夕べの気づき、夜天の誓い。カイエルが好き。

 七月二十一日。

 黄昏。


 プライベートビーチを望む瀟洒な館。ここは皇族専用の別邸である。

 海の青に合わせて白く塗られたその館。今は夕日に照らされて紅く染まっている。


 景色を遮るものは何もなく。海に身を浸した夕日のその儚い光が海上を真っ直ぐに走って、海岸まで伸びている様子が見える。夜になれば今度は月の光が海に橋をかけるだろう。


 夏ではあるが湿度は低くカラッとした気候であるため陽が落ちる今ぐらいの時間帯はとても過ごしやすい。

 日が暮れるまで海水浴を楽しんだカイエルとメイベルは本日宿泊予定のこの館に戻ってきており、今はテラスから沈む夕日を眺めていた。


 テラスに据えられたテーブルの天板は大理石でできている。マーブル色の模様が夕日に照らされ暖色に染まっており、昼間とはまた違った様子を見せている。


 二人はそのテーブルを挟んで椅子に座っている。


 カイエルは普段のかっちりした皇帝的な服装とは違い、生成りのリネンで出来たパンツとシャツでゆったりとした装いである。褐色の肌に麻の素材感がよく映えている。チラリとのぞく胸元は盛り上がっていて程よい隙がのぞく。

 メイベルもまた普段とは違った感じの白いサマードレスを身に纏っている。こちらはリネンではなく、コットンで柔らかそうな生地だ。少しばかりスカート丈が短くメイベルの足がよく見えている所にカイエルの邪念が透けて見える。


「さすがメイベルだな。まさか泳げない状態から一時間であそこまで上達するとは思わなかった」


 夕日を眺めながらカイエル。


「当然」


 メイベルは大理石の感触を楽しむように天板に手を伸ばす。夏の日を受け続けていたとは思えないほどにひんやりとしていて肌から夏の熱をゆるりとほどいていく。


「だがな。もう海を怖がるメイベルは見られないと思うと残念ではある」


「……怖がってない」


 むむっと。両手をテーブルの上にのせて抗議する。

 魔境育ちのメイベルは弱みを見せるのが苦手である。できない事一つが絶命につながる世界だ。魔獣の攻撃が見えない段階で死だし、水の上を歩けない段階で死だし、魔獣の防御力と自分の攻撃力の見積りができなければ死だ。

 できない事を知られるのは弱みである。だからできない事は恐怖だし、恐怖は死に直結する。


「そうか? 俺の記憶では、ちょっと怖いと言っていたあの可愛らしいメイベルの姿が延々と再生され続けているが?」


「どうすれば消える?」


「これはどうやっても消えないさ。俺の一生の思い出になるだろう。むしろ何度も思い返して万全の記憶へと移行する予定だよ」


 真新しく未だに熱を持っている記憶を、思い出へと抱き締めるように大事そうに胸を抱く。


「……首を切れば?」


 そんなカイエルに冷たい視線を投げながら呟く。

 弱みを消そうという確固たるメイベルの意志が見えるが、カナリア帝国の皇帝を斬首するのはよろしくないのはメイベルもわかっている。と思われるが。これはメイベル流の冗談である。と思いたい。変わらない表情で繰り出される魔境ジョークは全くもって本気と区別がつかないが。冗談であろう。


「いや物騒だな! でも、うん……まあそれなら間違いなく消えるだろうね」


「じゃあせめてこの脚で……」


 丈の短めなサマードレスのスカートの裾をチラリと持ち上げて脚の調子を確認する。万全である。一ミリの曇りも見えない。夏の日でもこの脚の切れ味を鈍らせる事などできなかったようだ。

 うん。と頷く。

 この調子ならいつでも首の一つや二つ切れるだろう。


「その美しい脚でやられるのは本望だが、命を失ってしまうとこれ以上メイベルと一緒にいられなくなるな。個人的には美しく愛しいメイベルとこれからもずっと一緒にいたかったのだけれど……残念だ」


「いられない?」


 美しい。愛しい。メイベル。一緒にいたい。これらの言葉にメイベルの殺意は小さくしぼむ。同時にまた胸の奥がむずがゆくなる。心地のいい痛痒。メイベルとてカイエルとの生活は心地いい。


