双頭の竜は不正を犯しクビになる。エルの指がカッコいい事に気づいた。

 一月十五日。


 サマラ丘陵頂上。

 いま。そこにあるのは絶望だけだった。


 当初。シュート夫妻の活躍に軍司令部は歓喜に沸いていた。しかしそれはカリソメであった。双頭の竜の登場にその歓喜はあっという間に悲嘆に塗りつぶされ、その悲嘆すらもすぐに絶望に染められた。

 先ほどまで竜の殲滅者であったシュート夫妻の攻撃は全く通らず。双頭の竜の攻撃ですらない一挙一動で騎士、歩兵、装備、鍛錬の区別なく。ただ飛ばされ、ただ潰される。

 竜の血で染めた地は、いま人の血で上塗りされていく。


 軍司令部としても為す術がない。


 カイエル、教皇、サラザール、ポージ共和国将軍、マイナ王国将軍の誰もが口を開くことすらできなかった。教皇は補助するように結界をはろうと試みたが即席の結界は双頭の竜の一撃の前には紙も同然であった。追加で軍を進軍させるにしてもサラザール以外は魔獣との戦闘方法を知らないし、サラザールとてあのような強大な相手には普段から逃げの一手である。


 じゃあ逃げるか。となるが。


 それと同時に。じゃあどこへ? となる。


 相手は大陸を滅ぼすと宣言している。どこへ逃げたとて同じだ。逃げるとすればカナリア帝国の港から他大陸へとなるが、ダイモン大陸の人間全員を他大陸に亡命されるなどこの状況ではどう考えても無理だ。


 その場に絶望の帷が下りる。


 さらに追い討ちをかけるように、竜の双頭、それぞれからブレスが放たれるのが遠く離れた軍司令部からでもはっきりと見えた。ああ。もうだめだ。サマラ丘陵大陸防衛戦は人間の敗北で幕が下りる。ここには大陸の戦力全てが結集している。後は双頭の竜の絨毯爆撃によって全てが魔境に堕ちる。


 と誰しもが覚悟した。

 軍司令部の全員が死を受け入れ、瞳を閉じたままそれを迎えようとしていた。


 そんな中。

 カイエルだけは自分を殺すその存在を睨みつけていた。愛するメイベルとそのお腹の中にいるまだ見ぬ我が子を思いながら。ただ悔しかった。涙が溢れてくるのがわかる。それをこぼさないように、最期を汚さない様に、我慢していると、視界がぼんやりと歪む。心残りしかない。全てが幸せだったのに。


 悔しい。


 そんな後悔に潤んだ視界にふと見知った人影が見えた。


 あれを見間違うはずがない。


 愛する人メイベル。


 メイベルのまぼろしだ。神の慈悲だろうか。最期に会いたい人に会える。


 美しいまぼろしは空から舞い降りて、ブレスに対して何度か蹴りを放っている。その蹴りから放たれた閃光はブレスを浄化するようにかき消していく。


 ああ美しい。きっと。こうなったらいい。という自分の願望が走馬灯のように走っているとカイエルは理解した。


「ベル……すまん」


 謝罪の言葉が漏れる。


「そう」


 蹴りを放ち終わり、ブレスをかき消したメイベルが、今は目の前に立っている。

 淡い淡い。

 紅と紫がはらはらと散って重なったノイズのような背景の中。

 美しいメイベルが立っている。


 他人には無表情に見えるだろう。

 けれどカイエルにだけは嬉しそうに笑っているのがわかる。でもその中にさみしさが浮かんでいる。最近は本当に表情がわかるようになった。こんなに離れたのが初めてだったからさみしくさせたのかもしれない。

 帝都にいるメイベルもきっとこんな顔をしているかもしれないなとカイエルは反省した。置いてきた事を後悔はしていないが。妻と子だけはどうあっても助けたかったから。


 だから。

 まぼろしでもよかった。

 まぼろしがよかった。

 今際の際にメイベルを抱きしめられる。その幸せをエルー神に感謝しながら。


 つつと歩を進め。


 自然にメイベルを抱きしめた。

 暖かくて柔らかくていい匂いがする。

 いつものメイベルだ。

 顎を肩に乗せると、ピクリと可愛い反応が返ってくる。再現度の高いまぼろしだなとカイエルは感心する。その顎を乗せた肩は鎖骨の美しい曲線を程よく筋肉が支えておりとても乗せ心地が良い。これもいつも通りだ。


