第1話(2)

真っ青なブルー


◆1◆


「まさかサウザンドヒルに入るつもりか!」


 ゲート周りには誰もいなかった。

 そのことに関して俺は驚かない。なぜならここの門番もまたPEACEを求める常連であったからだ。


 このゲートが建てられて以来数十年、ここを突破しようとしたダウンなどだれもいなかったために、門番は門番にあらずだったというわけだ。

 だからといって、サウザンドヒルに入ろうとした馬鹿はいなかった。


 その馬鹿の第一人者がこの俺になるとは……。


 バスケットでスプリングパスワークを編み出したミゲル・マグワインはその第一人者としてもてはやされたが、俺は『ゲートをくぐった馬鹿』として誰にもてはやされるだろうか。


 訳は分からないが少なくともこの手に抱かれた死神だけは喜んでくれそうだ。

 鍵穴に鍵を入れ、垂直に下し引き抜くとガッチャンと重い音で鍵が開いたことを鉄の骨組みが教えた。


 取っ手を捻りゲートを引くと、夜中なのにも関わらずキラキラと光る街の姿が目に入った。


「おいやめろ! 戻ってこい馬鹿野郎! 入るんじゃない!!」


 見蕩れている余裕のない俺はゲートを再び閉めると死神を抱きかかえたまま走った。

 連絡塔に門番が居ないおかげで通報が遅れ、俺がしばらく走っていても街のサイレンはならなかった。


「ねぇあのオレンジのビルに入って~!」


 腕の中で楽しそうに笑う死神を見ず、ただ必死に言われるがままの場所に駆け込んだ。

『緊急警戒警報 緊急警戒警報 現時刻レインボーアーチブリッジに於いてダウンタウンの暴徒が侵入したとの通報がありました。住民の皆様は決して家から出ず、何者が扉をノックしても絶対に開けないようにしてください。

 サウザンドヒル警察の非常隊員は該当者を見つけ次第射殺するように。また、人質を取っているという情報があります。人質がサウザンドヒルの住民だと確認した場合、確保した後速やかに対象を処するように。繰り返し警報を発令します。現時刻レインボーアーチブリッジに於いて……』


 その警報を聞きながら俺は頭を抱えて崩れ落ちた。

 なんてツイていない日だ。最悪だ、最悪すぎる。


 駆け込んだ部屋は真っ暗でどんな部屋なのかわからなかったがとにかくここにいるしかないということだけは馬鹿な俺の頭でも理解が出来た。

 だが馬鹿な俺の頭で理解出来ないこともある。

 目の前で俺の顔を覗き込むこの死神だ。


「なんだよ……なんでこんなことしたってんだ!」


 頭を抱えたまま俺はそう言うだけで精いっぱいだった。


「く、うう……」


 死神は不思議そうな顔で俺の顔を覗き込んだまま無邪気な声で俺にこう言った。


「だって貴方、私の名前呼んだでしょ?」

「……はぁ?」


 全く見覚えのないことに俺はつい苛立ち前面に出したトゲついた声で聞き返すと、彼女はそれについても不思議な表情を崩さずに言う。


「呼んだじゃない。ピースって。私の名前を」


 不思議な表情の彼女を不思議な表情で見つめ返すこの構図は実に間抜けであったに違いない。そういえば今朝のメシの時に飲んだコーヒーの味が変だったな。

 あの時も今と同じ間抜けな顔をしていたのではないだろうか。


「私の名前はリリ・ピース。あの橋で私を待っていたのは貴方でしょ?」


 俺は抱えた頭を更に深く抱え込んでしまった。


「なんていう……馬鹿な……」


 そんなくだらない、くだらなすぎる理由で……俺は破滅したのか……!?


