十四、死神の手招き

 巡回も残すところあと一区となったが、まだ気は抜けない。というのも、これから向かう納琴なごと市の西側地域ははっきり言って治安が悪く、また面倒な市民に絡まれる危険があるからだ。

 それに環境が劣悪になるほど、比例して音念ノイズ発生率も高くなる。逃亡中の騒念クラマーにとっては居心地のいいだろう。

 同じことを思っているのか、時雨の表情も硬くなっている。


 だんだんと空気が乾き、埃混じりになっていくのがわかる。比較的賑やかだった繁華街や、穏やかな住宅街の気配は薄れ、いつしか荒涼とした混沌があたりに広がった。

 ここも数十年前は明るい街だったのかもしれない。けれど今は胡乱なネオンの光だけが散らばって、道行く人の顔を妖しく照らしている。


「……なるべく眼を合わせないようにしなさいね」


 鳴虎がぽつりと呟いた。言われなくても、あまりじろじろ眺めたい場所ではない。


 しわだらけのシャツにところどころ赤黒い染みをつけた、ヤクザの下っ端風の男。見るからに何日も入浴していない風の老人。

 虚ろな眼をして道端に座り込んでいる者もいる。それから派手な化粧をした、やたらに薄着の若い女。

 いるのは異様な風体の者ばかり。ここ鉦山かねやま地区は犯罪の温床として悪名高く、『納琴のスラム』とも呼ばれるほどだ。


「ここらへんは相変わらずね、イヤな感じ」

「むしろ昔よりひどくなってる。それにしても……」


 先頭の鳴虎と殿しんがりのナギサが、間の蛍たちの肩越しに眼を見合わせる。


「不自然なほど音念がいない」

「昨日も巡回してるからじゃねぇの?」

「だとしても変でしょ。よそならともかく、鉦山なんていつもひどい有様なのに。だいたい夜勤の椿吹つばき班がここ巡回したのって三日も前よ」

照廈てるいえ班は担当外ですし」

「そう。なのに……」


 巡回の目的は、路上に散らばる軽微な音念を減らして、共食いによる増大化を防ぐこと。とくに鉦山地区のような荒れた地域は音念だらけになりやすい。

 蛍たちは未成年だから今までほとんど来たことがないけれど、確かにと思う。

 さっき通った繁華街のほうが、よほどたくさん低級音念を見かけた。


 空気が張り詰めていく。幸か不幸か、スラムの住民たちはこちらに近づいてこないので、四人の歩みは順調だ。

 萩森班は奥へと進んでゆく。……薄暗がりへ飲まれるように。


 そうして、何分くらい経ったころだろうか。


「……」


 足音が一人分多い。数メートルうしろを、覇気のない顔をした男が一人、ふらふらした足取りで歩いている。

 とくに隠そうともせず、あからさまに四人をけているが、意図が汲めない。


 不審者とはいえ市民には手を出せないし、警察に通報するのも良い手とは言えないのが悩ましい――このご時世、不安渦巻く政令指定都市では大小問わず事件がひっきりなしに起きている。人手不足はどこも同じ。

 尾行くらいで、それも武装した葬憶隊員が四人もいて、おまえたちは自分の身も守れないで市民の守護者面をするのかと笑われるのがオチだ。

 蛍が思うに。……時おり耳にする葬憶隊の不祥事、こと『市民を威圧した』類の内容のものは、こういう背景の下に起きた不幸な事例なのかもしれない。


 だが。今回は、どうだろう。

 ――少女のどんよりした思考に一筋の音が突き刺さった。そう表現したくなるような、甲高く鋭い雑音は、背後から頭蓋を貫いて蛍の脳を震わせる。


 はっとして顔を上げるけれど隣の時雨に気づいた気配はない。そろりとうしろを伺うと、相変わらず無表情を装ったナギサの肩越しに、男の姿が見えた。

 目は合わない。向こうはこちらを見ていない。

 硝子玉のような、まるで生気の感じられない眼差しは、無為に虚空へ注がれている。薄らぼんやりと開いた口は――違う。


 この音の出どころは、口じゃない。

 


「……! ……!!」

「えっ……?」

「蛍? どうし――っあれ人間じゃねえって!」


 時雨の叫びにいち早く反応したのはナギサだった。長い髪が躍った直後、尾行者の身体はぎゃあぎゃあと聞き苦しい音を立てて消える。

 けれども抉れたのは上半分だけ。膝から下は溶けるように崩れ、水を零したみたいに一瞬で地表に広がった。


「!?」


 そんな形態の音念は初めて見る。いつものもやとは異なり、どこか湿気や粘性を感じる質感があり、いわゆる流体スライムに近い様相を呈していた。

 しかも動きは見た目から想像されるよりずっと機敏で、広がったり流れたりと忙しなくうごめいてナギサの追撃を逃れている。

 思わず注視していると背後で鳴虎が叫んだ「二人とも前見なさい!」反応して振り返ると――


 手、

  手、

   手。


 数え切れないほどの人の手が、闇の中からこちらに向かって伸ばされていた。


 いや、鉦山地区がいかに荒んでいても、夕前に前も見えないほどの暗闇に包まれることなどありえない。すぐ近くにいるはずの鳴虎の姿すら掴めないなんて。

 咄嗟に振り抜いた祓念刀がそれを裂いた感触で確信する――これも音念だ。


 街路に霧のように立ち込めて、空まで覆い尽くすほどに巨大な怪物から、無数の手が生えている。

 肌色、闇の色、死体のような青、あるいは白骨めいた生成り色。マニキュアを塗った妙齢の女性から幼い子ども、ごつごつした大人の男性。骨と皮ばかりにやせ細ったシミとシワだらけの老人の手もある。

 指の数さえまちまちで、一つとして同じものはない悪趣味なコラージュ。さながらホラー映画のような光景に蛍の喉がひくりと震えた。


 いや、呆けている暇はない。それらは明らかに伸ばされている。


「っだよコレ……!」


 いくら斬ってもきりがない。体積が大きすぎて、まだ霊体破壊を会得していない二ツ星ふたりの斬撃では、ほとんど撫でているのと変わらない感触だ。

 削れるどころか逆に膨張しているようにさえ思える。「クソ、」すぐ傍で時雨の悪態が聞こえたと思ったら背中にぶつかった。

 圧されている。いつの間にか三百六十度ぐるりと暗色に囲われて、お互い身動きが取れなくなっていた。


 肩の向こうから響く時雨の呼吸が早い。いや、それとも焦っているのは蛍のほうか。


「……ッ!」

 

 闇が深くなる。真っ白な、ほっそりした女性らしい手が伸びてきて、蛍に触れた。

 本物の人肌のようなぬくもりを伴ったそれは。


「み、つ、け、た♡」



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