 そこで。ん? と気づく。これはまぼろしか? と。


 違和感がある。

 気づいた途端に全てがおかしく感じてくる。走馬灯にしても時間が長すぎるし、さっきまで眼前に迫り、色濃く質量を持っていた炎と毒のブレスは薄く薄く透き通り、今は見えない程になっている。そして遠くには双頭の竜が立っており、ブレスを吐いた口がぽかりと開いていた。願望の割には現実味が濃すぎる。


 抱きしめていた腕を離し、実体のある目の前のまぼろしを見つめる。


「ベル?」


「だから。そう」


 言ったでしょう? と言わんばかりに。


「え? なんで?」


 本物だった。


「退屈だった。だから。きた」


「どうやって?」


「ん……ちょっと。本気だした」


「ぽひゅ……う(ご主人、空を走る時はぼくを置いて行ってくれ……ない?)」


 足元で伸びているポンが息も絶え絶えに苦情を述べる。


「うおう! 狸同志! 君もいたのか?」


「ぽひぃ……ぎゃあ(いた……よう。ご主人は本気出すと空を走るんだよ。ぼくは高い所苦手なのに……さみしいから会いたいとか、さみしいさみしい言い出してさ。ずっとそれしか言わないんだ、こわいよ。空を走ってる間、ここに来るまでずっとだよ。魔境でどんなピンチでもこれは滅多に使わなかったのに。逢いたいとかさみしいとかそういう理由で使うのはやめてほし……ぼく、ツガイとの約束もあったから、必死で止めたんだ……ぎゃあ)」


「黙って。ポン」


 都合の悪い事をペラペラと喋り出した狸口をいつものように握って黙らす。いつだって社会性常識的狸はメイベルにとって余計な事を言うのである。せっかく約束など忘れていそうなカイエルだったのに思い出させてしまったではないかと言わんばかりに睨んでいる。


 そんな苦労性のポンをカイエルは気遣うように背中を一撫でして労う。


「狸同志、無理を言ってすまなかったな。ありがとうな。ベル。狸同志のいう通りだよ。本当に来たらダメだったんだよ。そうすればどうあっても君と子供だけは助けたられたんだ。仮にここで俺たちが負けたとしても、大陸外に逃げる手があった。船だって用意してあったんだ。ここで万が一があれば即座にクィーンメイベル号に連絡がいくように。だからベルには帝都で待っていて欲しかったんだ。あの双頭の竜は伝説の竜だ。誰にも勝てないんだよ。今からでも遅くない! 逃げるんだベル!」


「それ。あれのこと?」


 メイベルがカイエルの後方を指差す。その指に従いカイエルが振り返ると、いつの間にか伝説が地面に平伏している。そんな竜の姿にカイエルは若干戸惑いながら答える。


「え? あれ? あ、ああ。あれが大陸を滅ぼすという伝説の双頭の竜だ。クリード王国があれにちょっかいを出して一夜にして滅ぼされた。しかもあれは大陸を滅ぼす気らしい。だからここで進行を阻み、追い返すために大陸中の兵力をかき集めて戦っているんだ。だが、義父上、義母上でも歯が立たない。きっとメイベルでも無理だ! もう人間の負けで雌雄は決したんだ」


