教皇と家族と皇帝と。秘密が多いとお仕置きだよ。

 九月六日。

 夕刻。


 秋になり少し日が短くなったこの頃。

 カイエルとメイベルが着いた時分には夕陽が教会を赤く染めていた。メイベルがカナリア帝国に旅立ったあの日には見えなかった尖塔も今日はしっかりと真っ赤な姿で屹立している。夕陽に風景全てが赤く染められていて、まるで視界全部にフィルタがかかったかのようである。


「陛下、メイベル嬢。エルー神聖国にようこそ」


 赤い風景の中。ただ一人真っ白い老人。

 そこだけ切り取られたかのように白い。

 そんな白い老人は静かに笑っている。


「教皇猊下。此度は急な要望をお受けいただき感謝する」


 カイエルはそう言って、静かに頭を下げた。


「いえ、陛下。これは我が同胞であるメイベル嬢のために受けた事。どうかお気になさらず。頭などお下げにならないでくだされ」


 白の教皇は変わらず優しげに微笑む。


「“私”のメイベルのためにそこまで感謝する」


 我が同胞。


 この言葉に対してカイエルは軽い不快感と釘を刺すような言葉を返した。

 不快感。

 とは言ってもその表情は不正貴族や悪人に向けるような厳しい不快感ではなく、どことなく子供っぽくて、親戚のおじさんを嫌がっているようなそんな表情である。


「ふぉほほ。陛下は随分とメイベル嬢にご執心とみえる。幼き頃は冷めた様子で女などいらんと吐き捨てておられたのに。ご立派になられましたな」


 教皇の言葉通り。

 二人はカイエルが幼い頃に交流があった。

 教皇が教皇という記号に至る以前。まだ人の名前を持っていた頃。


 疑問を持った。


 教皇という記号であり続ける事。教皇という記号に至る事。教皇という記号の在り方。

 それらに疑問を持ったのは年齢にして四十歳。不惑にして生まれて初めて教皇が惑った。

 そんな教皇が旅立った先は先帝時代のカナリア帝国であった。正確には教皇が放浪の旅に出たという情報をキャッチした先帝が、帝国の付加価値を上げるために招待したのである。親子揃って神の加護持ちを招待するとは嫌っていても親子というのは似てしまうものである。

 先帝時代の帝国の在り方や、教皇の性格から考えれば、断りそうなものであるが、この時はなぜかエルー神に導かれるように帝国の招待に応じたのだった。その時に幼いカイエルと教皇は出会った。


 その当時カイエルは八歳。

 国民の惨状を目の当たりにしてショックを受けたばかりの頃である。


 幼いカイエルはその時に現れた教皇を神の遣いと考え、色々と相談していたのであった。その関係で教皇はカイエルの青いエピソードを数限りなく持っており、折に触れてそれでカイエルをからかっていたら、どうにも苦手意識を持たれてしまったという経緯がある。


 今日のエピソードもカイエルが婚約者選びでうんざりした時に漏らした本音である。


「……古狸が余計な事を」


「ぽん(つがい、呼んだ?)」


 教皇に届かぬように下を向いて吐いた言葉に狸魔獣のポンが反応する。古狸と言われては反応せざるを得ない。ポンはまだ若いのである。


「いや、狸同志は呼んでいないよ。目の前の白い爺さんの事を言っているんだ」


 カイエルとポンの二人はいつの間にかメイベル大好き同盟を結んでいた。カイエルがメイベルと婚約した当初のカイエルの嫉妬はポンにすら向かっていたが、メイベルとポンの魔境での関係性を聞いて以来、カイエルはポンの事を同じメイベルを護りし者として認めたのだった。


 それ以来の同志である。


 そんなカイエル同志の言葉にポンはスルスルっとカイエルの足腰を伝わって肩まで登り、メイベルにするようにマフラー状に首に体を這わせて体を安定させると話題の教皇をジッと見る。


「ぽーん(なーんだ。狸じゃないよ。あれは人間。狸が化けてるわけじゃないよ。確かに古そうだけどね)」


 ポンも気安くなったカイエルによく懐き、言葉の通じる第二の主人として認識している。むしろ最近はメイベルよりもちゃんと決まった時間に餌をくれるカイエルに頼っている面は大きい。メイベルはすぐに餌を忘れるのだ。

