第10話 僕と母

 忘れた頃に思い出す。

 あの光景。

 カーテンが揺らぎ、光の残像を照らす。隣には貴方がいた。僕の愛した人。僕を愛せなかった人。僕が劇的を求める原因。

 唐突だが、突然だが、母のことについて語ろう。

 僕は彼女のことについて語る必要がある。

 何故なら彼女に立ち返らなければ、僕は、きっと、死んでしまう。

 僕が生まれた家には母と父がいた。その時は、まだ、妹は生まれていない。

 今よりも、世界をずっと大きく見れていた僕は、何にでも興味を示す子どもだったらしい。父がそう言った。僕は母に寄り添うことを望んでいた。

 母はそんな僕を拒み続ける。

 あれは、小学校に上がる前の頃。初めは、僕が何か母に対して不快また、不都合なことをしたから嫌っているのかと考えることもできず、ただ分からず分からず、肩を大きく震わせ、泣いていた。

 母は、そんな僕を叱責はせず、虚な瞳で、まるでそこには、はなから何も存在していないようにしていて、とてもとても怖かったことを覚えている。

 高校生になった時、母が亡くなり三年が経った時、父は話をしてくれた。

 母が親から、僕の祖父母から暴力を受けていたこと。

 祖父母と言っても会ったことはない。

 母は虐待の後に施設に入ったからである。

 父は、母は子どもとの距離感がわからなかったのだと言った。

 だからといって、僕の愛はどうすればよかったのだ。愛。愛情。言葉はとても陳腐だが、幼少期の僕を悩み殺すには十二分だった。

 そこで、当時のぼくは、色々なことに興味を向けるフリをすることで解決されない穴を補っていたのかもしれない。

 しかし、それでも、愛のはけ口は閉ざされ、吐き出せない、やるせない気持ちになっていくのは時間の問題だった。

 そして、疲れた僕は、無関心という逃げ口を作った。いや、初めから、逃げ口などでなはく、それが本当らしかったのだろうと錯覚した。


 僕は愛を見失う。


 小学校2年生の夏休みに入る少し前の話だった。その日から、僕は母を認識しなくなり、それがいつしか自然になっていってしまったのだ。

 父は、そんな僕を大切にしてはくれていたが、僕は父が母の味方という思いが払拭しきれず、父に対して素直になれなかった。

 そうして、歳をとるごとに、愛にのどが渇いていた子どもは、渇きを忘れていった。忘れることが怖いという感情も忘れていった。

 無関心な僕は好意を寄せられても、答える言葉全てに心はこもらず、他人を傷つけてしまうようになった。それも昔のことだけれど。

 だから、今になって、蘇らなくていいんだ。初めからなかったんだ。そう言い聞かせても、奈々丘春の表情が頭にこびりついて、酷く悲しくなる。

 小学生の時、彼女と出会った時から、抱えてしまった靄。中学生の時には身を潜めていたが、高校で再会を果たしてしまい、また、靄が浮かび上がる。どれだけ、空気をかき分けても消えてくれはしない。

 警鐘が鳴る。

 それを手にしてはいけない。いけないのだ。もう、求めてはいけない、と。


 ベッドから身体を起こして、近くにあったペットボトルに手を伸ばして、キャップを開ける。中の液体を飲み干して、捨てた。部屋の電気を切って、誤魔化すように眠りについた。

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