皇帝が婚約しにやってきた。なんか気になる。
三月二十七日。
公爵家タウンハウスの窓の外はいまだ冬の景色であり、容易にその寒さが想像できる。しかしこのベッドは一級品である。それにかけられている布団もまた一級品である。それらに包まれれば外の寒さなど無関係だ。今日はさらに母が隣に寝ている。別の部屋には家族がいる。ベッド下にはペットのたぬきもいる。愛があたたかい。
昨夜は奇しくも十年ぶりに訪れた家族団欒で幸せな夜を過ごし、柔らかいベッドで母、クーナとメイベルはともに就寝した。父、タウンゼンはそれを羨ましがったが、母の強い目線に抗えず、談話室で兄、サラザールと共に強い酒を呷ってそれを誤魔化しそのまま潰れるように眠りに落ちた。兄はそんな父を見届けた後、明日の公務に備えて自分の宿舎へと帰っていった。
そんな翌朝。
小鳥が朝の訪れを告げるよりも早い時間に。
公爵家のタウンハウスに一通の手紙が届いた。
「どうなっておるのじゃあ!?」
その手紙を開き、中を確認した父、タウンゼン・シュート公爵はニ日連続で叫んでいた。母とメイベルはそれを横目に談話室で軽食をつまんでいる。昨日の失敗を学習したメイベルはちみちみとサンドイッチの端をついばんでおり、それを母、クーナが幸せそうに眺めていた。
その手紙。
封蝋は帝国皇帝のもの。サインも帝国皇帝のもの。つまりは大陸南方にあるカナリア帝国皇帝からの手紙。
手紙フロムカナリアである。
「……政治がわからん」
公爵家の当主として言っちゃいけない事を漏らしているがそれも無理からぬ事。先々日に娘が婚約者から婚約破棄を一方的に言い渡され、先日に王家から正式に通達を受け、今日には帝国皇帝から婚約の申込みが来たのだから。
婚約のジェットコースターである。
「わからんではすみませんよ、あなた」
「わかっておる。しかしよりにもよってカナリア皇帝とは……」
「このクリード王国にもその悪評が聞こえますものね」
クリード王国が存在するダイモン大陸には五つの国家が存在している。
北方にはこのクリード王国が存在している。
魔境から産出する魔石を使用したエネルギー産業や魔獣素材を使用しての魔道具開発が国家運営の基礎となっている。北方であり寒さが厳しい地ではあるが、エネルギーである魔石が潤沢にあるため民の生活もそこまで厳しいものではない。
大陸中央は三つの国が三分しており、元は一つの国であったが数代前の王が愚王であり、三国に別れることで平和を取り戻した。大陸西側にポージ共和国。大陸東側にマイナ王国。主に穀倉地帯であり、このダイモン大陸の食糧事情を担保する大事な役目を負っている二国である。元は同じ国家であったが、内乱によって二国に分かれた経緯がある。そんな二国の衝突を避けるように中央にあるのがエルー神聖国である。この国があるため大陸中央の平和が確保されている。
そしてさらに南方。
ここにカナリア帝国が存在する。
ダイモン大陸で唯一外洋に面した国家であり、他の大陸との海洋貿易で富を得ている国家である。また温暖な気候により農耕も盛んで多種多様な作物を栽培しておりその農産物を海外に輸出して外貨を稼ぎ、貿易を優位に進める商人的な一面も持った国家である。
こう聞くと申し分のない嫁ぎ先に聞こえる。
が。
カナリア帝国皇帝本人は別である。
遠く離れたこのクリード王国にまで悪評が届くほどの人間である。非情、粗野、悪辣、海賊、暴虐、などなど。枚挙にいとまがない。代替わりの時に先代の皇帝を弑逆したとの噂があり、実際に先帝時代の重臣は物理的、政治的に切り捨てられた。改革と言えば聞こえが良いが虐殺にも近しい行為であった。
そのような行為を行ったため、貴族にはすこぶる評判が悪く、貴族らしくないとはいえ、貴族の一員であるシュート公爵家にもその悪評が轟いているのである。
「わしは反対じゃ。クーナは?」
「悪評が真であれ偽であれ関係なく。私はメイベルを一度ゆっくりさせてあげたいと思っております。この娘は王家に十年を奪われているのです」
「そうじゃな。クーナの言う通りじゃ。メイベルはどうじゃ?」
「んー」
メイベルは口ごもった。
ちみちみと食べていたサンドイッチを口に咥えたまま固まっている。
これだけ家族が反対しているのだから断る方向が正解なのだろう。しかし。心のどこかで引っかかる。見たこともない、皇帝という男が気になる。悪評を聞けば聞くだけなぜか気になるのだ。何だか強者の匂いがする。
メイベルは迷っていた。
「どうしたメイベル?」
「これは……迷っている顔ですね」
「メイベルが迷う……」
「皇帝が、気になるの? メイベル」
「んー」
明言はしないが肯定に近いニュアンス。本人が完全に否定しないとなると、今までのメイベルの苦労もあって、父も母も自分達の意見で押し切ってしまうのも憚られる。
ここで家族会議は行き詰まった。
