たぬきとエルー神聖国まで来た。旅、いいかも。

 四月三日。


 穏やかな昼下がり。

 太陽から祝福が燦々と降り注ぐ。クリード王国は大陸北方にあり、春先でもまだ肌寒さが残る季節であるが、太陽からの祝福で体はぽかぽかと温まり、とても心地のいい状態であった。


 そんな中、メイベルは王都を出て南へ向かう街道を歩いていた。


 徒歩である。


 北方のクリード王国から、南端にあるカナリア帝国まで移動するのであるから、ほぼ大陸縦断の旅である。通常であれば馬車で一週間以上はかかる距離。徒歩で移動など考えられない。戦争もなく、ここ数年飢饉もないため、平和ではあるのだが。とは言え女性一人諸国漫遊ぶらり徒歩旅ができるような状態でもない。


 しかしメイベルは徒歩の旅を選んだ。


 もちろん。

 カナリア帝国から迎えの馬車もあった。皇帝が公爵家を訪れた翌日に、家族と相談して一週間後の四月三日に出立する事を決め、その日にそちらへ向かう旨を書いた手紙をエルー神聖国の大使館宛に出した。するとその二日後には迎えの馬車が王都の公爵家に到着したのである。そのあまりの手配の早さに公爵家一同で若干引いた。


 さらに引いたのは早さだけではない。その馬車のグレードもまた引くほど別格である。見た目は豪華絢爛で煌びやかにカナリア帝国の紋章が輝き、中には長旅に対応できるように高級な寝台を備え、装備は最新鋭のショックアブソーバー搭載と、それはもう至れり尽くせりで痒い所から痒くない所にまで手が届いた逸品であった。


 それでもメイベルは徒歩の旅を選んだ。


 断られた御者はこのような事態は全く想定していなかったらしく、目を白黒させたままなにも言えずに、すごすごと帰ろうとしていた。しかしこのまま手ぶらで帰してしまっては、きっとなんらかの処分が彼にくだるであろう事は想像に難くない。そこでメイベルは手紙を御者に持たせた。これは自分の意志である事。御者を叱らないでほしい事。を認めて御者に持たせた。

 今日馬車が出れば一週間後にはカイエル皇帝のもとに届くであろう。丁度メイベルが到着する直前くらいには手紙が届くであろう計算である。


 手紙を受け取った御者は、その気遣いに泣きながら感謝し、高級な馬車で引き返していった。


 ここまででわかる通り、馬車を断った理由は単純に歩いた方が早いからである。神の加護を授かったメイベルの脚力であれば手紙に書いた通り、二、三日でカナリア帝国に着くのである。馬車での移動時間を無駄に過ごすくらいなら家族と過ごしたいメイベルの判断であった。


 そんなわけでメイベルは街道を歩く。


「ぽん」


 そんなメイベルの隣。呼びかけるような珍妙な鳴き声が。見ればモフモフとした茶色い毛玉。狸である。それはメイベルにとって見知った顔であった。


「ポン、付いてきたの?」


 狸から視線を街道に戻して見る事もなくメイベルが言う。

 付いてきたの? と聞いてはいるがメイベルとしては当然着いてくるものと思っていた。


「ぽーん(そりゃそうだよ。ご主人がいなくなったら狸魔獣のぼくは処分されるもの)」


「確かに。仕方ない」


「ぽん!(それは処分が!?)」


「付いてくる事が」


「ぽーん!(もーごしゅじーん! すきー!)」


 ポンと呼ばれた狸魔獣との出会いはもちろん魔境である。三年前、メイベルが十二歳の頃。魔境深層での魔獣殲滅作業中に出会った。ポンが大型魔獣のおやつにされかけていた所、たまたまメイベルがその大型を狩ったのである。そこで懐かれた。人語を解する茶色い毛玉を最初は無視していたが、どこまで行っても付いてくるので仕方ないから飼う事にした。始めは魔獣の罠かと考え警戒していたが、そんな事はなく、ポンはただの弱い魔獣であった。そしてこの三年。仲を深め、前線でのかけがえのない話し相手となったのである。


 メイベルは右隣を歩くポンを小脇に抱えた。大人しく抱えられるポンも慣れたものである。そのまま左手でモッフモフとした毛並みを確認するように撫でる。メイベルが手入れを行なっているので、ふわふわのツヤツヤであるが、それを撫でるメイベルの表情は少し不満げである。


「少し硬くなった」


「ぽん(そりゃーここ一週間、ご主人は母上にべったりでぼくのモフモフの手入れがおざなりだったからさ)」


「不覚」


 表情に乏しいメイベルにしては珍しいほどに不覚の表情である。それほどにポンの毛並みにはメイベルのこだわりが詰まっていた。普段何事にもこだわらないが、ポンと出会って以降、そこにだけはこだわるようになっていた。


