起きた部屋には見知らぬ女。お風呂きもちい。

 四月六日。


 生まれたての朝日が、生の時間の始まりを告げ、窓の外では鳥が喜び、その鳴き声は室内まで響く。


 朝の少しひんやりとした空気と、差し込む日の温もりで、室内の環境はまどろみに適した状態に保たれており、そんな室内ではメイベルがすやすやと眠っている。

 眠るそのベッドは天蓋付きで、決して狭いとはいえない室内でも大きく存在感を主張している。派手ではないが豪華でバランスの良いベッドである。

 その上へと手を伸ばす朝日はさらに眠る美女にまで手を伸ばそうとするが、天蓋のフレームから垂れ下がるレースのカーテンがそれを程よくはばみ、光はメイベルに届くことはない。

 そのお陰ですうすうと寝息を立てながら垂らしたヨダレを傍の狸に擦り付ける事ができるのである。


 ここは帝城内の中庭に面した一室。

 室内の調度、日当たり、環境、それら全てがこの部屋を最上級だと物語っている。


 メイベルが与えられた寝室である。


 昨夜。


 カイエルに幸せにすると宣言された直後。


 執務室の扉が乱暴に開かれ、そこへ皇帝を守護する全ての人間が雪崩れ込んできた。

 もちろん異変が起こった執務室にいる皇帝を救うためにである。


 皇帝の守護者が開いた扉の先、そこに立っていたのは皇帝と女性。相対した女性は明らかに強者のオーラを纏っている。どう見ても暗殺者だ。皇帝に敵は多い。

 と、当然考える。


 こうなっては問答無用。

 扉から雪崩れ込んできた守護騎士と暗部は吠えた。


 よってたかってメイベルに剣と暗器をむける。もちろん生きて捕える気などなく、殺す気満々である。しかしメイベルはそれら全てをことごとく瞬時に無効化した。この程度の相手、メイベルとしては余裕である。必殺の脚を使うまでもなく、軽くあくびを漏らしながら、ここまで飛んでくる最中に食べた肉串の串で剣や暗器を軽くあしらう。そんななめ腐ったメイベル暗殺者に苛立ち、さらに増援を要請しようとした守護騎士。

 それに対して、今度はカイエルが吠えた。


「やめろ! この女性は我が伴侶となるべく、クリード王国からきたメイベル・シュート公爵令嬢だ!」


 ピタリと。


 その場にいた全員が止まった。


 表情が語る。


 無言ながら雄弁に。


 ご冗談でしょう? と。


 皇帝の執務室の窓をぶち破った挙句に、その室内に不法侵入し、それを確保しにきた守護騎士を赤子扱いし、あくびをしている。確かに美しい。だがしかし悪魔じみた強さの女が?


 お妃様?


 同時にメイベルも止まった。


 正直忘れていた。傷心旅行という体でここまで来たが、そういえば婚約者として請われて来ていたのだった。客分としてならまだごめんねして国に帰るだけだからいいが(よくはないだろうが)、流石に婚約者の行動としてこれはギリギリ(完全に)アウトであると考え至る。


 やっちまった、と。


 その場にいる全員が顔を見合わせ、誰かがうっそでーすと言ってくれるのを待ったが、もちろんそんな人間は現れない。そしてカイエルは冗談をいう人間ではない。これは本気なのだという認識がだんだん全員に染み渡っていく。


 末端までそれが行き渡った段階でカイエルが侍女を呼び、メイベルを寝室まで案内するように命じたのであった。やってきた侍女に連れられ、執務室を出ていくのとすれ違いに、肉串を焼いていた少年ジョンが執務室にやってきて、あちゃーという顔をメイベルに向けたが、メイベルはそれを無視して一つうなずいた。

 やってしまったものは仕方ない。切り替えていこう。


 そんなメイベルが案内されたのがこの部屋である。


 今はベッドで寝返りをうちながら、むにゃむにゃと口を動かし、半覚醒の状態だろうか? 目が薄く開いたり、閉じたりをしばらく繰り返した後、どうやら起きる事に決めたらしく、上体を起こした。


「んー」


 という声と一緒に背筋を伸ばすと、再び後ろへとパタリと寝転んだ。怠惰である。どうやらヨダレを拭うのに頬を擦り寄せたポンの毛並みがくすぐったかったらしく、頬をポリポリと掻いている。頬を掻いて不快感がなくなったのか、再び訪れた眠気に、このまま二度寝をしようか、それとも起きようかと迷っていると、それに伴ってまぶたも上がったり下がったりである。


 そんな寝ぼけた視界に入ってくるのは、知らない天蓋、知らないベッド、知らない窓、知らない景色、知らない女。


 全て見慣れない景色。


 ……女?