「そう? じゃ。行ってくる」


「ベル? 聞いてた?」


「聞いてた。不快」


 カイエルだけにわかる不快な表情で膝を曲げて沈み込む。


「は? 待ってベル! それ、どういう意味!?」


 言葉の途中ですでにメイベルの姿はなかった。音を置き去りにする勢いで飛び出したメイベルには、当然カイエルの言葉は届く事はなく。いくら説明を求めても無駄であった。

 そんなメイベルのソニックブームで倒され、尻もちをついたカイエルは、残念な表情で己を見つめる狸と目線を合わせて。


「狸同志。不快ってなに? 説明してくれる?」


 人ならざるものに人の道理を尋ねる。

 残されたカイエルにはもう社会性を持った常識的な狸に頼る以外の手が残されていなかった。



——————————————————————————————



 草原に。

 天女が舞い降りた。


 羽衣もない。まるで普段着そのもの。ふらりとお散歩気分。

 そんな天女が舞い降りた。


 タウンゼンとクーナにはそう見えただろう。

 愛おしい娘は天女だったのだと。

 そう思っただろう。


 双頭の竜からはどう見えただろうか。


 天女。否。人間。否。敵。否。


 鏖殺者。応。支配者。応。女王。応。


 である。

 遠くサマラ丘陵頂上に降り立ったのがメイベルである事を確認した段階から、双頭の竜は平伏していた。

 数年前にメイベルに切られた毒の首がずきずきと疼く。やっと生えてきたというのに。根本の膨れ上がった傷跡がやけに痒むが、平伏していては掻くこともままならない。


 双頭の竜とメイベルの出会いはメイベルが十の歳になった頃。


 ドニー狂街にフラッと現れた弱そうな子供を舐めてかかった双頭の竜がメイベルに襲いかかった。そこで戦闘になり、双頭の竜はメイベルに手ひどくやられている。舐めてかかった所為ではない事は途中から本気を出した自分が一番理解していた。そこで格付けは完了した。それ以来メイベルを上位存在とし、ドニー狂街から出ない事を約束した上で、首一本差し出す事によって、なんとか命だけは助けてもらった経緯がある。


 そんな支配者が目の前に舞い降りた。


 双頭の竜は完全に勘違いをしていた。ここ最近姿が見えず、気配もない。普段であれば見えなくても人間が多くいるあたりから寒気がするほどの闘気を感じていたが、ここ数ヶ月は全く感じなくなっていた。


 死んだと思った。


 だがそれは違った。


 やつさえいなければやり放題だと思って、試しに放蕩息子がドニー狂街を出るのを止めなかった。息子は結果として死んだが、それでも目の前の女王は出てこなかったのに! まさかこんな所にいたとは。始めの街だけでやめておくべきだったと歯噛みする。


 竜は自分の思い違いと思い上がりと判断ミスを心底後悔した。


「何。してる?」


「……」


 竜は応えない。答えられない。


「聞いてる?」


 メイベルの闘気が増す。クーナ譲りの指向性でそれは双頭の竜に対して直接放たれる。メイベルはカイエルが言った自分でも勝てないという言葉が少し不服だった。散々、強い、美しい、素晴らしいと言ってくれていたのに。こんな竜に負けると思われていたのかと。その不服がのる事で闘気は普段より荒ぶる。

 それを受け止めきれず竜は身じろぎしてようやく口を開く。


「……国を……滅ぼして、おります」


「誰の。許可?」


「許可……は、ありません。息子が人間に殺されましたので。復讐を。女王は不在でしたので。お隠れになられたのかと思いまして……独断、です」


 暗に、おめえが死んだから自由にしてやんぜヒャッハーと言っているのである。


「そう。不正。クビ。ね」


 言葉と同時にメイベルの脚が光ってブレた。


 その瞬間、無言を貫いていた毒の首が根本の傷とそっくり同じ所から切り落とされた。ドスンと音がした。平伏した姿勢から首元が少し下がっただけでなおもそのまま平伏しているように見える。切り落とされた方の首は切り落とされた事すら気づいていなさそうだ。静かに眠るように瞳を閉じている。


 メイベルのクビはいつだって物理的である。


「もうしわけ、ありません……でした」


 こちらの首とて痛みは伝わってきているだろうが悲鳴一つあげないのは竜の矜持であろうか。


 言葉からは炎の竜の悔しさが滲む。


 とは言っても誰の攻撃も通る事のなかった己の鱗をいとも容易く切り裂くメイベルに勝てるはずもない。格付けは済んでいる。魔境の掟だ。上位存在への攻撃は通らない。それに勝つには、ここで生き残り、存在を進化させるしかない。


 が、しかし進化の目も首を切られた事で望み薄である。


 初めて戦った時には三本あった首が今や一本だ。数百年前から掛けてやっと進化して三本目を生やしたというのに。戦闘中に一本落とされ、助命の嘆願でまた一本を落とされた。やっと最近になり一本から二本に戻ったと思ったら、今日で全て台無し。元の木阿弥である。いまや竜の女王からただの古竜へと存在が退化している。


「ドニー。帰る。いい?」


 質問しているがうむなど言わさない命令である。


「はい。帰ります」


「そう」


 ならヨシとうなずく。


「ただ、恐れながら女王。我が息子の仇だけは自由にさせていただいてもよろしいですか?」


「誰? どれだけ?」


「ヒトのツガイでございます」


「息子。やられた?」


 それはメイベルの身に重なる言葉だった。自分の子が殺されたら大陸一つでおさまる自信はない。


「は。三千八百六十二番目の息子が羽を休めている時に……」


「どこで?」


「ウッソ森林です」


「魔境。なら。仕方ない。いいよ」


 魔境は魔獣のテリトリーだ。そこに入って命のやりとりをしたなら。人間であれ、魔獣であれ、条件は同じ。生きるか死ぬか。だ。その人間も覚悟をしているだろうというメイベルは考える。殺していいのは殺される覚悟がある人間だけとはよく言ったものである。