「違う……そうじゃない、俺はお前なんか待ってない」


「なんで? 貴方は私を呼んだじゃない」


「違うんだ……。俺は『PEACE』という薬を売っていただけだ。お前がピースという名前だなんて今知った」


「……え?」


「だから、俺はお前の名前なんか知らないんだよ!」


 そこまで話すと彼女はキョトンとした様子で動かなかった。

 これからについて悲観するしかない俺に彼女はただ一言「そっか」と言い放ち、次に「ははは」と笑った。


「はははじゃねえよ! ふざけんな……俺は……俺は……」


 俺の頭には無数の『死』という字が躍り、その字たちが骸骨の顔を作りカタカタと乾いた音を鳴らして笑う。死神を名乗った男の末路……というわけか。


「くっそ……なんで俺が死ななきゃいけないんだ……!」


「死ぬ? なぜ? 貴方は死なないわ」


「死ぬんだよ! サウザンドヒルに入っちまったダウンはすぐに殺されるんだ!」


「なぜ? 貴方も私も人間よ。人間は愛し合う生き物でしょ?」

 その言葉に思わず俺は立ち上がり、彼女の肩を力任せに押した。彼女はよろめき後ずさりするとベッドに膝の裏をぶつけそのままベッドに倒れ込んだ。


「ひゃ」


 俺は構わずこれからのことに頭を悩ませ、壁に背をもたれかけるとぶつぶつと解決法の見当たらないことを繰り返すしかなかった。


「ねぇ、なんで殺されるとか言うの? 貴方には愛する人はいないの」


 倒れ掛かったベッドから上半身だけを起こしリリという死神は相変わらず無邪気に聞いてきた。人の気も知らずに呑気なこった。

 そう思うとなんだか笑えてきた。笑えない状況には笑えるとは全く……笑えないぜ。

「なんで笑ってるの?」


「これが笑わずにいれるかよ!? 俺はなぁもうすぐ死ぬんだ! お前みたいなわけのわからない女の名前を知らずに呼んだってだけで!

 なぁ!? 分かるかよ、俺はなんにも……ただ死ぬためだけに、アンヘルに殺されるためだけに生まれたんだよ!」


 その時複数の不規則なブーツの足音が階段を駆け上がってくる音が背中の壁を伝い俺の耳に近寄る死の恐怖を与え、俺は息をするのもの忘れるほどに凍り付いた。


「大丈夫。大丈夫だよ」


 恐怖に震え、脂汗に鼻水、涙をただただ垂れ流す俺をリリは抱き締めた。

 ガチガチと震えぶつけ合わせる歯が暗い部屋を振動させるように鳴り、それを優しく抑える付ける抱擁。


 

 この死神のせいで俺は死ぬのに、その温かい腕の温もりはゆっくりと、……ゆっくりと俺に平常心を取り戻させてゆく。

 これまで俺が経験したことのない体験だった。心の底からじんわりと温もりが全身に広がる感じ。こんな小さな女に俺は……。


「大丈夫。貴方は死なない、私も死なないし。だって、みんな愛し合えば全部全部ぜ~んぶ、解決するんでしょう?」


 いつの間にか俺の震えは止まっていた。

 俺の震えが止まるのを待っていたかのようにリリは突然唇を重ね、唇を離したかと思うとまた重ね、そして暖かいなにかが俺の口内に侵入してくる。


 それがどういうものなのか、当然俺は知っていたし経験もあったはずだった。

 だがすべてが初めて味わうように、全身は大きな安心に包まれ、相変わらず上り下りするブーツの音でさえも気にならなくなった。

「かわいそうに……。貴方は愛を知らないのね」


「かわいそうって……愛なんて……」


 リリに押し倒される格好になり、俺はベッドのスプリングのクッションを背中で感じながら窓から漏れる明かりに半身を照らされる白いワンピース調のドレスを着た彼女を見上げる形になった。


「リ……リ……?」


 リリの着ているものがドレスだということはたった今気付いたし、そしてそのドレスがどうやらウェディングドレスのインナードレスであることを知った。


「私は知っているわ。沢山の愛を、だから私の愛を貴方にもあげる。だから……」


 リリはダウンタウンの油を含んだ霧で汚れた俺の頬を両手の掌で撫でると鼻と鼻がつきそうな距離まで顔を近づけると芯の強いしっかりとした瞳で真っ直ぐ俺を見詰めて言った。

「貴方の愛も私にちょうだい」


 息が止まるかと思うほどの口づけに行き場を失くした心臓の鼓動が胸を割って飛び出すのではないかと思うほど強く内側から打ち付けた。


 誰もが汚れた俺の体など触りたがりもしない。それがアンヘルであれば尚更だ。


 それなのにこの会ったばかりのこの女はそんなことなどまるで嘘なように、俺が俺自身の身体がガラスの人形のようにつるりと服を滑らすほどの曲線と、透明に白い体であると錯覚させるほど情熱的に、時に叙情的に全身に下を這わせるのだった。


 感じたことの無い感覚を快感のそれであると認めるどころかその正体ですらわからない俺は、リリにされるがままに身体を震わせるだけで自分が既に下着一枚ですら身に着けていないことに気付けないでいた。

 そうした最中、突如として焼けるように熱い感触が心臓へと続く血管へと迸り、俺は体を仰け反らせる。たまらなくなった俺は俯瞰で蠢くリリの頭を見詰めると、金色のさらさらとした髪を見詰め、それが砂金で出来た砂浜の海ではないかと思った。


