第6話
「ニック!!」
私のどこからこんなに大きな声が出るのだろう。
サムズアップシフトの滝が作った大きな自然の滑り台。ニックが連れて行ってくれた中でもトップクラスに楽しかった思い出。
高く急傾斜の崖のような滑り台の上で私は足を震わせながらニックを探したっけ。
あの時も声の限りニックの名前を叫んだけど、今彼の名を叫んだのは助けを求めたサムズアップシフトからじゃない。
「……リ」
コーンパンのように膨れ上がった唇を微かに動かしたのを私は見逃さなかった。
ニックは今、「リリ」と言ったんだわ!
「ニックー!!」
後ろ手に縛られ、顔中、体中を腫らしたニックがグリーンバード街の外へと繋がるゲートブリッジに連れられてゆく。
この街の人間が、この街の人間にこの場所に連れて来られる理由はたった一つ。
《街を追放される時だけ》だ――。
民衆はフンコロガシのような頭を無数に並べて「うおおおおおお」という歓声と共に大きなうねりを巻き起こし、ここが現実なのかどうかも分からなくさせる。
私の声なんてこの大きなうねりとドラゴンの鳴き声のような歓声でかき消されてしまうのに、そんなことわかりきっているのに、私はニックの名前を叫ぶことしかできなかった。
あの時、ニックを困らせた罰がこんなところで……こんなに時間が経ったあとで降りかかるなんて。
どこまでも続く真っ青なブルーの空が残酷なほどニックの丸まった背中をジリジリと焼いていた。
「追い出せーー!」
「この悪魔ぁ~~!」
「変態野郎があああ!」
悪魔と呼ばれたニックは、変態野郎と呼ばれたニックは、追い出せと言われたニックは、衛士がきびきびとした動きで確実に開けたゲートから外に出されると、縛られた手足を解放された。
ニックは一度も振り返ることなく、その場を歩いて消えていった。
――あの橋の向こう側は誰もが奪い合い傷つけあうアローンタウンがあって、そしてそこには大きな軍の基地がある。
つまりあの橋を渡り終えた時、このグリーンバード街の住民から「一人の兵士」として仕上げられてしまうのだ。
ニックも、それがニックであっても、それは決して変わることは無い。
グリーンバード街で暮らして1年でそんな馬鹿げた街の掟を叩きこまれた。
『だから悪いことはしちゃいけない』
これがこの街の暗黙のルール。
けれどこの街にくる前から既に『悪いことをしてしまっていた』場合はどうなるのだろう。
その答えをニックは身をもって私に知らしめたのだ。
「うう……ニック、ごめんなさい……ニック……」
私の手の甲に落ちた涙は、また手の甲の上を重力に従って地面に向かってゆく。
「悲しいな、リリ。だがお前にもいつかこれが正しいと分かる日が来る。奴の行ったことが如何に愚かで……許しがたいかをな」
ほんの少しの悲しみを含み、それでも気丈に凛とした振る舞いでアーレアは泣き崩れる私に言った。
街の真ん中に権威を象徴するように、何人たりとも平等であるはずの人が、人を見下しているかのように、この城はそんな風に恐ろしく聳え立っていた。
マムが昔お話ししてくれたドマーニオの冒険の中に出てきた魔王のお城みたい。
私が初めてこの城を見て言った感想にニックは声をあげて笑ってくれた。
そんなニックが追放されるのをこの魔王の城から見下ろす今、私は自由を悔いたのだ。
――事の発端は、ほんの一週間ほど前のことだった。
アーレアが国民に向けて耳を疑う演説を行ったのが始まりとなったのだ。
「親愛なるグリーンバードの民よ。私はピース家の23代目当主のアーレア・ピースである。皆、節は私の腕のことで心配をおかけした。
今思うてもあの時の皆の心からの支えと労いの言葉はなにものにも代えがたし宝といえよう。そして我が妻、リリ・ピースの支えで私は再びこの城に、この街に帰ってくることが出来た!
そしてこの恥さらしの置き土産となった右腕がようやく癒えようとし、私は兵士を超え戦士として、栄光のグリーンバードの英雄として今後はこの街を守る光であろうと不遜ながらそう誓ったのだ!
皆よ、私は次の平和を紡ぐ担い手となる王子をまもなく宿すことを約束しよう!