「ありがたき幸せ」


「でも。次。出てきたら。そっちをクビ」


 炎の首をメイベルが指差す。

 実は双頭の竜は炎の首が本体である。それをやられたら存在が消滅してしまう。メイベルもそれを知っていて必ずクビにする時には毒の首をやっているのである。炎をやると言っているのは実質の死刑宣告である。


「……承知しました」


 それを理解した竜はそう一言だけ返して空へと浮かび上がり、少し離れた木の上にある「人間二体」を足でつまむとそのまま北方に向かってあっという間に飛んで消えた。



——————————————————————————————



 こうやって大陸は救われた。

 メイベルによって救われた。


 双頭の竜を追い払ったメイベルは即座にサマラ丘陵の頂上、軍司令部にいるカイエルの前に戻った。


「エル。終わった」


 心なしかドヤ顔である。カイエルにしかわからないがこれはドヤ顔である。誰があんなのに勝てないと言ったのだ? 見たかい? エル君。とでも言わんばかりである。


「んふ。おかえり。ベル」


 そんな表情が可愛らしくてカイエルはこんな場だというのに小さく吹き出してしまった。


「……ただいま」


 いざドヤ顔で戻ってみたが。

 逢いたくて逢いたかったカイエルが目の前にいる。すぐにでも抱きついて、至る所の匂いを嗅ぎ、自分の匂いを擦り付け、大好きな顎のラインを眺めながら、息を吹きかけるように耳元で囁きたい。


 ところがである。


 ここには知らない人間と知っている人間が大勢いる。ここ最近、皇后としての勉強を続けてきたメイベル。さすがにこの場でやりたいまま、欲望のままに振る舞うわけにも行かず、とりあえず、カイエルの袖を摘んで溢れる愛情に耐える事にした。袖をにぎにぎとしながら男らしい指に触れてみたり、手の平に自分の指を置いてみたりと、小さく小さく愛情を表現する。


 周りの人間たちはなんだかわいのわいのとうるさい。教皇やらサラザールやら有象無象がメイベルとカイエルを取り囲み、状況の説明を求めてくる。


 でも今のメイベルはそれどころではない。溢れくる愛情を一生懸命指先だけで発散するのに忙しいのだ。

 片手では耐えきれず、今は両手を使っている。右手で袖を掴んで腕を軽く持ち上げ、左手でカイエルの男らしいゴツゴツとして筋張った腱を一本一本丁寧に撫でるのに夢中で。

 たまに手を持ち上げては戻すその仕草から、ついつい油断して頬ずりしそうになるのを必死で耐えているというのがカイエルから見たらバレバレである。


 カイエルはそんなメイベルの姿が。

 愛らしく。

 愛おしい。

 そんな気持ちが溢れてカイエルの我慢の方が限界を迎えた。


 抱擁。


 メイベルの小さな努力など蹴散らすように。


 お腹の子を労わるように優しく優しく抱きしめる。


 一人ではなく。二人を抱きしめるように。


 暖かく。柔らかく。


 それはいつも通りで。


 こうしていると。


 神の子。クリード王国の守護者。大陸の救世主。竜の女王。

 そんな肩書き。

 全部どこかへ飛んで行ってしまう。


 愛するベルだ。

 ただ一人。自分が愛し、自分を愛してくれた人。


 そんな感情にメイベルも抱擁で応える。

 大好きな顎のラインにこっそりと自分の頬を擦り付けるのも忘れない。


 愛するエル。

 ただ一人。私が愛し、私を愛してくれた人。


 お互いにお互いを埋めるような人。

 お互いがお互いを引き合う様な人。


 抱き合っている形が自然な形であるような二人。


 そんな二人を取り囲む軍司令部の大人たちも始めは何が何かわかっていないようだったが。

 双頭の竜が去った事。

 それを目の前の女性が行った事。

 それがカナリア帝国の皇后である事。

 諸々を段々と理解し始めた。


 始めは教皇が。

 二人への祝福かのように拍手を贈ると。


 それにサラザールが続き、カナリア帝国の宰相やらの事情を理解しやす人間から。段々と他国の将軍、将校、伝令兵までもが状況を理解し二人を祝福する。


 神への感謝。


 メイベルへの感謝。


 カイエルへの感謝。


 二人への祝福。


 色々な感情、祈りがまざった拍手はうねり、伝播し、草原にいる兵士までも巻き込んで鳴り続ける。


 それは勝鬨に変わり。


 平和が訪れたサマラ丘陵から大陸全土へと響き渡った。


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