第15話 荒瀬夏彦の回想

―荒瀬夏彦の回想―

 いつかは忘れたが、その日は珍しく母と二人で水族館に行った。父と行くはずだったが、父の方が仕事の急用により、かわりに母と行ったのだ。父はこれがきっかけで、母と僕が仲良くなれるかもしれないという思惑もあったのかもしれない。それが、最後のお出掛けだったのを鮮明に覚えている。

 ガラス張りの向こうの魚が自由に泳いでいる姿は美しいという感情を子どもながら思っていた。ふと、以前魚図鑑で読んだ魚が目の前を素通りした。その魚の名前を口に出していた。母はこちらを、覗き込んで少し瞳に光を宿しながら「物知りなのねえ」と言った。「調べるの好きだから」無愛想に僕は答える。「そっか、お母さんなのになにも知らないのね。あなたのこと」母は巨大な水槽にまた目を向け直して、呟く。僕は母の顔を見上げていたが、眉根をひそめて、悲しそうにも残念そうにも見える表情をしていた。少し、心が窮屈に感じた。


 「これから、いろんなことお母さんに教えてくれないかしら?あなたのことをこれからはよく知っていきたいの」


 僕は、その言葉が少し、信じられず、固まっていた。長いような沈黙の後僕は首肯する。


 「わかったよ、約束する」

 「ありがとう」


 母の感謝の声は普段と変わらない、抑揚のないものだった。

 しかし、小さくて聞こえづらかったが、母は、親子なんだからと呟いた気がした。

 その日の水族館は混んでいるということはなく、僕と母はゆっくりと館内を回れた。その日、お母さんとようやく距離感が掴め、縁が繋がったと思った。

 矢先、母の病が見つかった。膵臓の癌だった。見つけるのが遅すぎたらしく、延命は望めない状態だった。亡くなる前の日に母がかけてくれた言葉があった。

 それは、僕が心の奥底に押しやった感情を優しく、拾い上げてくれるものだった。


 「あなたが生まれた時、私はあなたを愛せるかわからなかった。蔑ろにした部分も多くあったと思う。本当にごめんなさい。でも、あなたが生まれた時、あなたの声を聞いた時、私はとても嬉しかったのよ。あなたが生まれたことで私は救われた気がした。私の中にも愛情はあったんだ、て。大切でかけがえのない私の息子。今まで本当にありがとう。今も、これから見えなくなっても母は、永遠に夏彦と夏美を愛し続けています」


 母は笑いながら、最期に僕の名前と妹の名前を呼んでくれた。

 僕は、母を愛していたことを思い出した。

 僕は、愛せたんだ。

 きっと、こんな大切なことを思い出せなかったのは、感情に蓋をして、思い出さないようにしていたのだろう。愛した人の死が怖くて、僕自身が傷つくの恐れたから。  

 そして、愛した人が死んだことから、愛することは他人を陥れて存在を消してしまうほど、ひどいことだと解釈をしたのだろう。

 愛する人を失い、愛することを恐れ、愛を求めなくなった。

 愛から逃げたくて青春というチープな物にすがる日々。

 しかし、今、春に認められたことで、ようやくあの日泣いていた自分を許せた気がした。


 悪魔の声は母さんの声に少し似ていることを思い出した。


―回想了―

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