そんな中、談話室の扉がノックされた。タウンゼンが返事をすると筆頭執事のセバスであった。入室の許可を与えると、静かに扉が開き、失礼しますの一言とともに、筆頭執事のセバスが入室し、主人であるタウンゼンに近寄ると何事か耳打ちをする。途端に父、タウンゼンは驚きの声をあげた。
「皇帝が!? ここにか?」
セバスが言うには、皇帝がやってきたというのだ。皇帝本人が一人だけで王都のシュート邸を訪れてきたというのだ。前代未聞である。というかありえない事態である。普段であれば騙りの類であろうと一蹴される。しかし、今は婚約を申し込まれている状態である。あり得ない話ではない。本物かと、セバスに問えば、クリード王家の紹介状を渡されているといい、それをタウンゼンが受け取り中を確認する。
昨日見たままの王家からの手紙であり、中を確認すれば帝国皇帝の身分を保障する内容だった。
「本物じゃー」
理解が追いつかず、タウンゼンは軽く意識を手放しかけている。
「セバス、失礼がないように応接室でお待ちいただいて。私たちの支度が整うまで少しお時間をいただくように伝えなさい。タウンゼン、メイベル、急いで支度するわよ」
そんな頼りのない当主に代わり、ピシリと指示を飛ばす母の姿はさながら魔境で魔獣へのフォーメーションのようである。その指揮には定評があり、脱力したタウンゼンも、サンドイッチをちみちみ頬張るメイベルも、たちまち臨戦体制へと移行したのだった。
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応接室で帝国皇帝が待っている。
それだけでこうも支度が捗るのかというほどに超スピードで身支度は進む。元々身体能力の高い一家であるため、全ての動作が常人の三倍速くらいで動いている。それに合わせて支度を手伝うメイドや侍女もさすが公爵家に連なる者であると他人が見ていたら感嘆をもらしただろう。が、ここは公爵家のタウンハウス、しかも朝。他人などいようはずもない。
全てを整え父、母、メイベルの三人は帝国皇帝の待つ、応接室に入室したのだった。
「お待たせしまして申し訳ございません。皇帝陛下」
父がまずは口を開く。家族の前ではちょっと抜けたおじさんだが、さすが本番になるときちんと貴族になれるらしく、とても威厳のあるいい声であった。実際ここで何か不手際でもあれば国家間の問題になりかねないのだから本気もでる。
「いや、こちらこそすまない。先触れもなく訪れた失礼をまずは詫びよう」
皇帝はそう言うと、ソファに座りながら小さく頭を下げた。
その意外な姿に公爵家一同は驚く。
茶色い髪は後ろに撫でつけられ、せまい額は少し前に出ている。濃いまつ毛に覆われた垂れ気味の目の中におさまった濃いエメラルド色の瞳は大きくしっかりとしていて視軸が揺るがない。肌は日に焼けて浅黒く、顔貌自体も南方系であり、美男子と言うよりは美丈夫といったタイプ。
全体から意志と我の強さが表れているような見た目である。
北方にあるクリード王国ではおおむね色素の薄い人間が多く、あまり見慣れないその特徴は前評判と相まって実に威圧的である。
しかし、そんな風貌に反して、素直に頭を下げて謝罪するその姿は礼儀正しく、そのギャップにタウンゼンは一瞬呆気に取られた。傍若無人の先帝殺し、悪虐皇帝の評判とはほど遠い態度である。むしろ待たされた事を理由に無理やり娘を攫われかねない位に考えていた。
「い、いいえ。とんでもございません」
「そう言ってもらえると助かるな」
「改めまして、このクリード王国で公爵位を賜っているタウンゼン・シュートと申します。こちらは妻のクーナ・シュートでございます」
「丁寧な挨拶感謝する。私はカナリア帝国皇帝カイエルだ。よろしく頼む。……っと、さすがにメイベル嬢には御目通り叶わないかな?」
対面のソファに腰掛けた公爵夫妻に挨拶したあと、室内にいるのが夫妻と数名のメイドのみであることを確認してから皇帝は少し笑ってそう言った。
「はっ。娘は婚約破棄のショックで床に伏しておりますゆえご容赦を」
「ああ、都合も聞かずに急に訪れたこちらが悪い。問題ないよ。あと。すまぬが、この国を訪れているのも非公式であるし、シュート公爵家を訪れているのもまた非公式である。もう少し砕けた感じで頼む」
「承知しました」
「では、早速ですまぬが本題に入らせてもらってもいいだろうか?」
「勿論、かまいません」
「すまんな。今日着くように手紙をシュート公爵宛に出したのだが確認いただけただろうか?」
「先ほど確認いたしました」
「ならば話が早い。今日はその件で来ている。直接こうなった経緯を伝えさせてもらおうかと思ってな」
「ありがたく存じます。当家でも朝からその件に関して話しておりましたので……」
「まあ、婚約申込みの理由だが、端的に言ってしまえば、一目惚れだ」
