少し長居をしてしまった。急ご。

 四月五日。


 朝もやけむる。

 視線を天に投げても神殿の尖塔の頂上は見る事ができない。春とはいえ朝の気温は少し肌寒い。神殿の前に立っているメイベルは寒さに軽く身を震わせ、足元のポンを持ち上げて首に巻き付けて暖をとった。寝ぼけまなこのポンはぐえって鳴いたきり大人しく首に巻き付いた。


 そんな今はエルー神聖国にメイベルが到着してから三日目の早朝である。

 いつの間にやら二日も経過している。この間も皇帝カイエルは首を長くして待っているというのにメイベルは罪な女性だ。とは言っても建前上この旅はメイベルの傷心旅行であるので当然といえば当然の権利である。


 生まれて初めて出会った同族と話が弾んでしまったのが延泊の主な原因。


 初日。

 この日はもちろん予定通りに宿泊した。


 教皇の間に入った頃にはすでに夕刻を過ぎており、そこから教皇と色々と話をした事によって、日はすっかりと暮れていた。初めての同種に会い、ある程度相互理解のために話をした後、教皇は助祭の一人を呼び、メイベルの寝所の準備を整えさせた。案内された寝室のベッドは、質素を是とするエルー教の教えに伴って少し硬めだったが、魔境の野宿に慣れているメイベルにはとても上等なベッドであった。


 二日目。

 明けて翌日。メイベルはカナリア帝国に旅立つ予定だった。


 しかし。メイベルが朝の支度を済ませた頃に、先日の助祭が部屋をノックしてきた。扉を開けると、どうやら教皇からの呼び出しで、教皇の間に来てほしいとの事だった。旅立つ予定ではあったが、特に何時とは決めていなかったメイベルは素直に助祭について行った。そうして部屋に入ると昨夜と全く変わらぬ真っ白い教皇が椅子に座っていた。メイベルが何用かと尋ねると、これも昨夜と変わらぬ笑顔で、ニコニコと笑いながら言う。


「朝食と共に、加護持ち同士でお話をしましょう」


「いいよ」


 家族以外の人間と膝を突き合わせて話すという行為は、メイベルには生まれて初めての経験である。出発するよりも価値のある行為である。という事でメイベルと教皇はたくさん話をした。もちろん、メイベルの言葉は足りず、教皇の並外れた理解力と洞察力と推理力と忍耐力で成り立つ会話である。


 話す内容としては二人の共通事項であるエルー神の加護。またエルー神自体の事が主だった。


 メイベルが幼い頃にエルー神を恨んだことがあると言えば、教皇もいたずらな笑顔で実は自分もだと言った。これはメイベルにも意外だった。エルー教の教皇ともなる人間だから神への愛に溢れ溢れ、腹の中は愛でパンパッンだと思っていたのである。


 しかし実際はそうではなかった。


「意外」


 メイベルがそう言うと、教皇は穏やかに笑った。


「若い頃はシステムとしての人生を選ぶ事はやはり受け入れがたかったのですよ」


 話を聞けばもっともであった。


 教皇の加護は、信徒の祈りを集約、それを増幅し、世界へ再分配する加護だという。

 これだけ聞いてもメイベルに仔細はわからず、不思議な顔でいると、教皇は細かく説明を始めた。実際にどのような効果があるかといえば、小さな祈りの力はそれだけでは無力。しかしチリも積もれば山である。しかし山になるだけではまだ足りない。それを教皇の加護は何千倍にも増幅する。そして増幅した祈りは力となる。今度はその力を、大地、大気、植物、動物、この世界を安定させる力として再分配するのだという。

 端的に言ってダイモン大陸が安定しているのは教皇の加護の賜物だと言う。この力のお陰で大地は枯れず、気候も安定し、凶作は起こらず、動物が飢えず、世界が安定するというのだ。


「すごい」


「そんな事はありませんよ。私の力が届かない場所は魔境となります。よくご存じでしょう? あそこをメイベル嬢が護ってくれていたからこその安定です。それ以前は魔境から魔獣が漏れ出し、この辺りでも魔獣被害に遭うことがありました。ですが、この十年は一切そういった事がありませんでした。メイベル嬢こそ凄いのです」


「ありがとう。でも……」


 もう、メイベルはいない。


「メイベル嬢は気にする事はありませんよ。事情は軽くカイエル陛下から聞きました。どう考えてもメイベル嬢の責任ではありませんよ。クリード王家も何を考えているのやら。呆れますが。まあそれは王国の問題です。実はね、メイベル嬢。大きな声では言えませんが、私も大昔にこの加護に嫌気が差して数年間サボった事があります」


「どうなった?」


「別にどうという事はありませんでしたよ。人間は存外強い。自分たちでなんとでもできます。だからメイベル嬢、今は何も考えずカイエル陛下に甘えるといい。あの国でメイベル嬢が得るものは多いと思いますよ」


