旅立ちの日。……かあさん。
十年後。
三月二十七日。
窓から見える海。優しい風。それがひゅうと水面を撫でると、小さな白い波が立ち、それがまるで白ウサギのように海面を走りまわる。そんな風がウサギを連れて窓をカタリと揺らし、部屋の中に吹き込んでくる。
匂いでわかる。
南風だ。椅子から立って、窓を開けると、風が頬を優しく撫でる。まるでウサギの白い毛並みのようだ。
カナリア帝国の春は故国クリード王国と比べてとても暖かく優しい。
遠い過去の頬を切るような寒風を思い出しながら、懐かしくなってふふっと微笑んだ。
こんな日に海岸線を歩いたら、きっと心地よくこの金色の髪を揺らしてくれるだろう。
あとで散歩に出よう。
ああ。
幸せだ。
カナリア帝国に嫁いだメイベルは、帝国皇帝カイエルに愛され、とても幸せに暮らしましたとさ。
めでたし。
めでたし。
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「いや! ちょっと! 待ったあああ!」
そんな幸せのナレーションは公爵のちょっと待ったコールにさえぎられる。それもそうだ。夫婦揃って猛反対していた縁談が、あれよあれよと言う間にまとまりそうになっているのだ。妻であり母であるクーナの涙を見てこの二人は何も思わなかったのだろうか。と、公爵は思わず憤った。その結果がこの叫びである。
叫びきった公爵は息を吸いながら目の前の皇帝を見る。
実際に相対して、会話して、感じた印象で言えば、噂に聞いていたような悪辣、悪虐な人物像ではなかった。が、単身他国の公爵家へ先触れもなく乗り込んできて、そのまま親の反対を押し切って娘を自分の国にさらっていこうとするその姿勢は、正しく傍若無人であり、全ての噂が捏造ではない事を証明している。
「どうした公爵?」
叫びきった後、意味深に沈黙している公爵を見て、皇帝が問いかける。その声には少しの笑いが含まれていた。
「どうした? ではございませぬ。皇帝陛下、このまま娘を、メイベルを帝国に連れて行こうとされておりませぬか?」
「そうだな」
「なりませぬ」
「ならぬか?」
ならぬわ! すっとぼけやがって! わかってる癖に。と、内心でタウンゼン公爵は歯軋りをするが、さすがに他国の皇帝に対して、砕けた態度で構わぬと言われたとて、それをそのまま口に出すわけにはいかない。なんと言ってやろうかと思案している横で、母、クーナ公爵夫人が口を開いた。
「旅の支度などもございます。親子の別れもございます。先ほどもお話ししました通り、我ら親子の失われた時間は大きく。それを少しでも埋めさせていただきたいのです。それをご理解いただきたい」
静かに、丁寧に、だが有無を言わせぬ力を込めた言葉と共に、小さく頭を下げるクーナを見て、皇帝は苦笑いを浮かべて答える。皇帝本人とて実際にこのままさらっていけるとは思っていなかった。もちろんさらっていけるのであればさらう気は満々であったが、それでも反対を押し切って、というのは無理筋である事は重々承知していた。
しかしそんな事はおくびに出さずに。
「母は強いな。わかった。我が帝国にメイベル嬢が訪れてくれると言うのであれば、今日の今日で連れ去る事はせぬと約束しよう」
「寛大なご配慮、感謝いたします」
クーナが頭を下げる横で、すっかりと交渉役をとられる形となったタウンゼンも静かに頭を下げている。そんな両親を見つめるメイベルはいつも通りの無表情で、あいかわらず表情から感情を読み取る事は難しいが、それでも心なしかその茶色い瞳はいつもよりもうるるときらめいているように見えた。
「今日であれば、私の帰国の馬車に同乗して共にカナリア帝国に行けたのだが残念だ」
「皇帝陛下はもう帰国されるのですか?」
娘がさらわれる危機を回避して安心したタウンゼンはソファの座りを直しながら皇帝に問いかけた。そんなタウンゼンに皇帝もリラックスした様子で答える。
「ああ、ちと海の魔獣が活発化していてな。それを何とかできないかと考えて、魔獣討伐関連の技術供与の打診で訪れていただけだったからな。そろそろ戻らんと公務がたまっている」
「ご苦労お察しいたします」
我が身に降りかかる仕事量とは比べ物にならない程の皇帝の仕事量を考えると、公務が苦手なタウンゼンには思わず身震いが走るのであった。
「なに、私がやりたくてやっている事だ。苦労などではないよ。まあ、という訳でな、今日の午前中にはこのクリード王国を発たなければならないのだ。メイベル嬢の日程が決まったらエルー神聖国にあるカナリア帝国大使館に手紙をくれ、そこに迎えの馬車を常駐させておくから、手紙が着き次第ただちに迎えを寄越すように手配しておこう」
「は、かしこまりました」
ではそろそろ。と席を立った皇帝は、正体がバレた後もかわらずメイド服のままで、メイドの中に立っているメイベルをあらためて見つめた。なぜかいまだに前髪で目を隠し、頭をさげ、ヘッドドレスで髪色を隠そうとしている。かくれんぼでもしているのだろうか。しかしその長身、金髪、脚、闘気、全てが全く隠れていない。全身で美を主張している。
カイエルは思わずその美しさに目を細める。
「メイベル嬢」
「なに?」
態度は変わらず。
「貴女が我が国を訪れてくれるのを待っている」
「うん」
ちいさくうなずく。
「そして必ず満足させると誓おう」
「わかった」
そっけない。
「ククク」
ろくに自分の顔を見ず、自分の言葉に普通に受け答えするメイベル。そんな新鮮な反応に皇帝は思わず笑ってしまった。自国であれば己に向かうのは畏れ、媚び、諂い、怒り、などなど、ポジティブ、ネガティブひっくるめて強い感情ばかりだった。それに対してメイベルがカイエルに向けるのはなんと言ったらいいだろうか。他と同じなのだ。自分を特別な位置に置かない感情というのだろうか。
