』やら何やら、質問が矢継ぎ早に飛ばされる。
時雨もまた笑顔を浮かべ、聞かれたことも聞かれていないことも再現付きでペラペラ語り出した。
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