「うん。ありがと」


 色々と教皇と話している内に朝食の時間はとっくに過ぎ、気づけば昼を過ぎてしまった。ここで残念ながら午後から教皇は神殿でお勤めがあるという。お勤めとは何かとメイベルが問えば、先ほどの話に出てきた信徒の祈りを集めるための集会と、それに付随した説法だという。基本的に信徒がどこで祈りを捧げても、その祈りは聖地に集まり、力になるのだが、この土地で直接捧げる祈りは特別に大きい力になるらしく、ここが聖地と呼ばれる由縁だいう。


 ここまで説明して、ふと教皇が思いついたように言う。


「そうだ。集会でメイベル嬢を信徒に紹介させていただいてもよろしいですかな?」


「いいよ」


 紹介。

 人間の数の力というものを知らないメイベルは軽く請け負った。だが実際に神殿に集まった、何万人という信徒の数と、その熱気に気圧され、その安請け合いを軽く後悔し、神の加護を授かっていると紹介された後の信徒の熱狂でさらに自分の判断を強く後悔した。まるでメイベルに神そのものへのような感謝と祈りを捧げてくるのだ。今まで感じた事のない他人からの感情にどうにも居心地が悪いメイベルであった。


 集会後にその感想を教皇に伝えると教皇はニコニコと変わらぬ笑顔で言う。


「いつもはあそこまでの熱狂はありませんよ。普段の信徒はおとなしいものです。今日は特別ですね。そのお陰で祈りが普段の百倍くらいでしたよ。これだけあれば魔境にもある程度までは祝福を届ける事ができます。全てメイベル嬢のお陰です。ありがとうございました」


「なんで魔境」


「メイベル嬢が不在でもある程度のラインまで魔獣を抑制できるからですよ。これで安心して旅行ができるでしょう? なんだかんだ言っても加護持ちは自分の役目が気になってしまうものですからね」


 そう言っていたずらっ子のような笑顔で笑う。教皇も同じような経験があるのだろう。加護持ちは加護持ちの気持ちがわかる。実際、メイベルは朝の会話をしてから途端に魔境の様子が気になってしまっていた。王家、貴族、国民全てから忌み嫌われてきたが、それでもやはり気になる。魔獣が溢れ出して人を傷つけていないだろうか。ずっと気になっていた。


 それを教皇は察していたのである。


 さすがメイベルと話が通じるほどの男である。


「教皇。すごい」


「ありがとうございます」


 そうこうしている内に夕食の時間になってしまい。メイベルはさらに一泊する事になった。


 三日目。

 旅立ちの朝であり、つまりは今である。


 朝早いというのに教皇は神殿の出口まで見送りに来てくれていた。


 真っ白い老人が背筋をまっすぐに立っている。信徒の服とそう変わりのない簡素な聖衣を身に纏い、全てを受け入れ、全てを優しくする老人が立っている。


「ありがとう」


 メイベルは言葉少なく感謝を伝える。

 それに対して教皇は言った。


「こちらこそ。私にもいい経験でした。メイベル様が来る事はカイエル陛下から聞いていました。同じ加護持ちだから少し話をしてくれるかと。そう言われておりました。始めは断ろうかと思っていました。普段であれば手紙ひとつで私に会えるものではないですから。これでも私は偉いのですよ。ですが、陛下の言う事であれば会ってみようかと思ったのです。三日前の自分の決断をほめたいですな」


 冗談めかして笑う教皇を見て、実際そうなのであろうとメイベルは思った。ここ二日で感じた周りからの教皇への尊敬を見ていたから。そこには親しみと尊敬が同居している。自分には向けられた事のない感情だった。きっとこの国では教皇は神にも等しい。そんな人間にスッといってスッと会える事など普通はないのだ。


「やっぱりありがとう」


 語彙の少ないメイベルの最上級の感謝に対して教皇は言う。


「私への感謝はカイエル陛下にお願いします。全ては陛下のお陰ですから。系統は違いますが、あの方もまたわたしたちと同じく孤独なのです。ですから我ら二人の孤独もわかったのでしょうな。お優しい方です。メイベル嬢も既にわかっていると思いますが、世間で言われているほどあの方は悪虐ではないし、強くもないのです。どうか、私と話したように陛下ともお話しください」


「わかった」


 ひとつ。うなずいてメイベルはカナリア帝国へと向かった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 エルー神聖国はポージ共和国とマイナ王国の緩衝国であり、国土は広くはないため、メイベルが本気を出すとすぐにカナリア帝国領へと入っていた。そこからさらに走ると夕方には帝都に着く事ができた。神の加護すごい。


