二、その怪物には形がない

 さて、何を頼もうか。他人の金とはいえ、うどん屋でできる豪遊などたかがしれているし、実はそれほど空腹ではなかった。

 お品書きを横向きにして二人で眺める。ラミネートされたページをめくっている指は、蛍のそれより少し太くて長い。


「どーすっかな~。てかこの場合まずモノ決めてもさ、うどんかそばかで悩むんだよな。で次に温冷」

「……」

「え、おまえがうどん食いたいっつったんじゃん。あ? あー、じゃあミニ天丼つけるわ。それでオレに半分寄越しなさい、そっちのは何でもいいから。……あ~わかるカレー南蛮ってかすかに邪道感あるよな。いいよ許すオレが許す」

「……」

「なーんだよ。はは、オレおまえの保護者のつもりだよ、知らんかったんか」


 蛍は一言も発さないのに、なぜか会話が成立している。傍から見れば一人で延々と話し続ける時雨の図だ。

 ベルに呼びつけられた店員にも聞こえていたのだろう、彼女は苦笑に近い色彩を声に滲ませながら、こちらの注文オーダーを繰り返す「ぶっかけうどんのミニ天丼セットおひとつ、カレー南蛮うどんおひとつ……」打ち込まれるたび手許の端末がピッピッと軽やかに鳴いている。

 誰も苦しめない優しい音。世界にあふれるのがそんな歌ばかりなら、蛍たちは必要ない。


 現実には、この店内に満ちているような『日常』を奪う騒音が存在する。葬憶隊はそれを消し去るのが使命だ。

 それが誰の声で、何を訴えたかったのかは、考えないようにする。

 いくら倒すモノの正体が人ではないと知っていても、――ものを斬るのは胸が痛む。あんなものをこの世に生み出した神を疎ましく思う程度には。


 ――という不敬の念が天に届いてしまったのだろうか。

 和やかな時間は無遠慮な着信音アラートによって唐突に中断された。あるいはこれで永遠に終わったのでないといいが。

 二人分の端末がそれぞれ喚き、画面上に同じ地図を表示している。


「悪い、オーダーキャンセル!」


 呆気に取られている店員を押しのけるようにして、二人の処刑人は店を飛び出した。


 走りながら横目に端末を見る。表示されている場所は市内で、充分に徒歩で間に合う距離だ。

 細かい番地なんかは確かめなくてもいい。近づけばそれとわかる――これより斬るべき怪物は、たとえ姿を隠していようとも、その悲鳴はいつだって遠慮なしに放り出されている。


 静けさを失った住宅街を通り抜け、絶叫が放たれている地点に到達した。

 現場は古びた邸宅だった。民家ではなく施設かもしれない、それなりに大きく立派だが、手入れが行き届かず荒んでいるのは今日びどこも同じ。

 今は騒音によって荒廃が助長されている。単にうるさいばかりでなく、異常な音圧と周波数の音をまき散らす怪物によって、物理的にも破壊されるのだ。その被害は当然、人や獣にも及ぶ。


 玄関の内側には逃げ遅れたらしい住民が転がっていた。民間人の救助も仕事のうち、しかし小柄な中年女性とはいえ、意識のない人間を運ぶのは楽ではない。

 蛍は彼女を時雨の腕に預けて、自分は中へ入ることを視線で告げる。


 人を運び出す役目は、より筋力の高い者が担ったほうが効率がいい。逆に怪物を斬るのに腕力はさほど要らない。

 相棒は「……わかった」珍しく少し不安そうな声音で頷いた。何を憂いたかは訊くまい。暇もない。


 少女は長い黒髪を翻して突入した。

 すでに得物は抜いている。軍刀の形に造られた、その気になれば人間だって斬りつけられる代物だが、その本意は刃物ではない。

 鈍い銀光を放つ刀身は、人の耳には聞こえない高周波の『音』をまとっている。


 残留思念の怪物〈音念ノイズ〉の正体は音だ。だから逆相位――正反対の波形をもつ音によって相殺する。


 葬音隊の帽子は低周波を低減する加工が施されていて、これを被っていれば音念に接近してもさほど影響を受けない。制服にも多少の効果がある。

 敵は万人を拒絶する魑魅魍魎の唸り声の化身ゆえ、これらを着込まなければ、斬れる間合いに近づくことすら難しい。

 蛍は不協和音を辿り、より『うるさい』ほうへ突き進む。


 やがて対象の姿が見えた。

 居間とおぼしき部屋の中央に佇む、黒く透けた亡霊のようなもの。


 絶えず振動して低周波音を撒き散らす影は、揺らめいてはところどころに色彩を発する。その残像の中に、音念の発信源になった人物の姿が見えることもある――時に完全な人の姿を表すことさえ。

 明瞭に人語を話して命乞いをする個体すらあった。

 それほどはっきりしていると、本人すら自分がヒトだと信じ込んでいる。それでも斬らねばならない。


 過去のつらい任務を思えば、今回はかなり楽な部類だ。明らかに生物でないと一瞥してわかる。


 アァァァ――言葉の体を為さない音を発しながら音念が身体を揺らし、蛍に向かってくる。本能的にこちらが敵だと察したのだろう。

 帽子を奪われたらまずい。制服だけでは衝撃を防ぎきれない。

 最悪の場合は死もあり得る。しかも低周波優位の個体となると、ゆっくり時間をかけて苦しむことになるらしい。それは勘弁願いたい。


「……!」


 音念が振り下ろした腕を躱しざま、その付け根を斬りつける。

 触れた瞬間にだけ首筋を不快な音が這った。真逆の波がぶつかって、互いを食らい合う、音の断末魔。


 黒煙に似た身体はざらりと霧散するけれど、あくまで輪郭を模しただけの幻影だ、実際に斬れるわけではない。単に形状が一時的に崩れただけ。

 放っておけば元に戻る。すべての音を相殺しなくては、は消せない。

 そういう手順だ。何度も斬って、削って、少しずつ面積を縮め、最終的に一撃で断てる大きさにする。


 幸い今回はさほど大きな個体ではない。これなら時雨を待つ必要もないか――と思った、その時。


「……ッ!?」


 家を突き崩すかと思うほどの衝撃が、突然に部屋自体を上下に揺らがせた。

 蛍は足許を掬われて思いきり転ぶ。そうして仰向けに転がったことで、半色はしたいろの大きな瞳に、信じられないものが映り込んだ。



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