第7話 蔵原香織
翌日の月曜日
奈々丘春に真砂との会話から得られた情報について話すべく、放課後の図書室で本を読みながら、奈々丘春の図書委員会の会議が終わるまで待っていた。
暇を潰そうと思い、おもむろに図書館内を散策する。
ふと、絵画が特集されているコーナーの一角に足を運ばせると、ある本が目についた。その本は背表紙が破れかぶれになっていて、読めないでいた。手を伸ばす。ページを開くと絵が描かれており、最初の文章はこう書かれていた。
「私たちはどこからやってきて、私たちは何者で、どこへ向かうのか」
なぜかその一文は心にすうと溶けていった。
身体を満たす言い知れぬ浮遊感。今にでも宙に浮くそんなイメージが浮かんだ。
本を棚に戻すとき、はらりと紙が落ちた。紙を拾い上げるとそれが本の貸し借りが書かれたカードだとわかった。なんとなく貸し出し人を見る。目に一瞬力が入る。身体にチクっと刺されたかのように硬直する。
「鳥海誠 」
去年の春頃に借りていたらしい。これも何かの縁なのか。はたまた、偶然なのか。しかし、彼がここに居たという足跡ではある。いや、考えすぎか。ハードカバーに包まれたそれを元の場所に戻した。ガラガラと軋む音が聞こえた。音の方を見やると奈々丘春感情の読めない顔でこちらを見ていた。
「終わったよ」
「お疲れ様」
一緒に円卓に着いた。昨日の真砂との話を掻い摘んで奈々丘春に話した。奈々丘春は眉間にしわを寄せ、難しい顔をした。
「何で私たちを紹介してほしいんだろう」
その一言で確かにそうだなと思った。何故今になって僕らに会いたがっているのか。真砂と話していた時は不思議には感じていなかった。何故そんなことに気づかずにいたのか。
それだけ、切羽詰まっていたのだろうか。今になってはわからないことだ。
目の前の奈々丘春は困り顔をしている。眉を下げている。それすらも美しいのだなと感心してしまう。美しいがそれだけだ。
「わからないから会ってみて考えるのはどうかな」
「まあ、何か手がかりがあるかも知れないしね」
嫌いな食べ物を口に含んだような表情で奈々丘春はそう答えた。話題を変えるべきかと思い誠のことについて話を出す。
「誠の知らない部分って、多くあったんだなあ」
話題を無理やり変える僕。合わせてくれる彼女。
「私たちはいわゆる友達を見れていなかった訳じゃなくて、その人の多面の一面を知らなかっただけだと私は思うわ」
淡々と述べる内容は熱を帯びており、図書館中を見渡した。
「なるほど、その考え方はなかった。とても素敵だ」
納得して心の中にピースがハマる感覚だった。
「君は少し偏見家な部分があるね」
歯を見せて笑う彼女は強くさくらをイメージさせる。儚くも一瞬の中で輝く。そんなイメージ。暖色系と一括りにはできない笑顔だ。あの時のままだ。お互い。あの夏のうるささを忘れない小5の頃。
「全くもって、そのようらしいね」
自分に呆れたように両手を挙げで、わざと首をカタツムリのように肩に引っ込める。なんだか久しぶりだな。この感じ。時間の波の上をボートで動く、身体はだらしなく崩れてただ空を見上げる。緩やかだ。
「それじゃあ、いつ行こう?」
僕は優しい口調で言う。
「でも場所はわかっても急に行ったら失礼じゃない?」
「真砂さんが取り繕ってくれるらしい」
「そっか、それなら安心したわ」
「うん、安心だ」
口角を上げて子どもをさとすように僕は言った。
「早い方がいいと思うけど、今週の土日は家の用事があるから、来週とかは?」
奈々丘春は提案する。
「それなら来週の土曜日に行こうか」
「ええ、そうしましょう」
首肯する奈々丘春。春は流れていく。
香織という女の子は、病院のベッドの上で飽きることなく折り紙を折り続けられる少女だった。
香織と出会った場所は大きな国立病院だった。
白く角ばった病院はあまりにもシンプルな見た目で圧迫感を覚える。しかし、中に入るとそこはやはり普通の病院だった。空調が効いており人工的な風が肌を撫でる。無機質な匂いが鼻腔を通る。几帳面に揃えられた机の中を覗き込んでいるような錯覚を覚える。彼女がいるのは3階の角部屋であった。廊下を歩き続け、ようやく彼女の病室にたどり着いた。
戸を指で数回ならし、入ることを確認する。
「はーい」