 正確には堀に囲まれ、天高くそびえる帝都の城壁に。だが。


「さて」


 目の前に高くそびえる城壁。

 それをメイベルは普段通りに飛び越えようとしたがポンはそれを止めた。

 曰く、通過するだけならともかく、しばらく滞在するのだからちゃんと入国の手続きを踏んだ方がいいと言う。また皇帝もメイベルの到着を待っているだろうから、そうすれば同時にそちらへ伝令が飛ぶだろうと。

 自分よりも社会的常識を持っている狸魔獣を複雑な目で睨みつけながら、メイベルはポンの言うことにも一理あると考えて従う事にした。本当は一理どころか真理なのだが。


 ふむふむと。城壁に沿ってしばらく歩くと、堀に跳ね橋がかかっている所があった。

 門である。

 そこをゆるると進んでいくと、城壁の入り口には門番が二人立っていた。すでに陽は傾いており、人の出入りはまばらで、少し暇そうにしている。その内の一人に皇帝の手紙に入っていた通行証を見せた。


 途端、暇そうに緩んでいた門番に電撃が落ちたように硬直した。もう一人が何事か近づいてきて、その通行証を確認するとこちらは固まる事なく、最敬礼でメイベルに挨拶をする。


「シュート公爵令嬢様! お待ちしておりました! ご案内しますので! こちらへ! どうぞ!」


 一言一言に力が入った言葉を受け、そのまま城壁内の一室に案内された。どうやら外国の貴族や遠方の領主などの身元を確認したりする間に待ってもらう部屋らしく、そこまで広くはないが、室内の装飾も豪華であり、用意されているティーカップなども品があるものであった。


 門番曰く、こちらで待てとの事である。


 本当は今すぐにでも街の中を歩きたいメイベルであるが、待てと言われては仕方なく、ソファに身を預けながらポンの毛皮を撫でているのであった。


「失礼いたします!」


 しばらく待った後、ノックの音へ入室を許可すると、そこには全身が棒になったのではないかと思わんばかりに一本に固まった衛兵が立っており、とても緊張したように大声で言う。


「皇城に遣いを出しましたので、迎えがくるまで今しばらくこちらでお待ちください!」


 さらにしばらく待てと言う。


 そう言われてもメイベルはもう待ちたくなかった。エルー神聖国を経由してきたメイベルには好奇心が生まれている。表情には表れないが正直ワクワクしている。人生の中で世界といえば魔境と王都の家だけだった。ごく稀に社交で外の世界に身を置く事もあったが、忌み嫌われていたメイベルにとっては全てが狭苦しかった。でも今は違う。自分の足で進み、訪れた先では、誰も自分を嫌わない。エルー神聖国では歓迎もされた。少し怖かったけど。


 それらからでたメイベルの結論は、「待てない」だった。


「んー。歩いてく」


 ソファから立ち上がり、小脇にポンを抱える。ポンが慌ててメイベルの首すじまで背中をつたって駆け上がって定位置に身を置いた。それを確認してから壁の方へとツツと進み、重厚な刺繍に彩られたカーテンを開ける。開かれた先には豪華な枠に縁取られた窓があり、そこから茜色の陽が差し込んでくる。


 長い金髪がそれを受け、きらきらりと乱反射させる。


 その美しさに一瞬意識を奪われかけた衛兵。しかし流石。すぐに意識を取り戻し、メイベルを制止する。


「ある!? いえ! とは言いましても帝都は敵国との戦争を想定して作られている古い都でありますので、道が入り組んでおり、初めて訪れる方には難しいかと思われます!」


「だいじょうぶ。迷ったら飛ぶ」


 大慌ての衛兵を見る事もなく、豪華な窓枠に手をかけて、それを引くと音もなく内側に開く。ふうわりと風が室内に吹き込んでくる。ほんのりとした潮の香りがメイベルの鼻腔をくすぐった。


「と!? いえ! とんでもない! ご令嬢がそんな事……」


「いい。伝令だけお願い」


 そう言うと、メイベル。


 窓枠に足を掛けたかと思うと、そこから一気に身を躍らせた。衛兵から見たら一瞬で女が消えたように見えている。全く意味がわからなかった。しかし呆気に取られて固まる事はない。さすがプロである。衛兵は撥ねるように窓際に駆け寄り、軽く外に身を乗り出し、落ちそうになる体を慌てて戻した。

 そこから辺りを見回すと、城壁下に沿ってぐるりと帝都を一周している割と大きな道の上をメイベルが歩いているのを確認した。なんという事なく歩いているため、怪我などはないようであり、一安心でつぶやいた。


「ここ三階なんだけど……」


 たった十数分で起きた意味のわからない事象を現実かと疑いながらも、頼まれた伝令を追加で城に飛ばすために部屋から飛び出し、伝令室に駆け込む有能な衛兵なのであった。


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