メイベルにのってお帰り。髪を撫でるとしあわせ。

 四月七日はまだ続く。


 来た道を帝都に戻るため、メイベルは走る。

 既に陽は傾き西の海に身をひたそうとしている。まだ明るい時間だが、メイベルはお腹が空いていた。屋台で何か食べようかとも思ったが、カイエルがこの状態ではそれも難しい。であれば城に帰ってからご飯を食べようと思ったのだった。お腹が減ったらご飯食べられるってのは幸せだなと頓珍漢な感想を頭に浮かべながら走る。


「ぽん?(で? なんでご主人はつがいを抱いて走ってるのかな?)」


「早いから」


「ぽーん?(そりゃそうだけどさ。抱いたつがいの匂いをすんすんと嗅いでいる理由は?)」


「いい匂い」


「ぽ!(シンプル!)」


「なんで?」


 いい匂いがするのか理由がわからない。という意味である。なぜかずっと嗅ぎたくなる匂い。なんなら頭に顔を埋めてずっと呼吸をしていたいと感じている。


「ぽん(つがいの匂いはどんな匂いでもいい匂いに感じるもんだよ。契約の時だってそうだったろう?)」


「そう?」


 いい匂いの理由も。

 契約を分け与えた理由も。


 良くわからなかった。


 ポンは今までメイベルだけの友達だった。家族にすら話さない話もポンにはした。主に愚痴だが。家族に愚痴など言えば心配するだろう。心配だけならまだいいが、命をかけてメイベルを王家から解放しようとするかもしれない。それはとても危険な行為である。シュート公爵家は確かに強い。だけど王家はそういった類の強さではない力を持っている。そこに手を出したらお互いを滅ぼすまで止まらないだろう事をメイベルは本能で理解していた。

 人間は魔獣よりも怖ろしいのだ。


 だから愚痴を言うのも聞かせるのもポンだけ。

 ポンとの契約は。

 ポンとの会話は。

 自分だけ。

 これなら王族も家族も自分の嫌な気持ちを知る事はない。


 でも。


 カイエルは違った。


 ポンと自分の会話に入れずに少し寂しそうに、でも何も言わずに待っているカイエルを見て思った。

 会話したいならしてもいいと。


 理由は良くわからなかった。

 でもいいと思った。

 だから契約のためにカイエルを抱きしめた。


 抱きしめた途端に。


 もっと良くわからなくなった。


 契約のために抱きしめているのか。

 抱きしめたいから抱きしめているのか。

 はたまた本当に抱きしめているのか。


 行動と思考がバラバラになる不快感を感じるがそれでもその手をゆるめようとは思わない。


 それもカイエルから抱きしめ返されたらどうでも良くなった。


 好きな力だ。


 おでこと背中に感じる熱と。

 頭に感じる息遣いと。

 鼻をくすぐる美香と。


 人生でつかったどの風呂よりもつかっていたいと思うほどの温もりだった。母の抱擁とも全く違う。ポンをモフっているのとも全然違う。


 純粋な幸福。


 それは程なくポンの邪魔で中断された。背中から離れた手が肩にかかるのを見て小さくため息が漏れた。

 中断されたのは良かったのか悪かったのか。あのまま続いていたらそのままどこか遠くに行ったまま戻れなさそうで怖かったし、かといって止められたくもなかった。安堵と名残惜しさと腹立たしさと煮えきらない感情が腹に残った。シンプルな思考を是としているメイベルとしては珍しい事である。

 仕方がないので余計な事を言っているポンの狸口をキュッと締めてやった。


 そんな事をしている間になぜかカイエルが気を失った。

 倒れる体を反射的に抱えると抱擁の残り香と熱が重なってメイベルの心が喜ぶ。カイエルの意識がない分熱量は少ないが今はこれくらいの方が丁度いい。


 少しでもそれを味わっていたくて抱きかかえたまま帰る事を決めた。


 匂いと熱を堪能していると時間が早く過ぎるようで、いつの間にか目の前には帝都の門が見えてきた。


 帝都の私室にカイエルを下ろした時。メイベルは自分の胸が少し痒むのを感じて双丘の間を指で掻いてみるが、それはおさまらなかった。理由がわからず首を傾げる。

 それは感情が原因であり、実際胸を掻いても治るものではない。


 その感情の名前をメイベルはまだ知らない。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 目覚めるとそこは絶景。


「おはよう」


「ああ。ここは天国?」


 何せ目の前には大きく柔らかそうな双丘。そこから天使が覗き込んできている。天国以外なんであろうか。


「部屋」


「部屋?」


「帰ってきた」


 カイエルはなぜか絶対にここから頭を離したくない感情に支配されているので、仕方なく目だけで辺りを確認する。部屋の中は薄暗く、窓から入る月明かりだけが頼りだが、見慣れた調度。自分の私室にも同じものがある。だが自分の私室にはこのような豪華なベッドはない。