「まあ、死ぬからね」


「じゃあ……やめる」


 渋々といった調子である。自分の弱みを知られる事と、カイエルの命を天秤にかけて何とかカイエルが勝ったらしい風情である。もしかして魔境ジョークではなく本気だったかもしれない。結果オーライ。


「でも、忘れられないよ?」


「許す」


 ——カイエルなら。

 続く言葉は口の中でだけ響き、カイエルには届かなかった。

 そのまま小さく俯き、唇を少し尖らす。


 そんな珍しい様子のメイベルに微笑みを向けるカイエル。


 ふと。


 自然に口から滲み出す言葉。


「メイベル」


 それは愛しい人の名前。


 名を呼んで。


 瞳を見つめると。


 息がこぼれる。


 すっと手を伸ばす。


 テーブルの上にあるメイベルの手の甲へ手を重ねる。


 まだ真夏の熱がこもっているかのようにお互いの手が熱い。大理石でも冷ます事ができない熱。


「なに?」


 応える二文字が艶めいている。


 真っ直ぐな瞳を受け止め。


 手を返しお互いの手のひらを合わせる。


 大理石で少しだけ冷めた手のひらがすぐに熱くなる。


 しっとりとした手のひらがお互いを呼び合う。


「……来てくれてありがとう」


 ぎゅうと手を握る。


 震えるカイエルの声。


 本当に伝えたい事は感謝などではない。


「うん」


 声が甘く少し子供っぽい。


 カイエルの感謝に心が喜んでいる。

 今まで誰にも感謝されず、今まで誰にも認められず、王国内で穢れ令嬢と呼ばれ、子供の頃はそれで傷ついた。でもメイベルにはどうする事もできなかったし、与えられた能力を使ってみんなに言われた事で役立つ事しかできなかった。

 それでもメイベルへの王国内での評価は変わらない。誰もメイベルには感謝しない。逆に悪評だけが広まっていく。メイベルの言葉は減り、ココロは段々と冷めて段々とひび割れが入っていった。


 そのひび割れた隙間。


 それがゆっくりと甘いナニカで埋まっていく。


 手を軽く握り返す。


「メイベルが来てくれてからこの国はより良くなっている俺では出来なかった事がメイベルが来てくれただけで解決したんだ海の魔獣の件もメイベルは知らないだろう?この間のデートでメイベルが放った威圧で魔獣がいなくなったんだあんなに暴れていたのにおかげで最近の悩みのタネが一気に解決したし辛いだけだった執務もスムーズに進むようになったしどれもこれもメイベルのおかげだ……」


 すごい勢いでここまで言い切って。


 カイエルは俯く。

 そして。


「メイベルのお陰なんだ……」


 先ほどの勢いは何処へやら口の中でそう呟くと小さくため息をついた。


「どうした?」


 カイエルのおかしな態度にメイベルが心配そうに顔をのぞきこむ。


「……いや、俺の言いたい事はこんな実利的な事じゃないんだ。これじゃあ国の利益のためにメイベルに来てもらったみたいじゃないか。違うんだ。誤解しないでほしい! 俺は! 俺は……」


 力強く言い切った割にまた言葉に詰まるカイエル。

 握っていた手の力も緩んでいる。


「大丈夫。うれしい」


 そんなカイエルの手を強く握りしっかりと瞳を見つめる。


 メイベルとしては感謝が返ってくるだけでうれしいし、むしろメイベルもカイエルに感謝している。

 カナリア帝国に来て以来。メイベルの世界は圧倒的に広がった。王都のタウンハウスと魔境しか知らなかったメイベルを外の世界に連れ出してくれたのはカイエルだった。

 婚約の話をもらった時からなぜか気になっていた。

 なんだかわからない予感みたいなものがあった。

 それはメイベルの野生の感だったかもしれない。

 それはエルー神の信託だったかもしれない。

 なんでもいいが今はここに来た事を正解だったと思っている。メイベルの今までの人生は全部他人の言うなりだった。王家に言われたから魔境を護る。民に疎まれたから家から出ない。親がくれたものを食べる。メイドが定期的に届けてくれる服を着る。

