海と水着と水泳指導。泳ぎたのし。

 七月二十一日。


 砂浜に立ったメイベルは仁王立ちで海に向かってつぶやいた。


「つよい」


 真っ黒なセパレートビキニの水着を纏った後ろ姿は、さすが機能美の極地といえる美しさであった。

 太陽の光を全て吸収し、その光を全て消し去らんばかりの黒い水着と。

 太陽の光を全て反射し、その光を世界に見せつけんばかりの白い肌。

 白と黒のコントラストが夏の景色を美しく彩っている。


 それを見ているのはカイエルとポンのオス二匹。あえてオス二匹と形容しよう。愛する女性の水着姿を初めてみる人間の男などただのオスである。普段の精悍さなど何処へやら。鼻の下が伸び切っている。

 ちなみにこの水着を選んだのはカイエルである。わざわざ交易商人を呼びつけ、海外で流行の最先端と言われている品の中からメイベルと一緒に選んだのだが、メイベル自身は特に興味なく、何でもいいと言うので一番好みの品を選んだ。結果大満足である。


「たぬき君。あのメイベルの美しさはどう思う?」


「ぽん(狸に人の美はわからないけどご主人は狸から見ても美しいよ。毛皮がないのが残念だけど。なぜ人はあかむけの肌をさらしたがるのか?)」


「ふむ、やはり狸か。あの露出の良さがわからないとは。普段隠された部分があばかれる時の価値とロマンは共有出来なさそうだ。あまつさえ隠れていた方がいいとは……同志とはいえそこは相容れないな」


「ぽん(狸からしたらツヤツヤした毛並みこそが至高だからね。お互いの価値観は尊重しようよ。まあこの季節で暑くなさそうなのはいいと思うけど……)」


 人と狸のアホな会話である。


 まあそもそも。


 Q.なぜ水着。

 A.海だからである。


 Q.なぜ砂浜。

 A.海だからである。


 Q.なぜ仁王立ち。

 A.メイベルだからである。


 そんなわけで。

 今日は皇帝の夏休み。

 カナリア帝家のプライベートビーチにやってきている。

 普段激務なカイエルは夏休みなどとったことはなかった。

 エブリディウィークデイ。エブリディ執務デイだったカイエルであるが、デートの一件でメイベルに休みをとるように言われ、それに従って休みをとるようになった。


 今までは休みなど取る暇などあるものかと思っていたが、休みをとるように調整し、実際休みを取ってみると体調が良くなり、心にも余裕ができ、仕事の効率が上がって自然に休みが取れるようになっていった。

 そうやって夏休みをとれるまでにワークライフバランスが改善されたのである。


 またカイエルを癒すのは休みだけではない。

 むしろそれは派生品で、何より一番カイエルを癒すのはメイベルの膝枕である。

 あのデート以来、カイエルは毎日メイベルの膝枕を所望した。それこそ駄々っ子のように。どんなに忙しかろうが、メイベルが寝る前に膝枕で髪を撫でられに私室を訪れていた。

 またメイベルも嫌がる事なくむしろ楽しそうに撫でていた。


 そんな二人を帝城の人間は婚約も間近であると喜ばしく見ていた。

 なぜ喜ばしいかと言えば。カイエルの暴虐、悪虐な皇帝という面はメイベルが来てからというものすっかり鳴りを潜めているからである。元々は貴族連中がばら撒いたネガティブキャンペーンであったが、逆に人心掌握に都合がいいとそれを利用し、理不尽な行いはしないものの一定の恐怖による支配を行うためにあえて恐ろしげに振る舞っていた部分がある。


 古くからカイエルに仕えている人間はもちろんカイエルが優しい人間だという事はわかっていたから何という事はなかったが、新人などには覿面に効果を発揮していた。

 しかしメイベルが城に来て以来、カイエルはその面を出す事がなくなっていた。城の廊下を歩く際に眉間に皺を寄せた渋面は朗らかな笑顔に変わり、歩くたびに人を威圧するような足音はたまにスキップをするようになっていた。その変化を帝城で働く人間は良いモノとして受け入れいてた。