 そんな主人に報いるべく、その人間が不快感を向ける老人を見てみるも、あれは狸ではないという判断である。


「ああ、あれは正真正銘人間だよ。いやあれ人間か? ちょっと怪しいけど、まあ。あの爺さんは子供の頃から俺を騙してからかってくるんだ。よく人間が狸に化かされる話があるだろう? そんな感じにいつの間にか騙して俺の本音を引き出してきてはそれを聞いて揶揄うんだよ。だから……まあ、古狸さ」


「ぽ!(失礼な! 狸は人間を騙したりしないよ! 人間が狸に化かされたなんて話は大概人間側が勝手に酔っ払って馬鹿な行動をして狸のせいにしてるんだ。狸はそれを見て笑ってるだけさ! 思わず腹鼓打っちゃうよね)」


 それもいい趣味ではないな、狸同志。などとカイエルが苦笑いを浮かべていると。


「ふぉほほ、陛下。到着早々、私の悪口ですかな?」


 優しい笑顔を湛えながらカイエルとポンを見つめながら教皇が言う。


「いえいえ、教皇猊下の悪口など言いませんよ。ただ、子供の頃に猊下にしてやられた思い出を狸くんに話していただけです」


「楽しい思い出ですな」


 あえて慇懃に答えるカイエルのイヤミなどどこ吹く風と教皇はありし日を思い出すように目を閉じた。

 イヤミの通じなかったカイエルはガオウと吠える。


「またそういう風に良いように言う! 俺は全く楽しくなかった。酷い目にあった記憶しかないよ!」


 口調も含めてこれではまるで反抗期の少年である。

 実際、教皇に対してはカイエルはいまだ少年なのだ。ギャアギャアと喚いているが、ギャアギャアと喚ける相手というのは貴重である。

 幼少期からカイエルは親に甘えるという行為を一切してこなかった。できなかった。八歳の衝撃以前は先帝の周りの大人が空恐ろしい存在に見えており、衝撃以降は先帝も含めて諸悪の根源にしか見えていなかった。

 打倒すべき敵であり、甘えるとかそういう存在ではない。


 物心ついてからずっとカイエルは孤独であった。


 そんな中の唯一の白い存在、教皇がどれだけカイエルの救いになったか。当時。教皇の帝国への滞在期間は数年間だったが、カイエルの改革の火が燃え尽きず心に灯り続けたのは教皇との対話のおかげであった。

 大事に思っている。

 しかしそれを素直に表せるかどうかは別の話である。


「エル。教皇。いい人」


 いまだ何事かにゃあにゃあと吠えているカイエルを見かねてメイベルが横から口を挟む。

 そんな優しいメイベルを無言で見つめる。

 見つめながら。

 心の中で。

「ベル。わかってるよ。教皇は俺にとっては先帝よりも父なんだ」

 と呟く。


 しかし実際音として発せられるのは。


「ベル。信用しすぎたらダメだよ。俺も幼い頃信用して痛い目を見たからな」


 ただの悪口である。二十八歳の反抗期。素直じゃない。


「教皇。ほんと?」


 信じられないと教皇に問いかけるメイベル。


「ふぉほほ。どうでしょうな。人によっては感じ方はそれぞれですから。私としては陛下が幼い頃に親しくさせていただいたという楽しい思い出しかございません。陛下、具体的に何かございますかな?」