若い女性の声が聞こえた。手をかけた横開きのドアは滑らかに滑る。シャワー室の横を通り過ぎて廊下側から足先だけが見えたベッドに近づく。ベッドの上では折り紙が散乱した台の上で小説を半分開いた状態でこちらを見る少女がいた。
ショートの髪型と大きな瞳のせいで実年齢より幼く見えた。笑顔の素敵な顔はきっと万人ウケするのだろうなと僕は感じた。
「こんにちは。はじめまして蔵原香織です」
女の子は首を引き言う。
「こんにちは、僕は」
「大丈夫、名前は彼から散々と言うほどでもないけれど教えてもらってたわ。もちろん、隣の女の子もね」
香織は手のひらをひらひらと見せて、言葉を被せながら言う。
「そうですか」
何か話を続ける種を探すが特に思い浮かばずしどろもどろしているとふと気づく。
「そういえば、何故、折り紙を折っているんですか」
本当は何故、入院しているのかについて聞こうとしたがはばかれた。
「暇だからでもあるし、好きだからでもある」
「なるほど」
「そして私は盲腸でもある」
「だから入院を」
「そう」
歯切れの良い会話が終わると少しの沈黙。
「それで、君たちは何を知りたい?」
彼女は核心をつく。
「それは」
目を病室の端々に動かせ必死に取り繕うとするが、動きは落ち着かない。空調が程よく効いているはず部屋でじんわり汗を背中に垂らす。
「誠、鳥海誠が何故飛び降りたのかを聞きたい」
白状するかのように息を吐き言った。視線は奈々丘春に向けて、同意ともつかない頷きを返された。
白い壁に目を向けてから、遠い過去を思うように静かに目を伏せる。鳥海誠の死。あの日の出来事は目の裏に焼きついたままだ。時間が自分の中から抜け落ちたかのように、息が止まる。
背中から這い上がろうとする黒いどろりとしたもの。人間の記憶は改竄しがちではあるが、今回ばかりはあまりにも鮮明に鳥海誠の死を想起させる。
鈍い音とともに落ちた彼。地面に流れる赤色の液体。微かほどにも動かない心臓。咲き乱れる桜の花。時はどこに連れ去られたのだろうか。
眼前に佇む女の子は憂いを帯びた表情で僕を見上げる。
「君たちは大いなる勘違いをしてるのかもしれないね」
女の子は言った。
私、奈々丘春は今更ながら、香織と会ったことを後悔していた。
鳥海誠の知らない部分を知っている彼女はどこかミステリアスで彼を連れて行ってしまうようだったからである。不安とは裏腹に話は進んでいった。香織は私たちに「大いなる勘違いをしている」と言った。
その言葉を理解するのに少し時間がかかった。
大いなる勘違い?どういうことなのだろう。分からない。分からないは不安に繋がる。不安は不安定だ。不安定は心を風船のようなに軽く宙ぶらりんな気分にさせる。
もどかしさのあまり声を発する。
「勘違いってどういうこと?」
焦りは声を震わせ少し早口になる。彼女を訝しむ。彼女には何が見えているのだろう。
「私、記憶と要約が得意なんだ。入院してる理由は本当はそれなんだ。」
唐突に話を変える彼女。私は自分の影を踏むもどかしさを覚えた。眉根を下げた私の表情を読み取ってか、香織はつけ加える。
「つまり、これまで話してきた人の話の内容を簡略化して出力できる」
ますます靄がかかる。
「つまりはどういうことなの?」
「私は鳥海誠の秘密を知っている」
目は強く輝いていた。瞳の奥の藍か紺かわからない色が煌々と輝く。
「君たちの知りたいことを私は知っている」
濡れた瞳のまま香織は言った。
「とどのつまり、君は僕たちの知らない鳥海誠を知っていて、その面において僕らが勘違いをしていると言いたいんだね」
彼は横から優しく、がむしゃらに怒る子どもに対して先生が教え諭すように話した。
「まあ、そんなところかな」
鼻白く彼女ははにかむ。二人の会話は遠くの宇宙の人の会話のようだった。もどかしさが背から這い上がり、喉に、そして、次の瞬間には音として発せられていた。
「だから、私たちは何を勘違いしているの!」
私らしからぬ、奈々丘春らしからぬ口調と音量は部屋の中を走り回った。病院ではご静かに。とでも言うように、ニコニコしながら口元に人差し指を添える。
長閑な土曜日の昼下がり。
大声を出す彼女を初めて見た。
驚きと共に、彼女の完璧の壁から彼女の人の部分を見られたことが場違いではあるが、そこはかとなく嬉しかった。
僕も気になる。僕らの勘違いを知りたい。