 そんな具合であるから、未だ書類上は客人という扱いはあるが、帝城内でメイベルはすでに婚約者として見られており、正式な婚約はいつになるかという話題で持ちきりだった。


 もちろん。婚約を待ちわびるのはカイエルも、である。

 早く正式に婚約したい。


 春のデートでグッと距離を近づける事ができた。

 結婚前の男女が夜に私室で二人きりになるなどもはや既成事実ができていると考えても差し支えない状況ではあるが相手はメイベルである。そんな事を理解していない。カイエルの感触としてもメイベルの心を掴めている自信は全くない。むしろ気づいたら幻のごとく消えていそうな気さえしてくる。


 何があろうと手放したくないというのが本音である。何せメイベルがこの国に来て以来良い事しかない。


 デートでサラッと放った海中への威圧。

 あれのおかげで荒れていた海の魔獣がこの国の経済水域から消え去り、そのおかげで交易も漁業もノーリスクとなった。損害がなくなるという事は当然利益が増える。漁業であれば網が破られる事が減り、今まで魔獣に食べられていた魚も人間が漁れるようになった。交易であれば大型魔獣に襲われる事がなくなり、今までは一航海十隻で出たとして必ず一、二隻魔獣に船を沈められていたがそれがなくなり、その分の荷物も取引できるようになった。

 増える利益。増える税収。

 春から夏にかけての四半期だけだが、例年の倍の税収が見込める状況だ。


 こう聞くと金のためだけかとなるがそうではない。


 カイエルとしてはそんなのはただの副産物だ。

 極論。メイベルが目の前に立っている。それだけで良いのである。


 それを永遠とするためにここらで一つメイベルの気持ちを掴みたい。そんなカイエルの目論みをよそにメイベルは相変わらず海に向かって仁王立ちしている。


「勝てるかな?」


 再度、メイベルがつぶやいた。

 海に向かっていうセリフではない。


 そのメイベルらしい感想に後ろで聞いていたカイエルは思わず吹き出してしまった。


「なに?」


 メイベルがふりかえりカイエルを睨む。

 気まずそうに目を逸らすカイエルだが、目を逸らしたのはなにも笑ってしまったからだけではない。


 水着姿のメイベルが目の前にいる。


 これが最大の理由である。


 腰をひねるようにして後ろを振り返るその姿勢はよりメイベルの肢体の美しさを強調する。

 ドレス姿からもその曲線の美しさを理解しているつもりだった。しかしそれはあくまでつもりであった。纏う布の面積が減る。当然露出される肌の面積が増える。

 それだけでここまで心を掻き乱されるものかと。

 貴族の内乱を鎮めた戦場でも心の乱れる事のなかったカイエルは自分の事を強心臓だと思っていたが、今日その認識を改めざるを得なかった。


「君の方が強いさ」


 弾む心臓を隠すように殊更クールにメイベルの言葉に乗っかってみる。


「当然」


「当然か、そうだな。確かにメイベルなら海も割れそうだ」


 メイベルを見る事なく冗談めかしていうカイエル。

 それを聞いたメイベルは向き直り、不思議そうな顔で海を見つめた。確かに大きいし強そうである。初めて対戦するから割れるかどうかわからないけど蹴ってみたらどうだろうか? 自分の一番の強みである。これで割れないならなにをやっても割れないだろう。

 そう考えて、軽く二、三度蹴りを放ってみると、その衝撃で波打ち際が軽く割れた。

 メイベルはカイエルへ振り返る。


 割れた。


 ドヤア。


 無表情ではあるがそんな感情が顔に現れている。最近少しだけメイベルの表情がわかるようになったカイエルはそれをみてすごく嬉しくなった。カイエルの男らしい顔が思わず綻ぶ。


