三、その悲鳴には心がない

 蛍に絶句という表現は似つかわしくない。しかし、もし声を出せたとしても悲鳴は上げられなかったろう。


 ひっくり返った少女が目にしたのは、逆さになって天井にへばりつく人影。いや、そう称するには崩れすぎた何か。

 そいつは首を反らして蛍を見下ろしていた。服を着て、顔は肌色、でも頭部は膨れて三つほどあるし、腕も二本どころではない。

 例えるなら阿修羅像。それを醜悪にした何者か。


 〈音念ノイズ〉とは、基本的に一人の人間が発した思念の成れの果てを言う。小さく弱く、放っておけば自然に消えるが、たまに大きくなって人を襲う。

 そして稀に、葬憶隊の追撃を逃れて増長し続ける音念がある。彼らは不安定な身体を保つために本能的に振動を求める――その対象には同族も含まれる。


 いわば共食いにより複数の音念が混ざったものは、〈騒念クラマー〉と呼ばれる。


「……ッ、……!」


 少女は戦慄する。騒念なんて滅多に現れないし、蛍自身も遭遇するのはこれが初めてだった。

 出現した場合は複数部隊で対処にあたるのが通例だと聞いている。たった一人で倒せる相手では決してない、決して。


 戦うべきではない。立って逃げるがせいぜいだ。

 いや、最悪ここで自分が逃げ切れなくても構わない。最も懸念すべきは時雨があいつと鉢合わせることだ。

 騒念がいる、中に入らず応援を呼べと、彼に伝えなくては。


 だがどうやって知らせたらいい。音波の影響で端末の動作は不安定になるし、そうでなくても操作する余裕などない。

 かといって蛍には最も原始的な警告手段――つまり『叫ぶ』こと――はできないのだ。


「……!」


 一瞬の逡巡のうちに騒念が降りてくる。そいつは無数の腕で下にいた音念を絡げるようにして掴み、喰らい始めた。

 低位の怪物が低く重苦しい悲鳴を上げてのたうつのを、蛍は為すすべなく見ているしかない。


 こちらは半身を起こすのでやっとだ。ベルトで留めているとはいえ、転んだ拍子に帽子が脱げなかっただけでも奇跡。


 打った背と尻が痛むのを堪えて立ち上がる。早くしないと時雨が来てしまう、それだけは絶対に、防がねば。

 恐らく無意味と悟りつつも、祓念刀を騒念に向けて突きつけながら、静かに後退を試みる。幸か不幸か飛びかかってくる気配はない。

 脂汗が喉の下を落ちていく。部屋じゅう音で充ちているのに、唾を呑んだのが聞かれないかと不安になった。


 騒念の融け崩れた顔の中心で、かすかに眼の面影を残した部位がぐるんと回って、蛍を見つめている。


「――ィ……テ……、シィ……苦……、ア、アァ」


 悲嘆に似た鳴き声を上げたそれは、


「……ァハハハハヒャァァ!」


 スイッチを切り替えたように狂笑へと転じて、前触れもなく蛍へ肉薄した。

 掴まれて麻痺した手から刃が離れる。床の上で刀身が跳ねる音は、溢れ返る騒念の声によって遠ざけられていた。

 まつ毛が触れ合うほど近くに寄せられた顔。唇の形に似た器官が目前にある。そこから発せられる残響は、


「あ、イ、し、Te、ル」


 色んな声が混ざっていた。低い年配の男性のそれや、幼い少女や、老人や、妙齢の女性などが、そいつの中で入り乱れている。

 何人分の思念の集合体かわからないその無秩序の塊は、なのに結託して愛を告げたのだ。

 誰に? まさか蛍にではあるまい。偶然にしては異様な一致。あたかも誰かが指揮をとっているような――。


 騒念はぬたぬたと崩れながら未だ迫ってくる。前衛絵画のような常軌を逸した顔が、出来の悪い福笑いか悪趣味なコラージュのようなそれが、蛍の頬を掴んでねじ曲がった唇を重ね合わせようとしてくる。

 まるで、キスをせがむように。


「……~!!」


 嫌だと叫んだ。声は出なくても、確かに叫んだ。

 あらんかぎりの力で、音を発さない役立たずの声帯を、千切れそうなほど震わせて。


 その瞬間――騒念の顔がいよいよもって大きく崩れた。溶けたアイスクリームに強力な扇風機を浴びせたような具合で、中央から外側に向かって弾け、勢いのままぐらりと仰け反ったのだ。

 何が起きたのかわからなかった。だって蛍は何もしていない、何も、……声すら出していないのに。


 困惑しながらも、咄嗟に屈んだ。

 祓念刀を掴む。なんでもいい、隙ができたのだ、今が好機。

 今しかない。逃げるには。――時雨を守るには。


 ただ……すでにもう、蛍は時間をかけすぎていた。


「――蛍ッ!」


 一番大切な人の声が、今はそれゆえに一番聞きたくなかった言葉が、少女の鼓膜を優しく叩く。


 きっと状況を理解してなどいないだろう。飛び込んできた少年は、蛍の頭上を薙ぐようにして怪物に一太刀浴びせていた。

 こちらに手を伸ばしかけていたらしい騒念はぶるりと身を震わせる。攻撃はまったく無効というわけではないらしい、……だからといって、勝機があるとも言えないのはすぐにわかる。

 そいつの身じろぎは、それだけで時雨を軽々と吹き飛ばした。


 少年は散らばっていた机やら調度品の残骸を巻き込み、派手に壁へとぶち当たる。

 痛みに呻いた口端から血が滴った。辛うじて祓念刀を手放してはいないが、帽子のベルトが外れかけている。


「……ッてぇ……蛍、だい、じょ……」


 意識が危ういのかかすれた声で、なおも出てくるのはこちらを気遣う言葉。


(時雨ちゃん……!)


 間に合わなかった。彼を到着させてしまった。しかもなんということか、斬撃に腹を立てたのか、騒念は明らかに蛍より時雨のほうを向いた。

 その身体は彼への殺意の唄を奏でている。歪で不愉快でおぞましい旋律が、たちまち膨れ上がって大合唱オーケストラを編成し、無数の腕が残虐を示す容貌へと変じていく。

 聞いているだけで立っていられないほどの衝撃を生む触手は、一目散に時雨へ殺到した。


(ダメ、ダメ、ダメ)


 無駄とわかっていても止めずにいられない。蛍はしゃにむに間に割り込んで、己の刃を振り下ろす。

 彼が傷つくのは看過できない。代わりに自分がどれほど痛めつけられてもいい――時雨のためなら死んだって構わない。


(今のうちに、逃げて。時雨ちゃん、お願い、立って……逃げて)


 狂震に弾かれて、彼より体重の軽い蛍はもっと簡単に吹き飛んだ。天井にほど近いところに身体を強かに打ちつけ、重力に従って、今度は瓦礫の散らばる床へ。

 痛みで意識が飛びかける中、時雨を見た。わずかな時間稼ぎがどうか彼に届いてほしいと願って。

 ところが彼は立ち上がっても、その脚を扉には向けないのだ。ふらふら蛍と怪物の間に歩み出て刀を構える。


 違うのに。そうじゃない、蛍の望みはそれじゃない。


(逃げてよ)


 戦っても絶対に勝てない。嬲り殺しにされるだけ。だから、だからお願い、


「――――――!」

(逃げてったら!)



 蛍が叫んだのと、時雨がそいつを斬り捨てたのとは、ほとんど同時だった。



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