メイベルの寝室、カイエルの私室。狸の赤ちゃんはキュウと鳴く。

 四月六日。


 夜は更けていく。


 ここはメイベルの寝室。


 デートの約束を取り付けたカイエルは仕事が残っていると言い、申し訳なさそうに応接室を去っていった。去って行く後ろ姿を見ながら、メイベルは改めてその美しさに見惚れていた。

 扉が閉じたあと、マイラに今からどうしたらいいのか聞いたら明日のデートの準備をいたします。との返答でそこからは怒涛のエステ三昧であった。剥かれ、擦られ、磨かれ、塗られた。その日はなにか美容まみれの午後となった。


 夜。


 なれぬエステでくたくたになったメイベルはぐったりとベッドに横たわっていた。


「疲れた」


 これなら魔獣を倒して血まみれになってる方がよほど気楽だったと思いながら、ポンの柔らかい毛並みに顔を埋める。メイベルと同じようなエステを受けたおかげか、メイベルが手入れした毛並みよりもさらにふわふわもふもふである。


「ぽん(僕は気持ち良かったよう)」


「お気楽な狸」


「ぽん(狸は元来お気楽な生き物さ。ひゃんひゃん鳴いて、野原のネズミを食べたり、月見て腹鼓をうってればそれでご機嫌な生き物だよ)」


「ヒャンヒャン? 昔キュウキュウ鳴いてた」


「ぽ(そ、それは子供の頃だよ! ぼくはもう大人だからキュウキュウなんて鳴かないよ!)」


 狸がキュウキュウと鳴くのは親を呼ぶ声である。ポンはそれが恥ずかしいらしく慌てて身をよじって抗議する。


「甘えてた?」


 そしてメイベルはそれを知っている。

 応接室でバカにされた意趣返しをしているのである。


「ぽ!(ぐ! 今日のご主人は意地が悪いよ! ぼくにだってさみしい夜はあったんだよう)」


「かわいい」


 照れるポンのかわいさに思わず強めに顔を擦りつけて匂いを嗅ぐメイベル。


「ぽひゅん(ぐうえ。ご主人! 力つよ!)」


「ぽんぽん鳴いてる。ひゃんひゃん鳴かない?」


 痛がるポンから顔を上げ、ふと普段の鳴き声と、さっき言っていたヒャンヒャンという鳴き声が違う事に疑問を持った。普段の鳴き声はぽんとかぽぽーんとかである。


「ぽ!(ご主人に伝わるように鳴くにはこういう鳴き方になるね。他の狸と会話する時はヒャンヒャン鳴くよ。あとはキャラ付けだね)」


「最後のやつが九割?」


「ぽーん?(さあね? そんな事よりご主人は明日のデートの事を考えた方がいいよ)」


「あー」


 思い出してしまった。


「ぽん?(そもそもデートって何かご主人は知ってるの?)」


「失礼。狸よりは知ってる」


 本当は知らない。


「ぽん(じゃあ浅学な狸に教えてもらってもいい?)」


「あれよ?」


「ぽん(あれじゃわからないよ)」


「男と女のランデブー」


「ぽ(絶句)」


「違う?」


「ぽん?(ランデブーってなに?)」


「知らない。レコードで聞いた」


 父であるタウンゼン・シュート公爵が少しでも文化的なものに触れさせるために王都のタウンハウスに置いて行ったレコードプレイヤーと大量のレコード。

 せっかくの休みでも外に出ることのできないメイベルの助けになったアイテムである。その中の一枚に別大陸の歌手が歌っていた歌の中にデートの事を歌っていた。


「ぽん(そういえばぼくも聞いたよ! 君とのデートはジェット気流。夜に融けてくランデブーとか言ってたね。だっさ)」


「文句は歌手に」


「ぽん(歌手のせいにしないでよう。そもそもレコードでしかデートを聞いた事ないって狸以下じゃない? 野原の狸だって秋の月を望みながらデートするんだよ? やばくない? やーいご主人の恋愛偏差値たぬき以下ー! ぷぷぷー)」


 むっかちーん。


「腹だせ! モフる!」


「ぽーん!!(きゃーやめてー!)」


 公爵令嬢と狸の馬鹿話で夜は更けていく。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 一方。


 ここはカイエルの私室兼寝室。


 カイエルは残務に塗れていた。

 王太子時代から帝位についてからも数多くの変革を起こしてきたカイエルの元にはカイエルにしかできない仕事が数多く飛び込んでくる。気を抜けば貴族たちは自分の権勢を取り戻そうと小細工を仕掛けてくる。仕事の手は抜けないのだ。


 しかもメイベル関連で多く時間を使ったため、執務に割く時間が少なくなってしまった事も原因となっている。もちろんメイベルを招待した段階で巻きで仕事を進めてはいるが、執務室が破壊されるなど、想定外が多かったため、どうしても執務が残ってしまった。本当であれば、夕食を共にしたり、談話室でコミュニケーションをとりたかった。残念ながらそれは叶わなかった。


