第9話 訪問
例の野球少年の家の前にやって来た。例の藤崎祐樹の家だ。
インターホンを鳴らす。くぐもったインターホンの音が外にいる僕たちのところまで、聞こえてきた。音の余韻は終わり、ドアがガチャリと音を立て、開いた。
「はい、、、。どちら様でしょうか」
出てきたのは、藤崎祐樹の母親らしき人であった。髪は乱れ、頬はややこけている。化粧をしていないのか、目の当たりの暗さと相まって、瞳が窪んでいるように見えた。ストレスという言葉が実体を持ち、憔悴しきった女性にさらに追い討ちをかけるように、降りかかっているように感じだ。その人の悲しみが見えない壁で襲ってくる。圧縮された空気が行き場を失い、窒息してしまいそうだった。
「僕たち、祐樹くんの友だちなんですけど、ちょっと顔を見たくてきたんですけど、今いますか」
一瞬、窪んだ瞳が輝き、頬が緩んだように思えた。が、すぐ元に戻った。
「お友だちだったのね。祐樹の母です。」
ペコリとつむじを見せる。
「来てくれてありがとう。うれしいわ。でも、あの子登校日の後から部屋から出てこなくなったの。今家にいるけれど、会うのは難しいと思うわ。」
だって、私ですら会えていないのだからと言わんばかりに、視線を玄関の下あたりにやった。影が落ちた。影は輪郭を伴い、トグロを巻いて彼女にへばりつく。
僕は、なんと声をかけるべきなのだろうか。行動の前に思考が壁を作る。
逡巡しかけたそのとき、横に立つ少女の言葉が貫く。
「それでも、会いたいんです。戦っている祐樹くんは一人です。だれかと、なにかしらで繋がっていないと、本当の独りの戦いになっちゃうと思うんです。お母さんが諦めていないように、私もけっして諦めません。今、無理でも。会えるまで何度も何度でも、会いにきます。祐樹くんにもそう伝えてもらってもよろしいでしょうか」
厚い空気の層が破れた。
彼女は、柵や障壁を軽く跳び越えるだけの脚力を持っている。奈々丘春という少女は、空気を文字通り変えてしまえる高校生だったのだと改めて、理解させられた。
理解した後で、僕が持っていた言い知れぬ不安は霧散していき、また、藤崎祐樹の母から黒色は消えた。ように見えた。
初めから、他人の感情を身勝手に決めていたのは僕だったのだ。藤崎祐樹の母は目にしわを寄せる。
「そう。わかった。あなたたちがここまで来て、祐樹に会いたいと絶対会いたいと言ってたことは、必ず伝えるわね」
優しくも力強い、言い放つ彼女。先程の弱々しく衰弱しきった姿はもうどこにもない。猛々しくも、深い深い愛を育む「母」の姿がそこにあった。
「ありがとうございます。それでは、失礼します」
短く礼を言い、僕と彼女は祐樹の母が家に入ったあとの見送ると、踵を返し帰路に着く。余りにも短い時間であった。信号が青から赤に変わる時間のように、長く感じられたものが実は短い季節であったということを実感した。
しかしながら、時間が長ければ良いと言うものではないことは知っていた。
―回想―
僕は、誠が高校一年生の時の生徒会総選挙の演説に言っていたことを思い出す。
「なあ、会長はあの三人の中で誰になると思う?」
体育館の冷たい床に腰掛けていた僕に、誠は声を掛けてきた。生徒会選挙は、全校生徒を体育館に集め行われる。僕と誠は隣同士で並び座り、演説を見届ける。
「さあどうだろう、あの三人じゃ一番左の彼じゃないかな」
僕は演説の既に終えた一番左側のパイプイスの男を指し示した。一見、堅実な見た目をしており、妥当かと思えた。
しかし、誠は彼を一瞥して、「あれはないな」と言った。
自身の検討が外れたと落胆はしなかったが、なぜ即答できるのか知りたかった。
「どうしてだい?」
「あれの話覚えてるか?」
あれと指しているのが真面目な彼であるということは分かった。
「なんだか、すごく高尚なマニュフェストを語ってた気はするよ」
「具体的には?」
「うーん」
そこで言い淀む。僕は決して話を聞いていなかった訳ではない。しかし、思い出せない。うーむ。
「つまり、あいつの話は的を射ていなかったんだよ」
「そうなのかなあ」
「そうだよ、何故なら果たしてお前はあいつの話を覚えていない。演説では民衆に声を届けることが前提だ。それなのに、大切な民衆に話が届いていないんだ」
「まあ、そう言われたらそうなのかもしれない。だけれど、的を射ていなくとも素晴らしい人格者かもしれないじゃないか」
「確かにそこの部分は否めないかもな。でも、人をまとめる立場の奴は人格者よりも、今から何をするのか、それはどういった理由から行うのか、具体的な方策の三つを簡単に誰にでもわかりやすく話さなければ、どれだけ人格者であろうと、容易く信じ、頼りたいと思えるか?」
少し沈黙をする。確かに言われてみたら、ぼくたちは「素晴らしい」トップを求めるのではなかった。
具体的に簡単に即座に話ができるトップの方が僕ら的に安心するのだ。僕たちはいつでも安心をしたい生き物だ。
「お前の沈黙が答えだよ」
そのあと話したことはぼやけた景色のようで、うまく思い出せない。確かなことは、生徒会長に当選したのは一番左ではなかったことだった。
―回想了―
つまりは、奈々丘春は藤崎祐樹の母の的を射ていたのだ。短くも確かな言葉は、耳ではなく心に直接届いてしまう。良い言葉でも悪い言葉でも、だ。
「君は、本当に大した人だね。だから、誠は君と友達になろうと決意したんだろうね。僕は君のことをやはり、未だに知ることができていなかったことを思い知ったよ」
隣を歩く奈々丘春に目は向けず、空に言い放つように言った。いわゆる、照れ隠しだったのかもしれない。夕陽は山へ帰っていく。外灯がポツリ、ポツリとつく。夜の準備が始まった。
「私は大してすごいわけではないよ。それに、私のことを君が知らないように、私は君のことを知らない。私は君をもっと知りたいな。だから」
一つ間が空き、奈々丘春の顔が僕の方にやられた。そして、僕も奈々丘春を見る。息が、とまる。
「いや、なんでもない。気にしないで」
何か言おうと思うが、出てくる言葉はことごとく、シャボン玉が弾けるように浮いては消える。それから、お互いは沈黙になり、途中の同じ帰り道まで、話さなかった。
「さようなら」
「さようなら」
また明日の声が小さかったような気がする。
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