 それをみたメイベル。ふと気づいたように口を開く。


「顔、赤黒い」


 カイエルを指差して言う。確かにメイベルが言うようにカイエルの顔色は普段の褐色よりも赤さも黒さも濃くなっている。


「日差しが強いからね。日焼けするんだ。仕方ないよ」


 とは言ったが言い訳だ。

 赤くなったのはメイベルの美しい水着姿をみた事が原因である。


「日焼け? カイエルは軟弱」


 メイベルも珍しく軽口を叩く。海の魔力に心躍っているのだろう。


「ははは、確かに軟弱かもしれない。メイベル流に言うなら陽の光に負けたわけだ」


「……私も?」


 負けるという言葉にハッとして頬に両手を当てて熱をはかるような動作。

 自分も日差しに負けて顔色が変わっているか? という問いである。

 しかしそんなメイベルの心配は杞憂に過ぎない。


「いや、君は変わらず雪のように白く美しい」


 どこまでも白い。

 夏の日もメイベルを傷つける事はできない。カイエルが言うように雪のように白い。まるで大陸北方のクリード王国を象徴するような白さだ。


「そう」


 一言だけ呟いた後、頬に当てた手でムニッと自分の頬をつぶす。美人なタイプのメイベルの顔がまんじゅうのようにつぶれ、一気に可愛らしさを加速させる。


 これはメイベル流の照れ隠しである。


 メイベルはカイエルに美しいとほめられる事を嬉しく思っていた。カイエルはいつもメイベルを美しい美しいとほめそやす。どこまでも甘やかす。どれもメイベルの知らなかった事で、そうやってほめられるとなぜかいつも胸が痒くなる。はじめは不快だったこの痒みが最近はなぜか心地良くなってきている。


「ああ。では美しい婚約者殿、軟弱な俺に泳ぎを教えてくれますか?」


「泳ぎ?」


 知らない言葉だった。


「ああ、水泳だ」


「なにそれ?」


 全く知らない言葉だった。


「知らない? 水の中の移動方法だけど?」


「知らない」


 魔境で水の中に入るなど自殺行為であるし、水を越えなければならない場合は水の上を歩いていた。水中の魔獣を討伐するのであればまずは威圧で誘き寄せてからやるのが常套手段である。わざわざ相手のフィールドに入る必要などない。

 つまりメイベルはカナヅチである。


「では俺がお教えしよう。お手を——」


 メイベルは素直にその手をとり、二人で燦々と降り注ぐ太陽の下を海岸に向けて歩き出した。

 狸のポンはそんな二人をパラソルの影の下から横目で見送るのだった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「冷たい」