 と言われて脳にフラッシュバックするのは。


 青い思い出。

 むせるような刈りたての夏草の香り。


 それが胸の中一杯になって鼻から溢れでてくるような思い出だ。叫び出し顔を覆って逃げ出さないだけでもカイエルの精神力を評価したい。枕があったら埋まりたい。


「くっ、言えるわけがなかろう」


「では楽しい思い出という事でよろしいかな?」


「くっ、しかたない」


 精神的にくっころされた皇帝はもう黙るしかなかった。


「というワケですよ。メイベル嬢」


「仲良し。よかった」


 そういう事になり。

 全員仲良しという結論に至ったわけで。


 これだからカイエルは教皇に素直になれないのである。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



「ささ、メイベル嬢。この部屋へどうぞ」


 教皇自ら案内してくれた部屋は教皇の部屋ではなかった。

 白い扉。大きくシンプルな扉。二枚扉で中央に銅の取手がついている。


 メイベルの知らない部屋である。


「教皇の部屋は? あそこ好き」


 メイベルは教皇の部屋の心地よい雰囲気が大好きだった。半年前に訪れた時に肌で感じた。自分に加護を授けたエルー神の優しさや愛。まさにメイベルにとって聖地。

 ついてすぐにそこに行けると思って軽く表情にでるくらいにワクワクしていたのだが、これでは肩透かしであると不満げな言葉をもらす。

 そんなメイベルをあやすように肩に手を置いてカイエルが言う。


「まあ、ベルいいじゃないか。入ってごらん」


「エル。おすすめ?」


「ああ、おすすめさ。きっとベルが喜んでくれると思って教皇と俺で準備したんだよ」


「ぽん(これは狸的にもおすすめだね)」


 スンッと鼻を鳴らしたポンまでおすすめしてくる。


「ポンも? じゃあ入る」


 確かに中からいい雰囲気はしているし、全員がお薦めするならと承諾。

 それを機に教皇とカイエルがそれぞれ取手に手を掛け引く。

 静かに両方の扉を開いた。

 全てが開ききり、中の様子が見える。


 扉の先には三人の人間がいた。


 メイベルのよく知っている顔である。


 三人は開いた扉に反応して立ち上がった。


 懐かしい顔。


 父、母、兄。

 勢揃いシュート一家である。


「メイベル……」


 母、クーナがメイベルを呼ぶ。


「かあさん!」


 瞬間。

 扉の前に立っているはずのメイベルと。

 母、クーナの前に立っているメイベルが。

 同時に存在していた。


 そのように錯覚するほどの速度でメイベルは母の前へと駆けた。

 自分の前に一瞬で娘が移動してきた程度では一ミリも表情が変わらないクーナはやはりメイベルの母である。


 メイベルはそのまま母を抱擁する。


「かあさん。あったかい」


 二人とも身長が高いため、お互いの肩に顎がのる形で抱きしめあう。お互いの腰に手を回し頬を寄せた。

 そして鼻を鳴らす。


「久しぶりね。メイベルの匂い。まだ半年ちょっとしか経ってないのにね」


「かあさん。匂い。変わらない」


「そういうメイベルの匂いは少し変わったわ」


「そう?」


「ええ。潮の匂い。土の匂い。草の匂い。それと……まあこれはいいでしょう。婚約者ですものね。この程度なら許しましょう」


 そう言いながらメイベル越しに扉の外にいるカイエルを睨む。

 目つきと闘気は全く許していないが。

 真正面からそれを受けたカイエルの身は思わず震える。


 クーナの後ろには男二人が控えている。いつ自分の順番が回ってくるだろうかとソワソワしながら。父も兄も自分が先だとばかりに肘をぶつけあう。実に醜い戦いである。そんな小競り合いをしている間にも母と娘は離れていた時間を埋めているというのに。

 いち早くその事実に気づいた兄、サラザールは不毛な肘合戦を抜け出し、母の横からメイベルに語りかける。


「メイベル、元気だったかい?」


「うん。兄上も元気。仕事は?」


 不毛な肘合戦を横目で見ていたのだから父と兄が元気でいる事はわかっている。しかし兄、サラザールは魔境の守護以外にも王都での執務も持っていたはずであると思いだす。魔境の守護。それに関する書類仕事。四半期単位の魔獣討伐計画管理などなど。サラザールの多忙さは系統は違えど、メイベルにも匹敵するものであった。そんなサラザールがエルー神聖国にいる状況はメイベルにとって不思議である。

 仕事はどうした? となる。


「仕事かい? クビになったよ」


 サラザールは親指で自分のクビを一文字に掻っ切る真似をする。


「クビ? 切られた? でもある」


 確かめるようにサラザールのクビを左手で軽く締める。


「ぐうえ! くるし! 待って! なんでメイベルの首の基準はいつも物理的なのさ!? 仕事を辞めさせられる事をクビって言うんだよ」


「そう。私。一緒」


 メイベルも王太子妃及び王国の守護者をクビになったようなものだ。


「ああ、確かにメイベルと一緒だね。それと父上も母上も一緒だ」


「父上も? ほんと。かあさん」


「ええ、タウンゼンも私も魔境防衛の任を完全に解かれて領地もなくなったわ。メイベルの生まれた地をなくしてしまってごめんなさいね」


「大丈夫。父上。大丈夫?」


 やっと声をかけられた父、タウンゼンは嬉しそうにクーナの左肩側からメイベルに声をかける。


「ガハハ! メイベルがわしを心配してくれておる! 嬉しいのう!」


「うん。カラ元気」


 タウンゼンは王家の事はバカにしていたがやはり国民を守っているという事に関してはプライドを持っていた。これはメイベルにも引き継がれた意志である。だからメイベルはこの元気がカラ元気であると断じた。