 いつだったか人数合わせで突然呼ばれた変電塔の作業の時、謝って弱電プラグに触れてしまったときの電撃。あの時は二度とあの衝撃は味わうまいと誓ったものだが、今はそれに非常によく似た感覚が連続的にこの身体を責め続ける。


 その感覚が苦痛でなく快感であるということは俺の全ての細胞が声を上げて歌っていたので分かっていたし、それを止めどなく供給するのがこの金色の死神であると俺は知っていた。


 無様な声を漏らしているはずの俺の声を聞き、愛おしそうに顔を見詰めるリリと目があった時、感じたことの無い感情が襲う。

 その感情が爆発するのを感じると俺は起き上がりリリの顔をそれから引き離すと今度は俺が彼女の上に覆いかぶさった。その顔はなんともいえない、これまで俺が見てきた人間の中で最も美しい、この世のものとは思えないほどの言葉を超越したところに君臨するナニカを放っていた。


 それの正体はわからないが、この胸を焼き尽くす感情に従うと俺はリリを覆っていた全ての障害物を取り除き、その白い肌と口元が少し黒く汚れた死神と見つめ合った時にこれは死神でなく間違いなく女神であると確信を持った。


 女神とは、自由を象徴する。女神とは、平和を象徴とす。


 これまで俺が生きて見てきた全てなんらかの悪夢なのではないかと思わせる圧倒的な美は、同時に人間の求めうる性欲の全てをその身だけで受け止めているような、そんな形容しがたい究極の位置に彼女はいたのだと思う。

「リリ……」


「あなたの名前を教えて」


 彼女の中心から心臓に向かう裂け目を割ろうとしたその時、俺は初めて自分の名を名乗っていないことに気付いた。

 それどころか普段の生活ですら「お前」だとか「そこのやつ」とばかり呼ばれてきた俺は自分の名前ですらこの瞬間忘れそうになっていた。

 ほんのコンマ数秒の長い長いルーツを遡る旅の終着で掴んだ名前。ようやく思い出した名前を俺はリリを見下ろしたまま名乗った。


「マーク・ウォー……だ」


「そう、マーク。貴方が今感じているそれが【愛】よ」


「そう……なのか……」


 

 まるで焼印を焼き付けるような格好で大いなる裂け目を割って入る熱した鉄。

 一瞬苦痛の表情に歪んだリリはすぐに笑みを戻し、涙目の瞳を逆さにした三日月のようにし、俺を全ての罪から解放する。


「リリ……お前、まさかこれが……」


「いいの。貴方の愛、とても熱い。とてもとても、とても熱いわ」


 そういって両手を俺の首の後ろに回しそれを軸にして身体を持ち上げたリリは、再び俺の唇に自らの唇を重ね、耳元で何度も「マーク……」と俺の名を呼んだ。


 床にはバラバラと散乱した二人の服と、PEACEが散らばったまま。


 ベッドのスプリングが自分が作られた年月を歌うように規則的な音を奏で、全身が幸福を歌い、やがて全ての時間が止まるまでの間俺達は愛を確かめ合った。


 それは確かに愛だった。愛以外の何物でもなかったのだ。

「俺の最高のセックスはブルッグウィルで買った黒人の娼婦だ。あの女の腰のくびれとコンガのようなリズムで打ち付ける尻を超えるものはなかったぜ」


 ランスが自慢げに話、軍服のズボンの上から堅くなったそれを擦ると「う~」と燻った声を上げた。


「やめろよ任務中だ」


 その様子に呆れた俺がそれ以上奴を見ずに言った。ランスが再び銃を構えて照準レンズを覗き込むと「つまんねーな。こんな戦場なんだ女の話くらいいいだろ」とため息の後、噛んでいたガムを吐き出した。


 最高のセックスと聞いて思い出したあの時のリリとの夜。

 リリはあの後俺の前から消えた。


 俺はというと、その部屋に現れたニックという男に連れられダウンタウンへと戻され、今後はサウザンドヒルに足を踏み入れないことを念押しされた。

 リリのことを聞いたがなにも答えてはくれなかった。


 そして、その2年後にこの戦争が始まったのだ。


「おい! エイト小隊から信号が出たぞ、やれマーク!」


 エイト小隊からの合図を確認したランスが俺にそれを指示した。


「奴らに流星をぶつけてやれ!」

 俺はセーフティーカバーを上げると分かりやすい赤い色のスイッチを押した。


 俺達の背後の丘に設置された巨大なミサイル砲台から次々とミサイルが発射される。

 その数は確か……500発。


 これでも少ない方だと任務の前、エイト小隊長が言っていたがこれが少ないのならばこの先の戦線はもっと悪夢のようなことになるのだろうか。


 500発の流星は夜空に美しいアーチを描き、サウザンドヒルを壊滅させた。

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