 寝転んだまま目を開き、横を見ると確かに女がいる。見間違いではなかったらしい。


「だれ?」


 気配なくベッド脇に立ち、寝転ぶメイベルをニコニコとのぞき込む女にメイベルは問いかける。女はのぞき込むために軽く曲げていた腰をピシリと伸ばし、姿勢および表情を正した。


「侍女のマイラでございます。お妃様」


 先ほどまでとは異なり実にまじめな表情。手を腹のあたりで合わせ、凛とした姿勢で真っ直ぐに立っている。


「なぜここに?」


「お支度をさせていただくためです。お妃様」


 繰り返されるお妃様と言う呼称。カイエルは伴侶として紹介していたが、メイベル本人としてはまだ伴侶となるつもりできたわけではない。不満である。


「お妃様やだ。メイベル」


 表情は変わらないが、実に嫌そうなメイベル。それを見た侍女マイラは無表情かつ不満げというその可愛さに思わず微笑みかけるが、その緩みそうになる頬を職業力で持ち上げる。


「侍女が皇族をお名前で呼ぶ事はありません。お妃様」


「皇族じゃない。お妃様はだめ。命令」


 むーとしながら腰に手を当てる。これにはいかな帝国の侍女とて敵うものではない。

 降参である。


「命令とあれば。仕方ありません。メイベル様とお呼びさせていただきます」


「ヨシ。で? 支度?」


 満足である。

 メイベルはメイベルであると言わんばかりに、んふうと鼻から息を噴き出した。


 メイベルはメイベルとして以外の呼称を好まない。

 魔境での個の存在証明がそこにしかなかったためであるが、本人としてはそんな細かい事はわからず、漠然と気に入らないだけである。


「私めに全てお任せ頂ければ問題ありません」


「そう? じゃ任せる」


 とは言ってもメイベルはこれから何が始まるかは全くわかっていない。

 メイベルは貴族であるが、誰かに支度を任せた事はなかった。ほぼ魔獣討伐で前線に出ずっぱりであったし、基本的にはいつでも血だらけになっているため、高位貴族の侍女たちがその支度を手伝うことなど到底無理であった。


 つまりは人生初体験の貴族的身支度である。


 支度の手始として、メイベルは風呂に案内された。


 風呂に着いて。


 ふと、気づく。


 自分がいつの間にか全裸になっている事に。


 深層の魔獣でもここまでの速度で防具破壊をしてくる敵はおらず、人間に簡単に装備破壊を受けた衝撃でメイベルがワタワタしている間に、今度はそのまま浴槽に放り込まれた。相手に敵意や殺意がなく、自分で任せると言ってしまった関係上、メイベルはどうにも調子を崩され戸惑う。


 任せると言った自分の言葉を若干後悔した。


 が。


 しかしそれも始めだけ。


 そんなものはあっという間に湯に溶ける。


 放り込まれた風呂にはられた湯の温度がなんとも心地よく、湯気にのって鼻腔をくすぐる花の香りが、否応なくリラックスを押し付けてくる。なんという暴力的なリラクゼーションだろうか。

 王都のタウンハウスの風呂も心地よかったが、ここは完全に別格である。


「ほふん」


 ついつい。気が抜けた声が漏れる。


 メイベルがそんな風に気を抜いている間に、気づくと周りには十人ほどの人間がおり、浴槽から上がるように促された。本当は上がりたくなかったが、ニコニコと微笑む十人の人間に囲まれてはどうしようもなく、大人しく浴槽から上がると、今度はその十人に取り囲まれ、全身を磨き上げるように洗われる。

 メイベルは初めての体験に恥ずかしいやらくすぐったいやらで身をよじって逃げ出そうとするが、「メイベル様は私めにお任せくださいました」という妙な説得力を持ったマイラの一言で大人しくせざるを得なかった。