「違うわい! もう王国に未練などないからこっちから公爵位を返上してやったんじゃ! ガハハハハ!」


 腰に手を当てて大笑いするタウンゼン。


「父上。きて」


 それを呼ぶメイベル。


「なんじゃ?」


「お疲れ様」


 そう言って近寄ってきたタウンゼンの頭をひと撫でした。

 ごわりとした蓬髪がゆっくりと横に流れる。

 ニコニコとしていたタウンゼンの顔は一瞬呆気にとられたものに変わり、それからすぐに真剣な顔に変わった。


「おう。ありがとうな、メイベル。魔境の守護に関しては無くしてもそこまで辛くはなかったよ。それよりもな辛い事はメイベルの事じゃ。ほんとうに……すまんかったな。結局の所、わしらは公爵家を返上する事になった。どの道こうなるんじゃったら、あの時に王家からの婚約など蹴ってやりゃあよかったんじゃ。じゃがわしは娘の人生と公爵家を天秤にかけてしまった。本当はあの時、わしがメイベルを守らにゃならんかった。わしに勇気がなかったから十年、可愛い娘に辛い思いをさせてしまった。ずっとな。ずうっとわしは謝りたかったんじゃ……すまん……すまんかったなぁ」


 ぼろぼろと大粒の涙が溢れる。それは豊かなひげを伝い、ぽたぽたと床に落ちる。


「父上。大丈夫。今。幸せ」


 メイベルはタウンゼンの頭を撫でたその手で今度はその涙を拭う。

 手の甲を涙が滑って落ちる。


「おう。そうじゃなあ。すまんのう。湿っぽくて。メイベルが幸せで本当によかったのじゃ。皇帝陛下のお陰か?」


「うん。エル。優しい」


 表情はなけれど、こくこくと上下するその顔は見るからに幸せである。


「そうかそうか。なら大丈夫じゃなあ」


「うん。あ。でも。たまに。意地悪」


「おう! そりゃあクーナに言えば懲らしめてくれると思うぞ! さっきも皇帝陛下に闘気飛ばしてたしの」


「あなた? 私はそんな無礼な事はしていませんよ。メイベルを幸せにしてくれる恩人に対して闘気を飛ばすなんて。ただのならず者ではありませんか」


 飛ばした闘気は完全になかった事にしている。

 クーナが白と言えば白。教皇だってクーナが黒と言えばタウンゼンの中では黒にせざるを得ない。

 仕方ないのでタウンゼンは会話の方向を変える事にする。


「お、おう。そうじゃのう。まあその辺は置いておいてじゃな。一旦正式に皇帝陛下に礼をするべきじゃと思うんじゃが? どうかのう」


「父上ェ! どうしたんですか常識人みたいな事言い出して!」


「うっさいわサラザール! クーナがメイベルべったりでやってくれないならわしがやるしかなかろう! てかお前が会話くらい回せえ! 元次期公爵じゃろう」


「やめてその複雑な肩書き!」


「タウンゼンもサラザールも皇帝陛下の前で失礼ですよ。ほら、一列に並びなさい。そう。ここに。ん。だめよ、メイベルは皇帝陛下の横へ行きなさい」


 結局。

 クーナが話を回す事になる。メイベルの抱擁を独占し続けてある程度満足しただけの可能性もいなめない。


「かあさん。隣。だめ?」


「ええ。貴女はすでにカナリア帝国皇帝の婚約者なのです。クリード王国を追われた私たちと並ぶべき立場にはありません。貴族教育はあまりできなかったけれど、その程度は理解できるようにはしてあるはずですよ? わかりますね」


「うん。母上。わかってる。最近。勉強。してる」


「えらいわ、メイベル。立派な皇后になれるように勉強しているのね。貴女は私とタウンゼンの自慢の娘よ。さ、行きなさい」


「うん」


 クーナの腰に回していた手をほどくと、ゆっくりと後ろを向き、家族の様子を微笑ましく見守ってくれていたカイエルの元へと一歩進む。カイエルもまた扉の外から室内へと一歩進む。