じっと香織の方に目向ける僕と奈々丘春。ベッドの横の机の上で秒針が時を噛む。空調の小さなジェット気流は部屋を循環する。病室の外廊下からは看護師の雑談が聞こえる。何分だったのだろうか、いや、実際の時間は数秒もたってはいないのだろう。
香織は静かに息を吐き、上目遣いでこちらを見て、口を開いた。
「彼は自殺を何度だって考えてきた。しかし、自殺はこの時期のタイミングでやることは願っていなかった。望んでいなかったんだ。」
「いつかは自殺はしたかったけど、不慮で自殺してしまったてこと?」
奈々丘春は恐る恐る自分の矛盾した答えが正しいのか答え合わせをするように、震えた声で言った。
「いや、これは他殺だと私は睨んでいる」
「確信たりえる、根拠はあるんだね」
顎をひき険しい表情で僕は香織を見た。香織は息をのみ、間を空ける。
「彼はある少年の相談していた。その相談が原因だと思う」
じっくり噛み砕くように香織は口を開いて言う。
「相談?」
僕と奈々丘春は顔を見合わせて、次に香織を見て同じタイミングで疑問を投げかけた。
「そう、相談」
そして、香織は彼の名前を告げたのだった。
藤崎祐樹。僕と誠の共通の友人だ。
藤崎祐樹は野球少年として僕と鳥海誠に認知されていた。
彼の存在を語ることは難しい。何故なら、彼との関わりは高校1年からのため、多くを語れないからである。
ただし、時間が人との関係を濃密にするのではなく、人自身が関わりに意識を求めた時に人間関係の濃密を完成させるのだと考えている。
つまり、藤崎祐樹はれっきとした僕の友人であり、親友だ。
僕は彼を真っ直ぐな人間だと思っている。野球をしてきた彼は、中学ではエースでピッチャーをしていた。だが、高校生になると肩を壊してしまい、野球を続けることが難しくなった。
藤崎祐樹は肩を壊しても野球部をすっぱりやめた。並みの精神力ではないと思っている。
『本当にそうか?もうすでに、別の意味で、壊れていたのではないのか?』
また、奴がささやく。お前はまた、本質という脆弱で曖昧な言葉に助けを求めるのか。違う。本質を追うな。本質なんてものは泡沫の記憶に過ぎない。本質はコロコロ変わる。藤崎祐樹という男をしっかりと見るのだ。現実は現実にしか存在し得ないのだから。
「一体どんな相談内容だったの」
私は自然に疑問を言葉にしていた。
「恋の話」
香織はバツが悪そうに答える。
「これ以上のことを私は知っているけれど、しかし、それは私から言ってはいけないことなの。だから、直接何があったのかを野球少年藤崎祐樹に聞いてみて。きっと、今回の殆どの事柄が解決して、自分たちが本当は何を見失っていたのかを知ることができると思うわ」
香織は、二度と戻ることのない過去をみながらそう言った。蔵原香織という少女はこれまで多くのことを見通してきたのだろう。そして、見通したものは変わらない。だから、鳥海誠の死についても、彼女は必死に抵抗したくてもできない自分を死ぬほど歯がゆく思ったのだろう。
よく見ると蔵原香織の目は赤く腫れていた。
「本当は折り紙なんて趣味でもなんでもない。彼の死を止められなかった自分の贖罪なんだ」
香織の頬に雫が伝う。
よく見れば、折っているものが千羽鶴のように連なっている。
「君たちは、鳥海誠について知る権利と知らなければならない義務がある。彼は見つけられたがっている。死んだいまでも」
少しの沈黙が流れる。ふと、香織の表情からは悲しみが滲み出ていた。
「彼を見つけてあげて欲しい」
声を振り絞る彼女を見て私は、目頭が熱くなった。この人は、本気なんだ。根拠などない。人の感情に細かい根拠などいらない。この人の気持ちに絶対嘘はつきたくない。この事実だけが有ればそれでいい。
奈々丘春は心の中で決心した。
友達が自殺を考えていた事実があまりにも現実的で、胸の辺りに穴が空いた気分だ。病院を後にした僕と奈々丘春は、駅の近くの公園のベンチに腰をかけていた。
「今度、祐樹の家に行ってみようと思う。これで決着になればいいけど」
「藤崎君学校で会えないの?」
「今あいつは学校に来てない。はじめは、鳥海誠のことがショックでこれてないのかと思っていたけど、少し違うことがわかった」
「私もついていってもいい?」
「もちろん」
春の終点はまだまだ遠い。
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