デートの予定は旅行へと。馬に乗りたかった。
九月二日。
エルー神聖国に程近いカナリア帝国の穀倉地帯。この辺りでは麦と米を栽培しており今は米の季節。穂が実り始め、小さくこうべを垂れている頃合い。メイベルがこの道を走ってカナリア帝国に向かっていた時には出始めた麦の穂が見えていたはずだが、超高速で走っていたため視界には入っていなかっただろう。
一面黄金色に染まった土地をカイエルとメイベルは馬に乗って駆ける。
「我らが国の穀倉地帯はどうだ、ベル?」
「綺麗。でも不満」
「こればっかりは仕方ないだろう?」
「馬。乗りたかった」
「一応、乗っているじゃないか」
「自分で」
メイベルが楽しみにしていたのは自分で馬に騎乗し、あの可愛い動物と一緒に駆ける事だった。馬車で手綱を握った時から自分の命令に限界を超えて従う可愛い動物だと思っていた。厩で見た時にも大人しく平伏して顔を撫でさせてくれて可愛かった。仲良くしたいと思った。
そして当日。
いざ厩に行って馬に乗ろうとした。
しかし馬は平伏して馬房から動く事はなかった。
馬は草食動物であり被食者である。繊細である。臆病である。
そう。単純にメイベルから自然に放たれる闘気に耐えきれないのだ。
ポン曰く。
平伏しながらずっと小声で謝罪と命乞いをしているらしい。
これは先日のデートのように、カイエルがメイベルに騎乗してデートするハメになろうかという状況。
そんな中一頭だけ。
なんとかメイベルを乗せる事だけはかろうじてできた馬がいた。
しかしこれも手綱を握った途端ダメだった。手綱から伝わるメイベルの強い闘気にはさすがに耐えきれないらしい。初回のデートで乗った馬車の馬は手綱を握った人間から逃げるために必死で駆けていただけだったのである。
これもやはりダメかとなった所で。
厩番の男から一つ提案が。
その馬がカイエルの軍馬でカイエルの命令であれば勇猛果敢に戦場に駆け込んでいく名馬である事から、カイエルとメイベルが同乗してカイエルが手綱を握ればいいのではないかと言う。
ものは試しとやってみた所。成功。馬がちゃんと駆けたのである。
結果としてなんとかうまくいった。
馬と仲良くなりたかったメイベル的には不満ではあるが、それよりも楽しみにしていた遠乗りに行きたい気持ちの方が強く。今はカイエルが鞍に座り、その前にメイベルが横乗りする形で、街道を駆け足で進んでいる。
「ほらベル。いつまでも膨らんでいないで景色を見てごらん。ここは草海と言われている土地だよ」
「そう、かい?」
「ああ、牧草や小麦、今は稲穂が一面に生えているからね。それが海のようだっていう意味で草海だ。季節によって空は変わるが今は稲穂の季節。黄金色がメインだな」
「確かに。海みたい」
カイエルの言う通り。見渡す限り黄金色の海である。
そこを初秋の風がなでると風の姿が見える。
ゆらめく稲穂がサワサワと音を立て、まるで波の音のように聞こえる。一面の稲が波打つ様と合わさって、あの夜に見た静かな海の波を思い起こさせる。
「ああ、海を思い出すと同時にあの日のベルの姿を思い出すよ」
「エル。ダメ」
「忘れなくていいって言っただろう?」
「でも。それ。違うやつ」
メイベルの言う通り、カイエルが今思い出しているのは海で怖がっていたメイベルの姿ではなく、バルコニーで口づけを交わした時のメイベルである。
カイエルの狙いを知らず、ただ言われるがままに瞳を閉じたメイベルは己の唇に落ちた衝撃に目を見開いた。
くちびるを合わせるという行為が何であるかはタウンハウスに置いてあったレコードと書籍で知っていたが、それはあくまで知っているだけである。それが自分の身に起きたのだ。脳が混乱する。嫌であれば逃げ出すことなど容易だが。決して嫌ではなかった。くちびるから伝わってくるカイエルの真摯な思いが心地よくて、脳と思考が痺れるのにまかせる。
カイエルが好きだと心で自覚した直後。
この口づけで体でもカイエルが好きだと自覚した。
誓いの数だけ落とされた口づけが終わり、目を開いたカイエルが見たのは。
蕩けたメイベルであった。
あまりに刺激が強すぎたのである。
思わずカイエルの口から漏れた「かわいい」の言葉に蕩けたメイベルの思考は目覚め、危うくカイエルの首が飛びそうになったのは自然な成り行きであろう。
今思い出しているのはそんなメイベルの姿である。
「バレたか。でも仕方ないよ。普段は美の権化のようなベルがあんなに可愛くなるなんて思わなかった。また俺にあの姿を見せてくれないか?」
「ダメ」
「それは残念だ——っと」