それがなんとも心地よかった。
「さて、名残惜しいが行かねばならぬので失礼するとしよう」
「は」
こうやって嵐のように訪れた皇帝は旋風のように去っていった。
公爵家一同での見送りの後、再び談話室でちみちみとサンドイッチを頬張る娘を見て、先ほどまでの事がとても現実だったとは思えずに、タウンゼンはクーナに頬をつまんでくれるように頼むと、そんな情けない姿に少しイラッとしたクーナにその頬を力いっぱいひねられ、涙目になりながら現実というものを思い知らされたのであった。
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四月三日。
皇帝が公爵家を訪れてからちょうど一週間。
ついにメイベルが王都からカナリア帝国に旅立つ日となった。もちろん傷心旅行の体であるから、帰国はメイベルの自由であるし、向こうで何をしてもメイベルの自由である。
しかしそんなのは建前である事は家族もメイベルもわかっていた。なにしろ婚約を申し込まれ、それを断ってからの旅行の提案なのである。そんな甘い話であるはずもない。ただ、極論で言えばメイベルは神の加護があるわけで、武力で言えば小国程度なら一人で滅ぼせる。だからよっぽどの事がない限り心配はない。心配はないのだが。
それでも。
「メイベル」
メイベルの母らしく、普段は無表情よりで、クールな感じの母。クーナであるが、しかし今日はそんな状況ではなく。すでに大粒の涙をこぼしている。名前を呼んだきり言葉を詰まらせた。この一週間がクーナの頭の中を埋め尽くす。
この別れの日まで、クーナとメイベルはベッタリであった。正確にはクーナがメイベルを離さなかった。明言はしていないが、きっと失われた十年を本気で埋めるつもりであったのだろう。
タウンハウスには花が咲き誇る庭園があり、そこはメイベルもクーナも好きな場所であった。
そこで二人は毎日ずっと過ごしていた。
魔境防衛の勤務体系として、メイベルが前線にいる時に公爵家一同は休暇をとり、メイベルが休暇の時は公爵家が代わって前線を維持するという形になっていたため、親子でこの庭園を楽しんだ事は、メイベルが神の加護を受ける以前にしかなかった。
遠い記憶である。
そんな記憶を思い出すように。そんな記憶をなぞるように。
初春のうららかな日の光の下、母娘で美味しいケーキとお茶を楽しむ。
こんな日を。
クーナは望んでいた。
五歳からまともな教育も受けられず、貴族らしい生活もできず、人としての幸せを奪われてきた娘。
神の加護を得たばかりに、王家に目をつけられ、王家に搾取され、国家に侮辱され続けてきた娘。
今は無表情ながらもケーキを口一杯に頬張り、あわててパサパサになった口の中をお茶で潤している。
口の端を魔獣の血ではなく、真っ白いクリームで汚しているのだ。
こんな幸せがあるだろうか。
可能であればこれからもずっと一緒にこの幸せを味わいたかった。
でもそれは叶わない。愛する娘は王国の次は帝国に目をつけられた。なんの因果がこの娘にそんな試練を与え続けるのだろう。実際に会った皇帝は噂ほどに悪い人間には見えなかった。だから今回の旅行も許した。何よりメイベルが興味を示していたのだ。メイベルの意志がなければ絶対に行かせる事など許可しなかった。
そんな愛しい娘が今日旅立つ。
なら。
ならばせめて世界を知ってきてほしい。
魔境に捧げた十年を。王家に掠め取られた十年を。親が守れなかった十年を。
取り戻してきてほしい。
そんな想いを。
全身にこめて。
歩み寄り。
娘を抱きしめる。
熱い。
クーナだけではない。
メイベルだけではない。
二人の感情が愛情が。
熱に変わる。
親子は同じ気持ちだった。
メイベルの感情を熱から感じたクーナの目からは再びボロボロと大粒の涙が溢れる。それは止まる事なく溢れ続け、メイベルの肩を濡らし、腕まで届くほどの量であった。
とても暖かい涙。
「かあさん」
肩まで溢れてくる愛情を感じ、メイベルは母をかあさんと呼んだ。
幼い頃のように。
加護を授かってから母上としか呼んでくれなくなった。王家がそういう風に仕向けたのだ。母の愛などない。家族の愛などない。お前には神の愛しかない。だから魔獣を狩り続けるんだ。国家を護るのだ。そういう風に洗脳し続けた。前線での家族との触れ合いがなければ、その情報だけに囚われ、メイベルは壊れて、キリングマシーンになっていただろう。完全に壊れる事だけはなんとか家族で防げたが、洗脳も不完全ながらメイベルに大きな影響を与えていた。
それは全てへの興味のなさや感情の希薄さとなって現れていた。
しかし今の言葉は違った。
昔のメイベルの。加護を授かる前の。ただの幼子であったメイベルの。
言葉だった。
クーナの一週間の惜しみない愛情がメイベルの十年を巻き戻した。
「メイベル、かあさんと呼んでくれたの?」
「うん」
クーナは後ろに回した手を、メイベルの肩へと置いて、娘の顔をしっかりと見つめた。そしてなぜか大丈夫だと感じた。この娘は大丈夫だと。何かがクーナに語りかけた。それはメイベルの意志だったかもしれない。それはクーナの確信だったかもしれない。それは神の託宣だったかもしれない。
何かはわからないが。
「メイベルは大丈夫ね」
「うん」
「そうね。いってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
メイベルは家族に見守られ、王都を旅立ち、カナリア帝国へと傷心旅行へと旅立ったのであった。
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