 一歩一歩とお互いに歩み寄り、手をとりあい、シュート一家に向きなおった。


 カイエルは皇帝らしく剛と立ち。

 メイベルは皇后らしく凛と立ち。


 まるで元々セットだったかのように。


 そんな二人にシュート一家は跪いて臣下の礼をとる。


「皇帝陛下。此度はシュート家の亡命を快くお受けくださり感謝の言葉もございません」


「良い」


「加えて。我が娘、メイベル・シュートとの婚姻の儀にご招待いただき恐悦至極」


「うむ」


「教皇猊下におかれましても。御身自ら今回の婚姻の儀を執り行っていただけると伺っております」


「ええ。皇帝陛下との縁。メイベル嬢との縁。二つの縁が重なったこの婚姻。是が非でも取り仕切らせて欲しいと。私からお願いしたのですよ」


「そのような光栄に浴する機会を下さったご両名に深い感謝を。また皇帝陛下には我らシュート一族からとこしえの忠誠を!」

「とこしえの忠誠を」

「忠誠を」


「うむ。よく仕えよ」


 その皇帝の威厳にその場の全員が心底の忠誠を感じる。これがカリスマというものであろう。

 ダイモン大陸の統一宗教のトップである教皇ですら感じる恭順。

 シュート一家も同様である。先ほどまでの言葉も取り繕うだけならば誰にでも向けられる言葉である。だが心からの言葉は別である。今までシュート一家はクリード王国の貴族としてやってきた。同じように忠誠を誓う言葉など吐き捨てるほど吐いてきた。だが一度も王家に対して尊敬や忠誠を感じたことなどなかった。むしろ馬鹿にしていた。

 だが。今は違う。心から溢れ出る言葉であった。

 一家全員。これが真の忠誠か、と感動に震えている。


 一名以外。


「ねえ。エル。うつくし」


 皇帝モードのカイエルはメイベルの大好物である。凛と立ち続けていたのも途中まで。カイエルが「うむ」とくちびるを横一文字にひき結んで顎を引いた姿をちらちらと見始め、「よく仕えよ」で終わったと判断したのかいつものように横にべったりと張り付いて見つめはじめた。

 すっと伸びた鼻梁から斜め下にある顎。

 そこへ至るくちびるを含めた美しいラインを横から見るのが最近のメイベルのお気に入りである。


「ちょ、ベル! 今そういうタイミングじゃな! やめ」


 耳元が弱いカイエルは大慌て。威厳のある皇帝モードを維持する事ができない。

 メイベルは慌てるカイエルなどかまわずに耳たぶの下からはじまる顎のラインを繰り返し撫でていたが、ふと思い出したように手を止めて耳元に囁きかける。


「婚姻? 何?」


 タウンゼンの口から語られた婚姻の儀。カイエルも教皇も家族もポンもみんなわかっているようであった。しかしメイベルはそんな話は知らない。知識のないメイベルであるが、最近本を読んで勉強している。その中で読んだ歴史書でカナリア帝国では代々エルー神の御名の元に婚姻の儀をしている事が記載されていた。


 その事であろうが。

 当人のメイベルはそれを知らない。


 当然である。


 カイエルは婚姻の儀をここで行う事を秘密にしていた。

 家族との再会も含めてサプライズの演出である。遠乗りの約束をした時にこれはいっその事長期の休みにして、新婚旅行兼婚姻の儀にできないだろうかと思いついてしまった。


 そこからは有能なカイエルである。

 あっという間。


 メイベルが婚約の報告をした手紙(三行詩)に合わせて、シュート公爵家へ婚姻の儀の招待状を暗部を使って極秘で届けさせた。同時に教皇へと日時指定で婚姻の儀を頼んだ。急な話で通常では無理筋な話であるが教皇はこれを快諾。教皇がカイエルの弱みを握っているのと同様に、この程度の無理を通すくらいの貸しは作ってある。後は自分の仕事を前倒しで終わらせる。あの超高速で疾走していたペンの理由はそれだった。


 こうやってサプライズ婚姻の儀の準備は整った。


 感動的な家族の再会。

 準備万端、後は執り行うだけの婚姻の儀。


 それは耳元への囁きとして返ってきている。


「だか、ら。めて。ベル! 説明する! 説明するから! 耳元で言うのはやめ、ね、やめてえ」


 喘ぎながら必死で拒否している。が、喜んでいるのか拒んでいるのか。

 癖になってんなこれ。


「だめ。エル。今回。内緒多い! おしおき」


「ほんとにやめてえ」


 これではお仕置きなのか、ご褒美なのか。わからないが、メイベル的にはお仕置きなのだろう。

 そんな二人のやり取りはしばらく続き。


 その間ずっと。

 両親と兄は臣下の礼をとっている。


 俯きながら。


 こんな事になるならもう少し貴族教育に力を入れるべきだったと心の底から後悔し。


 同時に。


 先ほど誓った忠誠を少し返して欲しくなったりするのであった。


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