 誰かがああ言ったから。誰がこう言ったから。


 自分の意思で力を振るったことなんてなかった。

 自分の意思で足を動かしたことなんてなかった。

 自分のしたい事なんてなかった。


 でも今は。


 自分の足で街道を歩いて帝国までやってきた。

 自分の価値で行動して国民を救っている。

 自分の意思でカイエルを助けたいと思っている。


 それがうれしい。


 ここまでの万感の思いが二言に乗っている。言葉数は少ないが握った手と燃えるように濡れる瞳で、その思いはカイエルへと伝わる。メイベルの手が力強く握り返される。


「メイベル」


「なに」


「聞いてくれるかい?」


「うん」


「俺は君が好きだ」


「うん」


「俺は君を愛している」


「うん」


「クリード王国でメイベルを初めて見た時から愛していたんだと思う。そして今は春から夏にかけて時間を経る毎にメイベルへの思いが深くなっている。もうメイベルがいない人生は考えられない。どうか。どうか……」


 その先は言葉にならない。

 どうか、婚約してほしい。

 どうか、結婚してほしい。

 どうか、俺を愛してほしい。

 全ての願いを捧げるように、メイベルの左手を両手で握りしめたまま、祈りを捧げるようにその手を額を捧げる。


 カイエルもメイベルと同様に他人に拒絶されて生きてきた。政敵の貴族が流した暴虐皇帝の二つ名は千里を走り、向けられるのは拒絶か媚びかの人生。それでもカイエルは皇帝であり続ける事、国民を幸福に導く事を選んだ。暴虐皇帝として振る舞う事で傷ついた心は隠した。

 でもメイベルにだけは拒まれたくない。

 祈るように。願う。

 拒まれたくない。


 メイベルはすこし驚いた。


 数ヶ月の付き合いだが、どんなに疲れた時にもここまで弱気になったカイエルをメイベルは見た事がなかった。夜に頭を撫でている時ですらここまでむき出しの状態になる事はない。


「カイエル」


 握られた左手の上にさらに右手を重ねる。

 カタカタと小さく震えているのを感じる。


「メイベル……」


 祈りの体勢を崩す事なく、目だけを開ける。

 上目遣いでメイベルを見つめるその表情はまるで濡れそぼった大型犬のようだ。


「聞いて」


「ああ」


「私、恋とか愛を知らない」


 拒絶にも聞こえる言葉。

 カイエルの視線は落ち、閉じられたまぶたがピクピクと動く。


「……ああ、そうだろうね。わかってる。俺が焦りすぎている事も。独りよがりになっている事もわかってる。でも止まれなかった。伝えたかった。大丈夫! 応えてほしいとは望んでいない。いいんだ。メイベルはメイベルの思うようにこの国で暮らしてほしい。いつか。でもいつか、この思いが……」


 カイエルの剥き出しになったココロは容易に傷つき、その防御反応が咄嗟に口から溢れ出る。


「カイエル!」


「……すまない」


 告解状態のカイエルはメイベルの語気荒い言葉にそれを止め、小さく謝罪すると瞳を閉じたそのままで口を閉じた。


「聞いて」


「ああ。全部を聞く」


 うるさいカイエルを黙らせ、フンッと鼻息を荒く吹き出してから。


 カイエルといるとね——。

 と話し出す。


「胸が暖かくなる」


「ああ」


「胸がむず痒くなる」


「ああ」


「息が乱れる」


「ああ」


「イヤだった」


「あー」


「でも今は心地いい」


「ああ?」


「カイエルの頭を撫でると甘くなる」


「ああ」


「カイエルの言葉を聞くと甘くなる」


「ああ」


「そういうこと」


 ここでメイベルの言葉は終わる。

 唐突な終わりを終わりと思えず、続きを待つようにカイエルは目を開き顔を上げるが、メイベルからは首肯しか帰ってこない。カイエルは話の流れを思い返すように視線を宙に投げる。