「ぽん(でもいいじゃないか。母上に甘えられるなんて羨ましいよ。甘えられる時には甘えられるだけ甘えるもんさ。ぼくの親はあの時の大型魔獣の腹の中でもう会う事もできないからね)」


「ごめん」


「ぽーん(何を謝るのさ。ご主人がその仇をとってくれたんじゃないか。あの日以来ご主人がぼくを甘やかしてくれるし、なにも寂しくないよ)」


「そう」


 言ったきりメイベルは口を開かず、歩きながら夢中でポンのモフモフの手入れをするのだった。


 と言っている間もメイベルの脚は超高速で動いている。馬車より早く着くのであるから、当然馬車よりも早く移動するのである。常人が見たら驚くどころか、むしろ見えない可能性まである。それほどまでに神の加護は強力である。

 ポンは既にメイベルの脇から首元に移動しており、さながら襟巻きのようになっている。どんな超高速で移動していたとしても決して崩れる事はないこの二人のコンビネーションは相性の良さを示しているのだろう。


 気づけば。


 見える景色は移り変わり、北方の冷え冷えとした雰囲気から、穀倉地帯特有の牧歌的な雰囲気へと変わっていた。変わったのは景色だけではなく、国すらも既に変わっていた。いつの間にか、母国クリード王国から大陸中央にある宗教国家、エルー神聖国へと入国していた。


 国境はどうしたとお思いだろう。


 しかしそういう通常の概念はメイベルにはない。魔境には国境はない。あるのは力の差だけだ。力だけが線を引く。そんな弱肉強食の世界で生きてきたメイベルには国境の概念はなかった。街道の先の方に何だか邪魔な障害物があるな。壊すのアレだし。よし飛び越えておこう。くらいの感覚で。誰にも気づかれる事なく国境を越えていた。


 着いた先はエルー神聖国。


 メイベルに加護を与えた神であるエルー神を信奉する宗教国家である。エルー教はダイモン大陸での統一宗教である。国家は違えどおおむねどこの国民でも半数以上の人間がエルー教の信徒である。そしてこのエルー神聖国がある大陸中央はエルー教にとっての聖地でもある。元々はマイナ王国が大陸中央を支配していたが、数十年前の内乱の果てにマイナ王国とポージ共和国の二国に分裂し、それからも争いが絶えず、緩衝地帯とするために聖地であるこの土地をエルー教に寄進した結果、エルー神聖国が誕生したのである。


 そうこうしている間もずっと走行しているメイベルは既にエルー神聖国の神都に到着していた。神都は万民に開かれた都ではあるが、もちろん防備が必要であるため都の周りをぐるりと壁がめぐっている。高さにして五メートルほどであろうか。そしてその壁の先に入るには門番による審査もある。


 残念ながら。

 壁だろうと門番だろうと。メイベルには関係ない。


 飛んで入れば終わりである。


 壁サイドとしては不満であろう。五メートルの高さを飛び越える侵入者など想定していない。恨み言は加護を授けた神へお願いします。


 そんな具合に不法入国を果たしたメイベルは進むスピードを落とし、一般の人間が歩くスピードにあわせている。とは言ってもそんな事くらいでは周りに溶け込む事はない。なぜなら周りを歩いているのはほぼ全員エルー教の信徒であり、お揃いの真っ白い聖衣を身につけているからである。

 明らかに周りから浮いているメイベルであるが、そんな事はメイベルにはわからない。むしろ狸のポンの方が周りからの視線に少しおどおどとしている。


 ポンが周りから浮いている事実をメイベルに伝えるかどうか迷っていると、ふとメイベルが足を止めて、ポケットをゴソゴソと探り出し、折れ曲がり、シワになった手紙を取り出して言った。


「手紙、教皇に見せなきゃ」

 

「ぽん?(教皇? どういう事?)」


「ここ、皇帝の手紙に書いてある」


「ぽんぽん。ぽーん(ふむふむ。神の加護があるメイベル嬢であればエルー神聖国でよくしてもらえるだろう。途中で宿泊する際にはこの手紙を教皇に見せるといい。きっともてなしてもらえるだろう。だって)」


「そう」


「ぽん?(どうするご主人? 教皇っていう人に挨拶しておく? もてなしだってよ。美味しいかな?)」


「どこにいるかわからない」


「ぽーん(致命的だね、ご主人)」


「でも大丈夫」


「ぽ(根拠が見当たらないよ、ご主人)」


「ボスは大きな建物にいる」


 そう言い、指し示した先には、確かに荘厳で神の威光が細部にまで宿るような大きな建物があった。見るからに神殿である。中央の尖塔は天高く、神への祈りを象徴するように。それに連なる建物は神に祈りを捧げる信徒のように。全体から神への祈りを感じられる建物であった。