言いながら、メイベルの頭頂部にキスを落とす。
「エル」
キスされた頭頂部を片手でおさえながらカイエルを睨む。その頬はほんのり桜色である。カイエル同様にメイベルもあの時のキスを思い出していたのである。
睨まれたカイエルはその表情に再びあの日のメイベルを思い出す。
「可愛いよ。ベル」
「今日。エル。意地悪」
睨んでいた視線を落とし、可愛いという言葉に照れた顔を隠すようにカイエルの胸にコツンと頭を預ける。手綱を握り、程よく力が入っている筋肉から心地よい反発が返ってきた。
照れ隠しでとった行動だが、それが気持ちよくて何度か頭を軽くぶつけた後、顔の正面を胸に当てる。
その瞬間、カイエルの匂いがふわりとメイベルの鼻腔をくすぐる。メイベルの好きなつがいの匂いである。それをもっと堪能するべく胸元の開いたシャツの隙間に鼻をつっこんでスンスンと何度か鼻を鳴らした後、そこからメインディッシュを味わうかのごとく胸元に顔を擦り付ける。そうするとメイベルとカイエルの匂いが混ざり合う。
これはメイベルにとって至高の香りである。
「エル。いい匂い」
満足そうに、んふうと鼻を鳴らす。
反対にカイエルはもう。もう大変である。さっきまで優位に立ち、余裕綽々だった態度は何処へやら。息も絶え絶えになり、手綱を握る手は血が滲むのではないかと心配になるほど強く握られている。プルプル震える手の振動が手綱ごしに馬に伝わるために馬も走りにくそうである。
メイベルを止めたいが今声を出したら変な声が出る事は確定であり、んふんふと荒い鼻息を何度か漏らした後、一旦メイベルが止まったタイミングでやっと口を開く事ができた。
「べ、ベル、意地悪を言った事は謝る。謝るから! だからあまり胸元をいじめるのはやめてくれないか? このままだと俺は馬を止めなければいけない状況になる」
「ダメ。もっと。胸固い。力抜いて」
「わかった。わかったから! そんなにすりすりしないでくれえ!」
一般人ならとっくに馬が暴走し、落馬事故が発生している状況であるが、そこはさすが皇帝と皇帝の愛馬である。カイエルは並列思考で馬をなんとか制御し、愛馬は愛馬で手綱から伝わるわずかな指示を正確に汲みとり駆ける。
ここまで全部を見ていながら無言を貫いている狸は馬の後ろにくくられた荷物の一部となって狸寝入りを決め込み、目を閉じたまま独りごちる。
「……ぽん(ご主人のイチャイチャは雑食の狸魔獣でも食べられないよ……)」
そんな狸の呟きは秋風となおも続くカイエルとメイベルのやりとりにかき消される。
「エル。いい匂い」
「あ、やめ! ベル! メイベル! やめ、ああ!」
街道に叫び声を響かせながら皇帝とその婚約者は北に向けて馬を走らせる。
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九月六日。
今回の休暇はたっぷりと十日間確保してある。本来メイベルと約束した遠乗りは八月十一日を予定していた。
しかしどうやらカイエルに何か考えがあったらしく、九月二日から十日間かけて旅に出ようと言う事になった。メイベルは楽しみだった遠乗りがお預けになって少し肩透かしをくらったが、楽しそうに旅行を計画するカイエルの顔を見ているうちに自分も楽しくなってきたため良しとした。
イチャイチャで始まった旅行は九月二日から既に四日経過して五日目である。
今日までの道中。
穀倉地帯の様々な代官屋敷や領主屋敷に宿泊した。それらの責任者や領主はもちろん貴族である。カイエルの世代で生きている貴族という事はギリギリ悪くない貴族かギリギリ悪い貴族かのどちらかである。
帝国内に基本的に善良な貴族は存在しない。善良な貴族は先帝時代に取り潰されているか、民を搾取する楽な方へと流れたからだ。
そんな貴族たちの元へ暴虐皇帝が視察にくる。
あらかじめ連絡してあったがそれはもう諤々震々である。メイベルの前では甘々泥々妙々なカイエルだが、本質は高潔な皇帝である。民を苦しめ国を衰退させる貴族にはとても厳しい。
何かあれば首が飛ぶ。
迎える側は総じて慌てふためいた。
痛くない腹ではあるが探られていると考えると、自分が知らないだけで部下が不正をしているのでないか。気づいていないだけで民から税を取りすぎているのではないか。もしや民が知らない事情で実は苦しんでいて帝都へ直談判したのではないか。気にしはじめたら全てが怪しく見えてくる。
大体どこの人間もまずは平身低頭な謝罪から始まった。
「陛下! 申し訳ございませんでした!」
この言葉をカイエルとメイベルは何回聞いただろうか?
