黎明の四月
泉
第1話 日常の瓦解
拝啓
この手紙が君たちの手に渡っているということは、僕に何かあったのだと思う。詮索はしない。早速、本題に入るとしよう。
読んでいる君たちに問いたい。
時として悪魔は勇気をもたらす。
誰かが僕にそう言ったのを憶えている。初めは何か鼻につく比喩だと思い流していた。だけれど、無視できない状況が訪れてしまった。そこで、それがどういう意味なのかを僕なりに考えてみた。悪魔は、人間の奥底に眠る存在で僕に、問いかける。「お前は一体何者なのだ」と。人の本性を明るみにさせてしまう問い。この問いに答えを出してしまえば、きっと、他者を傷つけることがある。人の本性などおおよそきれいとは言えない、他者を顧みないことなのだから。悪魔に唆された愚者がだした答え。
しかしながら、それは悪魔が出した回答に他ならない。悪魔は人の本性を出させて、本当に望むモノを残酷に、白昼のもと、自らの言葉で告白させる。どれだけ無謀な物でも、だ。だが、こうも言えるのではないか。人は人の本望をひた隠し、同調、協調まみれの世界を歩いて行くのがどうしようもないこの世の常になりかけている。いや、もう既になっているのかもしれない。そこで、悪魔の問いに答えた愚者は、声に出しては他人から疎まれるかもしれないが、それでもその人の本望であることを引き出すことができるから、本物の勇気をもち、信念をもつことができるのではないかと。他人に押しつぶされて型にはまらない勇気。自分が大切にしたい信念。このように考えてはみるが、まだ、足りないように感じている。僕はまだ幼く、結論を出す事は早計だと思う。
そこで、この問いを未来の僕と友に託そう。悪魔の本意。希望的観測ではあるが、僕の友はきっとやってのけてくれるだろう。なんたって、僕を認めてくれた数少ない友人なのだから。これ以上は何も言うまい。長くなりすぎた。ひとまずはここでお終い。意味が分からない内容ととられてしまうと思うが、是非忘れないでほしい。僕のことを、そして、君のことを。
かしこ 鳥海 誠
春は涙の季節だ。桜の時期になると、多くの別れを運び、人はどうしようもなく、涙してしまう。涙を形で表したり、心を涙で満たしたり。そんな季節だからこそ、どうしようもなく憂いという部分がでてきてしまうのは至極真っ当なのだろう。
僕はそんな世界を好きになれない。
他者の寂しさの糸が自分の方にも伸びて繋がっている気分になるからだ。まぁ、勝手もいいところなのだろうけれど。川の水面に映る桜とハイライトのない自分の姿を見下ろして嘆いてみる。
今日から高校二年生になる自分はどうしようもなくリアルを感じさせる。劇的に世界は変わらない。当たり前だ。だが、何処かで僕はこの平々凡々な生活を抜け出したいのだろう。青春がしたいのだ。実際は、青春という淡い言葉に逃げるだけで、青春を僕は知らないし、何者にもなれない自分を嫌になっているにすぎない。きっと、いつか、大人になった時にこの気持ちさえ忘れてしまうのが何となく胸を締め付ける。淡く、一息で水面に広がる水彩絵の具のような気持ちは、春風にさらわれた。
青空の向こうは何色なのだろう。風はどこへ進むのか。春は、憂鬱だ。
始業式の放課後の教室では緩やかに夕日の光に包まれ、輪郭を不透明にする。
空気が少し肌寒い。それでも、ゆったりと出来る。
校庭の桜の花びらが舞う場面から目を離し、手元の活字に目を落とす。外からは、運動部の掛け声がこだまする。奈々丘春はそっと文庫本のページをめくる。頬杖を左から右に変えて、顔を動かす。瞳は文字を飲み込むように、手元の文庫本に釘付けだ。
学年が変わっても彼女は、落ち着き、自分の世界を纏うことは変わらなかった。
彼女だけが世界からすっぽり切り取られたように。
鼻筋が通り、肌は雪のように白く、瞳は吸い込まれそうなほど大きい、口元は淡い桜色。周囲の人間からは、容姿端麗という認識を持たれやすい彼女である。その一言だけで彼女の体をなせるかは疑問ではあるが。
セミショートの黒髪を風が撫でる。彼女には言葉に言い表せられないほどの魅力を周囲に感じさせる。
教室には、数人の生徒が残る。右端の黒板側に近いところで机を間に挟み、雑談に興じる女子が二人。窓側の後ろから二番目の席では、男子が三人話している。騒音のない、だからと言って無音というほど物悲しくはない場所は彼女にとって、最高の環境と言えるだろう。