 白い聖衣をまとった信徒たちはそろってその建物に向かって吸い込まれていく。


「ぽーん(あー確かに神聖そうだよねー。魔獣死すべしっ! ってぼくやられないかな?)」


「大丈夫。行こう」


「ぽん(ご主人が言うならぼくはどこへでも行くよ)」


 そう言いながらも不安そうな狸顔のポンを小脇に抱えて、メイベルは信徒と同じ速度を保ちつつ、目の前に見える神殿へと進んでいった。


 そのまま中に入り、真っ白くない服を着ているちょっと偉そうな大人にメイベルが声をかける。声をかけられた大人。これは司祭であるが、その目は明らかに不審者を見るそれであった。そうだろう。信徒の証である聖衣をまとわず、茶色い狸を抱えた、世にも美しい女性が、言葉拙く話しかけてくるのである。メイベルはそんな事はお構いなく、皇帝からの手紙を差し出し、教皇に会いたいと告げた。


 途端。その背筋が伸びた。


 それもそうであろう。


 封蝋はカナリア帝国の紋章。これを騙るような命知らずはいない。なにせカイエル皇帝は世間一般的には暴虐皇帝である。と言う事は本物であり、そんな手紙を持ってきた人間に粗相でもしようものなら、いくらエルー教の司祭といえども首が飛びかねない。手紙が本物か偽物かなんて判断は教皇に通してからでいい。教皇が暗殺されたとて自分にチャンスの目が回ってくるだけだ。なんてゲスな考えまで脳裏をよぎる。


 結果。


 メイベルは丁寧にエスコートされ、教皇の間に通された。


 入って驚いたが教皇の間は建物の荘厳さに比べて実に質素であった。広さで言えば王都にあるシュート公爵家の談話室くらいだろうか。メイベルにとってそれはとても落ち着く広さであった。そして落ち着く理由はその広さからだけではない。この部屋にはメイベルに与えられた神の加護と同様の雰囲気が満ちている。落ち着く最大の要因はそこであり、その神気を放っているのはメイベルの目の前でニコニコと微笑みながら座っている老人であった。


 真っ白い長髪は後ろに撫でつけられ、同じく真っ白な髭は胸まで届くほどの長さ、肌の色も白く、瞳も、眉も。老人は全てが白に染まっていた。


 さしずめ白の教皇といった所か。


 好々爺のごとく微笑みながら、穏やかにメイベルに語りかける。


「エルー神の加護を授けられし、使徒よ。よくぞいらしてくださいました。歓迎いたします」


「使徒? 違う。メイベル」


 どうやら使徒と呼ばれるのは嫌らしく、メイベルと呼ぶように教皇に不満を漏らす。とは言っても普通は伝わらないが、そこは教皇、年の功。メイベルの言っている意味が理解できたらしく。


「おお、メイベル嬢と呼ぶ事をお許しいただけるのですな。ありがたき幸せ。本日はカナリア帝国に赴く途中の宿木をお求めに舞い降りられたという事でよろしいですかな?」


「そう」


「加護を与えられし使徒を迎えられる光栄を神に感謝します」


「貴方も」


「おや、バレましたか?」


「うん。同じ」


「そうですな。小さいながら、私もエルー神から加護をいただいております」


「落ち着く加護」


「お褒めいただきありがとうございます。加護を与えられし人同士、仲良くしていただけると嬉しいですな」


「うん」


 さすがの教皇も気づかなかったが、そう言ったメイベルの頬が小さく動いていた。父、タウンゼンが見たらまた引き攣っているなどと言い出しそうだが、この時確かにメイベルは笑っていたのである。


 生まれて初めて会った同じ境遇の人間。


 神の加護を与えられてからずっと魔獣を退治し続けてきた。王国のため、国民のため、と言われ力をふるい続けた結果、穢れだの、殺戮マシーンだのと蔑まれ、良い事なんてなかった。世界から浮き続け、誰にも共感できず、共感されず、十五歳まで生きてきて、初めて会った同種の人間。


「ぽん(ご主人、嬉しそうだね)」


 椅子に座っているメイベルの足元で、丸くなっているポンが狸寝入りの状態で、メイベルだけに聞こえるように小さく鳴いた。


「うん」


 ずっと家族はいてくれた。途中からはポンがいた。全くの孤独ではなかったが、やはり同種が存在しないという気持ちはいつも抱えていた。自分は他人とは違う。だから畏怖される。だから蔑まれる。仕方ない。仕方ない。そういう風に子供心を納得させて、大人の心で押しつぶしていた。


 でも目の前で微笑んでいる老人は違う。


 同じ世界で生きている人間。同種の生き物。そんな人間に会えた。自分の他に神の加護を受けた人間がいるなんて考えた事もなかった。でも今日いるとわかった。一目みてわかった。

 何だか心が少しゆるまった気がする。


 メイベルは旅に出てよかったと早速思うのだった。


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