「来てくれただけで今はよしとしよう」


 書類にペンを走らせながら一人ごちる。言葉は消えてカリカリとペンが走る音が自室に響く。メイベルに執務室を破壊されたため、直るまで自室で執務をおこなっている。


 そして。


 なにより重要なのは。


 扉一枚へだてた向こう。


 そこには。


 メイベルの寝室がある。


 防音はしっかりとしてあるため、隣の部屋の物音が聞こえてくる事はない。


 ただ。


 いる事は感じられる。


 気配は感じられる。


 それだけでも幸福である。


「美しい、か……」


 今日の言葉を反芻する。


 思わず頬が緩む。心の第一胃袋から取り出し、口内に飛び出した言葉はとても甘い。メイベルがどんな意図であの言葉を発したのかは、カイエルにはわからない。きっと意図なんてなかったのかもしれない。だったらあれはメイベルの心からでた言葉だったのだろう。


 意図があっても嬉しいし。

 意図がなくても嬉しい。


「見惚れるほど美しいのはどちらか」


 カイエルはあの見事なカーテシーを思い浮かべた。


 美しいのは知っていた。

 なにせ一目惚れするほどの相手だ。

 カイエルは多くの美女を見てきた。王太子時代から寄ってくる女には事欠かなかった。もちろん手を出せば問題になる可能性の高い、地雷度高めの女性しかいないため、節度を持って接してきたが、それでも女性にはなれているし、扱い方も知っている。


 酸いも甘いもしり、今では女性を見ても心が動く事などなくなっている。


 と思っていた。


 しかしクリード王国でメイベルを見た時。その認識は覆された。


 衝撃だった。


 自分でも驚いた。


 クリード王国でのあの茶番。


 始めは品のない見せ物程度にしか思っていなかった。貴族であればあの程度の騒ぎは稀によく見るタイプの茶番である。帝国でも王太子時代は茶会での下世話な話で聞く事もあったし、自分の目でも目撃した事もある。


 だがあの時は違った。


 はじめは王国貴族からの世辞を聞きながしながら、横目であの騒動を見ていた。頬を叩かれる女性を見て気分が悪くなり目を逸らした。


 そこへ飛んできたあの威圧。


 メイベル本人は意識せず放ったものだったようだが凄まじかった。ちょっと離れた位置にいる人間ですら心胆寒からしめ、腰が抜けるほどの強度。実際、カイエルと世間話をしていた伯爵などは腰を抜かして座り込んでいたし、王太子の護衛ですら身動きできなくなっていた。数多くの修羅場をくぐったカイエルですら鳥肌がたった。


 逸らした目線は衝撃に引き戻され、その先にいる女性の姿をはじめてはっきりと見た。


 それは機能美が具現化したような女性だった。


 今まで見てきたゴテゴテとした女性とは異なる。あれらは繁殖のために進化した生き物だ。しかも貴族社会での繁殖に適応し、それに最適化された生き物だ。自分とは向いている方向性が全く異なる。


 しかしメイベルは違った。


 あれは生存に特化したような存在だ。


 ドレスを着ているがとても質素で。化粧もしていない。もちろん香水などふっていない。


 それでも匂い立つほどの色香。命の芳香とでも言うのだろうか。


 なぜクリード王国の人間はこれほどに美しい女性を蔑ろにするのだろうか。その神経がわからなかった。助け舟を出すべきだろうと考えた。あわよくばそこで知己を得たいとまで考えた。下心だ。女性に対してそんな感情を持った事もなかったが、今はこの感情に従うのが正しいと肌で感じた。


 カイエルが一歩を踏み出そうとした瞬間。


 同時に。


 カツリ。


 床が鳴った。


 メイベルのヒールの音だ。

 それはまるでギロチンが落ちる音のようだった。

 足音一つで死神を連想させる。


「くふっ」


 思わず笑いがこぼれた。

 だめだ。

 助け舟を出すなんて考えがおこがましい。

 今は自分が出る幕などない。役者が違う。自分が出るならこの茶番の後だ。ここは素直に王国側に三文芝居をうってもらうのが得策だ。あの女性は大丈夫だろう。


 結果。


 メイベルは茶番から美しく退場していった。


 あのカーテシーには見とれた。

 あれを見て絶対に自分の伴侶にすると固く決めたのだった。


 それが——。


「まさかあの日のカーテシーを超えてくるとはな」


 ペン先を書類から離し、天に視線を投げる。


 ありありと浮かぶ。今日のあのカーテシー。生存の美。装飾の美。合わさった時に美とはあそこまでの領域に到達するのだなと瞳を閉じる。瞼の裏にも焼き付いて離れないほどの美。


「素に戻った後のギャップも良かった」


 無表情ながらこれを求められ続けても困るという感情を察せされる言葉。あれを見せられては求めるつもりなどないと言うしかないではないか。その言葉を聞いた後の喜びも。


 ああ。


 全てが可愛い。


 脳内メイベルフルコースである。


 再び机上に視線を戻し、ペンを走らせながらも、なおカイエルの脳裏では今日のメイベルフルコースがサーブされ続けるのであった。


 明日はどんなデートにしようか。


 そんな幸せな妄想とともに夜はなお更けていく。


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