対したカイエルは。
「話せ」
しか言わない。
そこからはひたすらに押し黙る。
すると相手が無理やり見つけた不正や民の不満などをしどろもどろに報告してくる。
その間、カイエルは眉間に皺を寄せ、瞬きすらせずに、腕組みで睨んでいる。
そんな厳しい皇帝の顔をしたカイエルの顔はとてもメイベル好みである。
もちろんメイベルには政治的空気などわからない。だから脂汗をかきながら現状と改善点を必死で捲し立てる貴族などどうでもいい。ただ横にいるカイエルが美しい。それだけだ。
「エル。うつくし」
そう言ってカイエルの横に立ち、自分好みな褐色の横顔を見つめる。二十八歳。男盛り。海の太陽に灼かれた肌だが毛穴一つ見えないほどに肌理が細かい。ジッと見つめてくるメイベルの鼻息が頬にかかる。ついついたまらず長いまつ毛がパチパチと瞬いてしまう。
二人きりであればこの段階で限界を迎えたカイエルがメイベルをお姫様抱っこで抱え上げ、愛しい人への賞賛とキスの雨が降っているだろうが。
皇帝モードのカイエルはまだ頑張る。
無言で貴族を睨み続ける。
貴族も貴族で暴虐皇帝の隣に立っている絶世の美女が気になって仕方ないが、本能的にそこに触れたら不正どころではない事を肌で感じ取りひたすら存在しないものとして扱っている。
そしてそんな努力すらメイベルには関係ない。
カイエルが仕事中であるため、集中して聞こえていないと判断した。
自分も魔獣と戦っている最中に集中して周囲の音が消える事が多々あった。いわゆるゾーンに入った状態だが、それと同じだと思ったのだ。
ふむ。
と考える。ゾーンに入った時の自分の経験上。どんなに集中していてもポンから耳元に飛んでくる周囲の情報だけは聞こえた。ならばカイエルの耳元で自分の感想を伝えればいいのだと思い至り。
実践した。
「聞いて。エル。うつくしいの」
耳元で桜色のくちびるが紡ぐその波は、外耳に侵入し鼓膜を叩く。
あまりうるさくないようにと声量をしぼったそれは、計らずもとろりとしたウィスパーボイスになって、脳へとするりと流れ込み。そのまま脳から脊髄に流れて、その時に背筋へと電気のような刺激を与えた。
脳から脊髄を伝って腰まで疾る甘い電撃。
もうだめだ。
耐えられるわけがなかろう。
カイエルは腰から砕けて膝をついて地面に崩れ。
堕ちた。
「ベル。……わかった。わかったから……助けて」
天を仰ぎ。
一言だけ発した皇帝の表情は恍惚としていた。
急に崩れた皇帝に驚く貴族。
反応があった事に満足そうにするメイベル。
威厳を保つために立ち上がり。
なんとか厳しい皇帝の仮面をかぶっているが、足元が細かく震えるカイエル。
そこまで至り。初めて貴族たちはメイベルがカイエルの婚約者である事を知る。そして今回の訪問の目的が穀倉地帯の貴族たちへの婚約者のお披露目だと知るのであった。そこからは安心した貴族の歓待を受けて、明けた次の日に次なる貴族の館を目指して出発する。
この一連の流れが全ての目的地に到着するたびに繰り広げられた。
後半は完全にカイエルが耳元で囁いてほしいがためにあえてメイベルの言う事を無視している風情であった。
さて。
そんな旅路を経て。
本日辿り着いたのはエルー神聖国である。
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