 全てを思い返し再びメイベルの瞳に帰る。


 そういうこと。

 とは。

 この話の流れでそういうこととは。


「ああ、ああ。それは……それは、そういうコトってそういうコト!? そういうコトでいいの!」


「多分」


 曖昧に言っているが、決して字義通りの顔ではない。

 言葉以上に表情が語っている。普段は無表情なメイベルの顔ではない。

 瞳は潤み。

 頬は上気し。

 唇は艶めき。

 漏れる吐息は熱い。

 メイベルは少ない言葉を紡ぎながら。

 自分の心を理解していった。


 カイエルを愛している。

 と。


 その表情を見たカイエルの興奮は筆舌に尽くし難い。

 一度。

 大きく胸が跳ねた。

 その拍動はそのまま心の臓が止まるのではないかと思われるほどで、全身が心筋になったかと錯覚するほどであった。その後肉体の自己防衛かのように今度は忙しく鳴る心臓。一瞬で全身に血液が回るのを感じる。

 エネルギーが身体中を駆け巡る。とてもじゃないが座っていられるような量のエネルギーではない。


 カイエルは思わず立ち上がって叫ぶ。


「メイベル! 世界で一番美しく! 気高く! 強い! 俺の婚約者だ! 俺の婚約者なのだな!?」


「う、」


 うん。

 この肯定の二文字をすら言い終わらせる事なく、カイエルはメイベルを座っていた椅子からスポンっと引っこ抜いた。興奮したカイエルがメイベルの脇に手を入れ天高く掲げたのである。持ち上げられたメイベルはそのまま宙に浮いた状態でテーブルを避けるようにくるりと半回転して、カイエルの腕の中にお姫様抱っこの形でおさまった。


 程よい弾力の胸板に押しつけられたメイベルの耳にはカイエルの鼓動の音が鳴り響く。魔物のスタンピードを知らせる緊急の早鐘でもここまでの速さで鳴らさないだろうというほどにその鼓動は早く強い。

 それがカイエルの感情を正直に伝えてくるようで。もっと聴きたいと思ったメイベルは目を閉じて胸に耳を押し当てる。少しざらっとした麻の感触の下に感じる心地のいい肉の感触を味わいながら、カイエルの偽らざる感情を耳だけではなく骨全体を通して身体中に響かせる。


 美しいと感じる。


 顔合わせでも感じたがカイエルは美しいとメイベルは感じている。

 嘘がない。意思が強い。厳しい優しさ。真っ直ぐな善性。

 ひっくるめると高潔という表現が近いのかもしれないが、メイベルにその語彙はないためシンプルに美しいという表現に至る。前評判とは全く逆の印象だった。

 それが心臓の音にまで表れている。

 うっとりとその美しい音を聞いていると。


「メイベル。いや、ベル。俺の愛しいベル」


 呼びかける言葉と共にメイベルの体が上に持ち上がる。胸の位置にあった顔がグッと上に上がってカイエルの息がかかるくらいの位置に移動した。

 目を開くとカイエルの爽やかな笑顔に迎えられた。

 普段は整えられて動く事のない艶がある茶色い髪が今日はサラリとして海風に揺らされている。その隙間から意志の強そうな額と美しく整った眉がのぞく。その下でメイベルを見つめる垂れ気味な目は長いまつ毛に縁取られ、瞳はしっとりと濡れている。それはまるでエメラルドがはまっているようで、天のどの星よりもきらめいていた。


「メイベルだからベル。カイエルだと……エル? エル」


 愛称で呼ばれたカイエルは感動のあまり言葉にならず。

 ただコクコクとした首肯とふうふうと漏れる吐息で返す事しかできない。


 最高潮まで興奮が高まったカイエルは一度天を見上げ、息を整えるようにフー、と長い息を吐く。


 いつの間にかに太陽は海に隠れ、空には美しい星の海が現れている。


 胸に抱いたメイベルの姿勢を整えるように腕を動かす。

 トサっと音がする。


 メイベルの顔が上向いた。

 色素の薄い茶色い瞳。ほんのりとした紅色の頬。桜色にぷっくりと艶めいた唇。

 カイエルの狙いを理解していないその無垢な表情。


「ベル。目を閉じて」


「うん」


 素直に目を閉じる。代わりに少しだけ桜色の唇が綻び、口内の艶かしさがのぞく。


 カイエルはゆっくりとそこへ向かう。


 ここから始まる。


 幸福のスタートラインへと。


 カイエルの唇を。


 メイベルの唇へと。


 重ねる。


 それは誓いを重ねるように。


 傷心を癒すと。

 楽しませると。

 幸せにすると。


 誓った数だけくちびるを重ねた。


 夏の夜天のもと二人は正式な婚約者となった。


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