「一目惚れ、でございますか」
「ああ」
と説明を始めた皇帝が言うにはこうだった。
カイエル皇帝は非公式ではあるが、魔獣関連の技術供与の打診をするためにクリード王国を訪れており、そのタイミングでクリード王から王太子である息子のアカデミー卒業パーティがあるため、祝いの言葉をもらえないかと頼まれて出席していた。王太子に対して良いイメージはなかったが、交渉相手の王から頼まれたとはあっては断りづらい。渋々出席していた。
そんな中、あの茶番が始まった。
始めはよくある権力者の横暴で見ていて腹は立つが、よくある事と言えばよくある事であり、非公式で訪れている他国の人間が口を挟む問題でもないと静観していると、何だか風向きが変わって面白い事になり、そのまま夢中になって見ていれば、いつの間にかそこに立っているメイベルに目を奪われていた。
と。
これをまとめれば、一目惚れ、である。
「は、はあ」
「特にシュート公爵令嬢の最後のカーテシーが特に素晴らしかった。あれに思わず見惚れてしまったのだ。ぜひ、我が国の正妃として迎え入れたい。齢二十八になる私と十五のシュート公爵令嬢とでは少し年齢差はあるがこの程度なら問題ないだろう」
「正妃」
「王国の公爵令嬢の嫁ぎ先としては問題あるまい?」
「それは勿論ですが……」
そちらの問題はないが別の問題はある。
そう思って思わず口ごもるタウンゼンに皇帝は追撃する。
「俺の悪評が問題か?」
「そ——」
んな事はございません。と続く言葉を横に座る母、クーナが遮った。
「そうでございます」
「公爵夫人はやはり反対か。悪虐皇帝の二つ名にメリットしか感じた事がなかったがこうなると考えものだな。悪評は聴こえているとは思うが、惚れた女を虐げる趣味はないぞ。何より私よりもシュート公爵令嬢の方が強いだろう? これではダメか?」
ここまで無言を貫き、己を見定めると言うよりも、射抜くような視線で見続けていたクーナの事をどう説得したものかと、皇帝はこの会談が始まってからずっと思案していた。
このタイミングでとりあえずの説得を試みるが、当然のようにクーナには少しも響いていない。
「ええ。悪評云々以前にメイベルはクリード王家に十年良いように使われ続け、幸か不幸か、今やっと解放されたのです。私はこれは神があの娘に与えたお慈悲だと考えております。メイベルは休んでいいのです。これから家族で失った十年を埋めたいのです。皇帝陛下が世間の評判通りのお方であればシュート公爵家がどう言おうとメイベルを連れ去っていく事は可能でしょうが、ここは何卒お慈悲を賜りたく」
そう言って小さく頭を下げる母の頬には一筋の光が滑る。
「そう、言われてしまうと強硬な手段には出難いな」
「何卒」
父、タウンゼンも頭を下げる。
公爵、公爵夫人揃っての拒否には皇帝も少し困ったように綺麗に撫でつけられた髪を軽く掻いて悩む。どうしたものかと思案しているとふと妙案が浮かぶ。
「ふむ、では。婚約などは一切関係なく、傷心旅行に帝国へ招待するという形ではどうであろうか?」
「……傷心旅行ですか?」
「ああ、メイベル嬢はあまりに一方的な婚約破棄で傷ついているだろう? それを癒すには旅行が良いと聞く。我がカナリア帝国は温暖な気候で海あり山ありと風光明媚だし、食事もうまいぞ。どうだろうか?」
「そ、れは……」
ただの旅行の招待と言われてしまうと途端に断りにくくなる。しかも他国の皇帝直々の招待を拒否すると言うのはあまりにも礼を失した行為になるだろう。下心があろうと好意は好意だ。それを無碍に断るのは難しい。
タウンゼンもクーナも返答に困っているのを察して、皇帝が言葉を続ける。
「無理を言ってすまんな。ではこうしよう。メイベル嬢本人が旅行を断るのなら、私もここでスッパリと諦めよう。どうだ? メイベル嬢」
タウンゼン、クーナの後ろに控えているメイドに向かって皇帝は問いかける。
「皇帝陛下、これはただのメイドにございます!」
「ははは、ごまかすな。私が惚れた女を見間違うわけがなかろう? どうだ、メイベル嬢?」
「バレた」
「はじめから気づいてたよ。武の誉れに名高いシュート公爵家とはいえ、ただのメイドがそんな美しい闘気をまとっているわけないだろう」
「ふーん」
「どうだ? 俺の国に旅行にこんか?」
メイベルの砕けた態度につられてカイエル皇帝の口調も砕ける。普段の一人称は俺であるようだ。
「バレたら行くって決めてたから。行く」
「そうか! では善は急げだ! 早速行こうじゃないか! 今出ればすぐに我が国に着くぞ!」
メイベルの色良い返事にカイエル皇帝は勢いよくソファから立ち上がる。
「うん」
こうしてメイベルは婚約破棄の傷心旅行と称してカナリア帝国へと旅立つ事になったのである。
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