 生まれてはじめて水の中に腰まで浸かったメイベルの感想である。


 実はこの感想に至るまで小一時間かかっている。

 最初はごく当たり前のようにカイエルは手を引いてメイベルを海に誘った。普通であればそのまま重力に従って海底を踏んで歩き海に浸かる所であるが。


 そこはメイベルである。


 癖になってんだ。水面を歩くのが。


 とても自然に海面を歩いていた。しかも超速度で海面を踏みつけるものだから水面は振動し、カイエルまでその振動が伝わってまともに喋る事すらできなかった。


 頬まで震えるカイエルをみてメイベルは誰にも知られぬ表情で少し笑った。


 そこから一旦砂浜に戻り、カイエルが何度も大丈夫だから大丈夫だからと繰り返し子供をあやすように説得して、何とか海面を歩く事をやめて今のこの状況である。

 それでもカイエルの手をしっかりと握って離す事はしない。海の中ではふあふわとして自分の体重が半分くらいどこかに行ってしまったようで不安なのである。


「水温は季節の二か月遅れとも言われるからまだこの時期だと少し冷たく感じるかもね」


「カイエルは?」


「俺はなれっこだよ。子供の頃から城を抜け出しては一人馬に乗ってここまで泳ぎに来ていたからね」


「ふーん」


 珍しく誰にでもわかるくらいに膨れ顔のメイベルを見てカイエルは嬉しくなった。


「俺ができるのに自分が出来ないのは不服かい?」


「そんなことはない。できるようになればいい」


「やはり君は強いね」


「当然」


 胸を張る。胸元の水滴が弾けて飛び、キラキラと光を受けて踊る。見慣れてはきたがやはり揺れるそれをアピールされるとどうしてもカイエルの視線は逸れてしまう。


「ヴッン」


 外れた視線を軽い咳払いで跳ね上げる。


「教えて、カイエル」


 反対にメイベルは視線を真っ直ぐにカイエルに教えを請うている。


「ああ、わかった。こうやって水中で身体をのばせる? ……仰向けになって寝る感じだよ」


 カイエルが実際に仰向けになって水中に浮いてみせる。耳くらいまで水に浸かり、顔だけ出した状態でメイベルに問いかける。


「水の中で寝たら死ぬ」


 水に浸かった耳に響くメイベルの声は少しエフェクトがかかったようで。でもそれがまた可愛らしい。いつまでも聴いていたいとカイエルは思うがそうもいかない。

 ざぶりと体を起こす。


「もちろんそうだ。大丈夫。頭の方で肩を支えているから。さっきの俺みたいに横になれば自然と顔が出るように誘導するよ」


「そう」


 小さくうなずくと、珍しく不安げに腰を落とし、水の中で小さく丸まる。


「うん。そのまま体を横に伸ばして、全身の力を抜けば自然と体が浮くから」


「ちょっと怖い」


 水中でうずくまり、水面から顔だけ出ているメイベルが上目遣いでカイエルに恐怖を訴えかけてくる。

 クールなメイベルが少し眉根を寄せて伝える恐怖。伝わってくるのは恐怖よりも可愛いという感情だけだった。


「だ、だ大丈夫。ほら後ろに回るから、やってごらん」


「カイエルも怖い」


 明らかに大丈夫ではない声にメイベルの不安はさらにつのる。


「違う。これは君のその姿が可愛すぎて動揺しているだけだから……」


「カイエル。真剣に」


 可愛いとほめられる事は嬉しいが、今は違うとメイベルは思う。カイエルからすれば単なる水泳だが、メイベルにとっては人生の中で初体験なのだ。しかもフィールドも未知の領域だ。


「ああ、すまない。俺がいるから大丈夫だ。安心して力を抜いてくれれば絶対に俺が支えるから!」


「そう?」


 力強い言葉に納得したメイベルはゆっくりと体の力を抜き全身をのびーんとさせる。一度は軽く沈むが、ぎゅっと目を閉じ、息をとめる。カイエルの言葉を信じて力を入れないようにしようとするがどうしても体がこわばるのがわかる。それでもカイエルを信じて足を着かないでいると、背中、肩あたりに暖かい手を感じた。その手に体を任せるように力を抜くとすぐに水面へと体が浮かぶの感じた。


 おずおずと鼻から息を吸い呼吸ができるのを確認してから、うっすらと目を開くと。


 一気に。


 刺激が飛び込んできた。


 夏の太陽はキラキラと光り。

 水の中の音と。水の外の音。

 これが水のフィルター越しに混ざって聞いたことのない音が聞こえる。

 鼻から吸い込んだ空気は潮の香りと湿った香りが混ざっている。

 これが夏の香りかと大きく空気を吸い込むとさらに体が水面に浮上する。


 水面から浮き出た胸部は水に濡れ、陽の光をキラキラと反射させる。


 背中を支えるカイエルはどうにもそこに目を奪われてしまい、支える手がおざなりになってしまう。

 そしてそれはメイベルに伝わるのである。


「真剣にやって。死ぬ」


「ああ、すまない」


 メイベルを支える事に集中しようと顔を天に向けると、天の日が罰を与えるようにジリジリと顔を焼いてくる。


「どう?」


「上手だよ。生まれて初めてとは思えないくらいだ。こうやって浮く事さえできれば後は簡単だよ。メイベルならすぐ泳げるようになるさ」


 カイエルはこの後、二人で並びながら泳ぐ姿を想像している。

 波打ち際でキャッキャウフフした後は、まだ泳ぎがおぼつかないメイベルを支えながら一緒に沖の方まで行って、不安がるメイベルの可愛い姿を記憶に焼き付けたい。水の中で屈み込んでいたメイベルのあの不安げな表情を焼き付けたい。普段無表情なメイベルがあんなに感情を表してくれるとギャップで何十倍にも味を感じる。もっと噛み締めたい。

 などとやましい気持ちを持ちながら。


 実際。

 その言葉通りにメイベルは泳げるようになった。


 なりすぎた。


 カイエルの想像など軽く越え、やましい考えなど粉砕するほどに。


 上達した。


 今は。

 回遊魚よりも高速でプライベートビーチの沖合を泳ぎまくっている。

 しかもほぼ水飛沫を立てないステルス泳法を会得しており、水中から突如カイエルの前に浮かび上がり、びっくりさせて楽しむようにまで上達している。

 水面に浮けるようになってから一時間ほどでここまで上達した。


「……我が婚約者は素晴らしいな」


 イルカショーさながらのメイベルジャンプを眺めながらカイエルはつぶやき、そうしてその口でそのまま夏の日に消えた儚い夢を奥歯で噛み締めた。

 たぬきはその横でフーンと鼻を鳴らすのだった。


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