 となると。


「ここは帝城。しかもメイベルの寝室か?」


「ベッドの上」


「という事は俺の頭が乗っているのはメイベルの?」


「太もも」


 どおりで一ミリも頭を離したくないと感じるわけだと納得した。今まで献上されてきたどんな枕よりも心地がよく。何よりも枕から見える絶景は何にも代え難い芸術品である。


「それは極上だ。しばらくこうしていても?」


「いい」


「ありがとう。俺は気絶したんだよな?」


「した」


 失態である。初デートで気絶など普通の女性なら幻滅ものだろう。メイベルが普通の女性であるかどうかは置いておいて。そこらへんの感覚はどうだろうか? ちょっとわからないし、そこを聞く勇気はカイエルにはない。


「それはすまなかった。迷惑をかけたな。そこから良く覚えていないのだが、馬車で帰ってきたのかい?」


「走った」


 カイエルの頭に疑問符が浮かぶ。自分は気絶しながら自走できるほどに人間離れしたのだろうかと手を見てみる。特に変わりはない。悪虐皇帝と呼ばれてはいても悪魔のような能力を得た覚えはない。


「走った? メイベルはともかく俺は?」


「抱いた」


「だ、抱いたというのは語弊があるだろう。抱えてきたってことか? メイベルが俺を抱えて走った?」


「そう」


「すごいな。改めて惚れ直すよ。重ね重ねすまなかった。取り乱すだけならまだしも、まさか気絶するとは……デートが楽しみ過ぎて体調を崩すなど子供じみているな」


「疲れてるから仕方ない」


「疲れている? 俺が?」


「そう。原因はそれ」


「疲れているといえば確かにそうだが。それが日常だから仕方ないな。俺には皇帝としてやらなければならない事がある。メイベルも見ただろう、グリーンタウンの活気を。あの町は先代、俺の父親が皇帝をやっている頃は寂れていたんだ。人間にもやる気なんてなかった。働く人間は貴族に搾取され、輸入品には多額の税金がかけられ、良い品は全て貴族が持っていく。そんな状況で民は全員疲弊していた。努力しても変わらない人生に絶望していたんだ」


 カイエルはあの町の活気をこの国の全てにしたいと今も走り続けている。幼い頃に見た景色。民の灰色の顔。普段見ている貴族どもの絢爛豪華でいやらしい極彩色の表情とは比べられない程に酷いと感じた。力はない。希望もない。ただただ日々を生きるためだけに生きていた。


 ショックだった。


 自分が守る国の民は幸せではないのだと思った。


 民にあんな灰色の顔をさせるものかと決意したあの日からカイエルは走り続けている。ここで気を抜けば貴族どもはたちまち不正の温床を作り上げるだろう。権力と金を笠に民からの搾取をはじめる。毎日送られてくる書類にはそれを仕込むための小細工が紛れ込んでくる。それを見つけて阻止するために執務にまみれている。


「全然違う」


「そう。今とは全然違うだろう。あの町を作り出すのに色々とやったよ。皇太子時代から今もだが、俺は徹底的に不正を排した! 不正を犯す貴族は徹底的に断罪した! 結果が悪虐皇帝の出来上がりだ。何本もの首を落としてきたから悪虐には違いなかろうがな……」


 悪虐皇帝。

 この呼称は貴族の策略だ。カイエルの評判を貶めるために悪虐皇帝の噂を撒き続ける。民も見た事もない皇帝だ。どうしても噂を信じてしまう。心を折るためにこういう手も使ってくる。実際カイエルにとって一番効くのこの手法であるから貴族の考えは間違っていない。

 民のためにやっているのに民から恐れられるのは徒労を感じるだろう。

 メイベルにも同様の経験がある。


「カイエルえらい」


「そう思うかい?」


「うん」


「そうか」


 ほめられた。

 ただそれだけだがなぜかカイエルの目からは涙がこぼれそうになる。それがなんだか恥ずかしくて思わず手で顔を覆い隠す。覆い隠した後、これでは絶景が見えないじゃないかと思い至り、我ながら馬鹿だなとカイエルは自分の感情を誤魔化そうと自ら茶化した。


「うれしい? もっとほめる」


 そう言って優しい手がカイエルの髪をくしけずる。撫でる。巻くようにくるくると動く。

 暖かい。ほぐれていく。ドロドロしたものが流れ落ちていくように感じる。


「落ち着くな。疲れが流れ落ちていくようだ」


「毎日する。今日は寝ていい」


「ありが……と……」


 言い切らずにカイエルは眠りにおちた。


 メイベルはカイエルが眠ってしまった後もずっと海風に焼けた茶色い髪を愛おしそうになでていた。膝の上で眠る強くて弱くて守られたくて守りたくなる男の顔を眺める。

 胸の内に湧いた名前の知らない感情につける名前を探しながら。


 この日から仕事終わりにカイエルがメイベルの私室で寝るのが通例となった。


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