 マイラの恍惚とした表情と、時々漏れる変な吐息に若干の疑いを持ちながらもされるがままとする事にした。


 正直、メイベルが力を出せば十人を超す人間といえどものの数ではない。

 本気で嫌だと思えば、メイベルはどんな場合でも拒否していただろう。それをしないという事は、戸惑いながらも心の底では初めての体験を楽しんでいるのであった。

 横でポンが自分と同様にアワアワにされ白狸となっているのを他人にはわからない笑顔で眺めているうちに、初めての貴族的湯浴みの時間は過ぎていったのだった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 風呂から上がり、すっかりと体を磨き上げられ、ツルツルのモチモチに仕上がったメイベルは薄布一枚というあられもない姿で次の部屋へと案内された。その部屋には大量のドレスが並べられ、全身がうつる鏡が据えられた豪華なドレッサーが置かれていた。

 鏡にうつるメイベルの体は、お湯で温まって上気しており、ほかほかと湯気が立ち上っている。薄布の下の美しいボディラインから立ちのぼる湯気はまるで神気のごとき荘厳さで、その姿に周りの侍女たちからため息がもれる。

 そんなメイベルに鏡越しに横からマイラが話しかけてきた。


「メイベル様は素材がよろしいので、味付けはシンプルにさせていただきますわ。その方が皇帝陛下もお喜びになるかと思われますし」


 素材? 味つけ? 皇帝が喜ぶ? 言っている意味がわからず、思わず鏡越しにマイラを凝視する。


「味? ポンの方が美味しい」


 食べられるのはごめんだ。

 言葉だけの意味であれば食用の話であり、自分よりも狸のポンの方が美味しかろう。と言う提案である。

 深層の魔獣もポンを食べようとしていたし、スナック感覚の美味しさがあるだろう。と言う提案である。


「ぽん!?(ご主人!? ぼくを売るの? ぼく皇帝に食べられる!? やだよう!)」


 自分が食べられる事に驚いたポンがメイベルに飛びついた。その拍子に薄布がすいと引っ張られ、肌があらわになりそうになったので引っ張り返すと、今度はポンが後ろにコロンとひっくり返った。そんな二人のやりとりを見て、言葉はわからないながらも内容を理解したマイラが笑って言う。


「メイベル様もご冗談をおっしゃるのですね。大丈夫よ、ポンちゃん。こんなに可愛くてふかふかな貴方は食べちゃいたいくらい可愛いけれど、本当に食べたりしないわ。食べたいほど可愛いでいえばメイベル様も同様ですしね。本当に。ええ本当に。食べたいほど可愛いですわあ」


「マイラ?」


 安心させるような言葉と並行で、不穏当な言葉をくちばしる侍女マイラに若干怯えるメイベル。深層の魔獣にも怯えた事がないから、もしかしたら人生初の怯えかもしれない。


「あらあら。冗談ですわ」


 そう言いながら、ひっくり返ったポンのお腹を撫でる。ポンもマイラの妙な迫力に完全に降伏している。


「ぽーん(びっくりした。お詫びに腹をもっと撫でていいよ)」


「もっと撫でていいって」


 メイベルがポンの気持ちをマイラに代弁する。


「あら嬉しいわ。でもポンちゃん、今は貴方のご主人様のお支度をしなければならないから。その後でね。私にはメイベル様をさらにお美しくするという使命があるのよ。どぅふ、どふふふふふ」


「……ぽん(こわ。……やっぱりマイラはご主人に譲ってあげるよ)」


 マイラの狂気的な笑顔に怯え、手のひらクルー的な感覚で、腹肉クルーっとひっくり返って体勢を戻し、ポンはソファの上に逃げ出した。


「ポン?」


 従魔の裏切りに、じとっとした視線を投げかけているメイベルに、マイラがほほほと笑いながら近づいてきた。若干警戒の体勢をとるメイベル。


「メイベル様、ご安心を。先ほどの味付けとは冗談で、ただの化粧の話ですのでご心配なさらず。メイベル様はそのままでもお美しいので、それを損なわず、より美しくするだけと言う意味ですわ。何卒私どもにお任せください」


「……化粧? 初めて。任せる」


 さっきも同じような事を言ったな。とメイベルは考える。まかせた結果、風呂も悪くなかったし、化粧も任せてみるかと思うが、やはりマイラの笑顔は恐ろしく、未だ若干の疑いを含んでいるが、それでも任せる事を決断したメイベルであった。


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