奈々丘春は心の中で満足の笑みをこぼした。人と関わることは決して嫌いということではない。しかし、この空間はとても愛おしい。手元の文庫本をハタリとめくる。犯人が暴かれる場面である。主人公は華麗で鮮やかに推理を披露して、犯人を追い詰めている。周囲の穏やかさに反して、心は騒ぐ。体が落ち着かず、今にでも動き回りたい衝動が背中から登ってくる。よし、次の頁でこの長くも愉快な旅は終わりを迎える。主人公の助手のように本を読んでいたため、主人公との別れは物悲しく感じる。本を読了する間際というのは、卒業の時の気持ちと同じような、悲しみと開放感と言い知れぬ未知の喜びで胸をいっぱいにしてくれる。楽しさと別れの寂しさを胸に秘め手をかけた。
「おい、お前らもう下校時間だぞ。さぁ、帰った、帰った」
生徒指導を担当している教員の声で、一瞬身体が固まった。世界は現実へと引き戻された。耳から聞こえてくる音が鮮明になり煩くつんざく。頭の中にあった風景や人物たちは文字に戻っていった。まるで百メートル走のゴール直前で呼び止められた気分だった。心の中の花火は不発とかした。苛立ちが溢れるが帰ってからも読めるし、決してそのことで死ぬことにはならないのだから大丈夫だろうと心を切り替える。極端だが、それが一番合理的だと奈々丘春は考える。
荷物の少ない鞄に文庫本をしまい、席を立つ。心をむず痒くして、廊下を歩く。廊下は夕陽をたたえている。早く家に帰りたいため、少し早足になる。下駄箱の前に立ち、靴を履き替えた。足元を柔らかい風が撫でる。春の風だ。玄関を出て家で本を読むことを考え、少しニヤつく。瞬間、人が目の前で落ちた。落ちたことを認識できたと同時に、鈍い音が耳に飛び込んでくる。
『日常がどれほど素晴らしいものかを君は、非日常を目の当たりにして、ようやく気付けるだろう』
読んでいた小説の主人公が発していたセリフは思い出されない。思考より先に自分が叫んでいたのに気づいた。目の前が白んで、靄がかかり、記憶しないよう抵抗する。が、虚しく、それは現実である。忘れられない春の思い出は、桜のように淡白な色ではなく、冬の夜の深淵だった。膝から崩れ落ちる彼女の姿を見ながら、桜は今日も咲いている。
僕は放課後の教室に残っていた。親友である鳥海誠を待つためである。鳥海誠は先生に呼び出しをくらったらしく、待っていてくれという旨を僕に伝えた。仕方ないと思い、教室で暇を潰している。
今日は生憎、本を持ってきていなかった。しょうがなくスマホをいじる。久々に開いたアプリでは、面白そうなイベントが開催されていた。が、とかくスマホのアプリはすぐに飽きてしまい、閉じた。
暇を潰したい衝動に駆られる。三大欲求と言うものが存在するが、多分それらの欲求に「暇を潰したい欲」というものが入ってもおかしくないんじゃないか。。
ふと、校庭の隅を眺める。静かではあるが、力強い桜が髪をなびかせるように揺れている。何となく懐かしい気持ちになる。桜がゆっくりと落ちる速度は、人生の歩幅に似ているところがある。ゆっくりではあるが、着実に地面へと落ちている。
天気はうっすら雲の化粧をした青空が広がっている。
席に掛けている背もたれを、カタツムリのように下に這いつくばらせた。自分なりの心地良いポジションを探り終えたら、瞼を下ろした。寝てしまおうか。何となくそんなことを考えながら、ポケットに両手をいれ、ちからを抜く。数分がたったであろう。教師の大きな声が聞こえた。
「下校時間はとっくに過ぎているぞ、さっさと帰れー」
身体が硬直する。少し身体を横に揺すり、起きる。はぁ、仕方ない帰るか。後で誠に言えばよいだろう。気持ちがやっと睡眠に集中しそうだったこともあり、腹が立つ。まぁ、いい。鞄を肩に掛け、立ち上がってあくび、と同時に窓の外で影が見えた。
見えた途端に強く鈍い音が下から聞こえた。目の端に見えた影が人だったことに気付かされるのは、窓の下を覗いた時である。その正体を目の当たりしたときには身震いをしながら、僕は思わず嗚咽を漏らした。尚更その人物が親友である鳥海誠であったことで嗚咽の音は加速する。
肺が苦しくなるが、嗚咽は止まってくれない。
友達が地面に落ちた。
事実はシンプルなことであるはずなのに、思考は追いついてくれない。ただ、教室の窓際で嗚咽を漏らすことしかできないでいる。周囲の生徒は叫喚し、教師は何やら叫びながら教室を出て行った。目の前が二重、三重に重なり、端から暗転していく。桜はそれでも綺麗に佇んでいる。
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