しばし待つのだ皆よ、本当の幸福と平和とは一人の民と一人の民の間から生まれ落つる命である! そして私は王子にこう名付けるだろう。
ユー・ピース(you peace)と!」
簡単に要約すると「小作り頑張るぞ」という宣言。
聞いているこっちが恥ずかしくなってしまう。どうして貴族と言うのはこんなことを恥ずかしげもなく高らかと演説することが出来るのだろう。
あ、私も貴族だっけ……。
「リリ、こっちへおいで」
大歓声に包まれるアーレアに呼ばれるまま、私は高い場所からこの街の人々を見渡した。
「リリ、本当に待たせたな。今夜こそ君の思いに応えよう」
肩を抱いて民衆に手を振りながら、笑顔も崩さずにアーレアはそう言ってのけた。
「うん……」
「返事は、『はい』だ。リリ」
私が処女ではないということがバレてただで済むとは思ってはいない。
だけど、そこまで大事だとは思ってもみなかった。
「……これは、まさか……?! いや、そんなはずはない……」
信じがたい物を見たといった様子でアーレアは私に割って入ってきたまま制止してしまった。
「……」
元々素質があったのか、器用に左手を扱うようになったアーレアは目の前で起こっていることがなにかの間違いだと信じ込もうと何度が動いてみたり、抜いてみたりとしていた。
私はというとマークとの夜以来の異物感に戸惑いのような感情を覚えつつも、あの時に得た迸るような快感とは程遠い、……悪く言えば作業感に苦しんだ。
「リリ……まさか、そんなことはないと思うが……君は」
瞼の筋肉を小刻みに痙攣させ、次に私の口から出る言葉が自分の求める言葉であることを切に願っている瞳で見詰められている私が、「ごめんなさい」と一言いうだけでアーレアの余裕に満ちたいつもの表情はみるみるうちに醜く崩れた。
「そんな……馬鹿な……」
こんなことを私が言えたことではないのかもしれない、だけど敢えて言うならば自分の妻が処女かそうでないかだけで人とはこんなにも憐れな子供のように変貌するものだろうか。
「……誰だ! 誰だ誰だ誰だ!」
アーレアのこの言葉で私はアーレアという男の本質を見た気がした。
私を責めるのではなく、いつどこでしたのかもわからない【処女を捧げた相手】に対し怒りを露わにしたのだ。
アーレアの子供のような一面を垣間見ても、私には到底【愛しい】という感情は湧き起こらなかった。
それよりもこの男とマークばかりを比べてしまう。
マーク……。
「私が悪いの……ごめんなさいアーレア、私がしっかりとしてないから……」
「うるさい! こんなことが赦されていいはずがないじゃないか! 私はグリーンバードの王だ! この小さい小さい街の小さな王だ! その私が大国の英雄になるためにこの結婚は……ぐぅう……!!」
私が見つめているその男はアーレアという名前の獣だった。
あれだけ悔しがり、ベッドの上でシーツを噛みながら転げ回った男は、鬱憤をやはり私の身体にぶつけてくるのだった。
荒々しく乱暴に……その雑な愛し方は、独りよがりなものだった。
愛を確かめ合うはずの行為であるはずなのに、私は涙がでるのを止められなかった。
――マム、愛は平等なのよね。私は全ての人を愛せるはずよね。だったらなぜ私はアーレアに抱かれながらマークを想っているの?
髪を振り乱し獣のように私を貪ったアーレアの怒りは、翌日になっても治まることは無かった。
私の顔も見ないアーレアに言葉に出来ない落胆の感情がテールビーチの波のように押し寄せてくる。
「魔が差したと言うほかありません」
すぐに噂を聞きつけたニックがアーレアのところへ謝罪に訪れた。
なぜニックが謝っているのか分からなかった私は、アーレアに離れておくようにとまるで汚れ物でも扱うかのようにそこから少し離れた椅子へと誘われる。
かすかにしか聞こえない二人の会話。どれだけ耳に神経を集中させてみても彼らの会話までは聞き取ることが出来なかった。
唯一の左手を椅子の肘掛に乗せ、アーレアは跪きニックの話を威圧的な態度で聞いていた。
「……ッ! この、愚かな亀め!」
アーレアが急に立ち上がったかと思うと、ニックの顔を思い切り蹴飛ばした。
ボールのように弾け飛んだニックはすぐに顔を戻し、再び跪き俯いた顔からは血がひたひたと滴っている。
「ニック!」
「黙っていろリリ!」
アーレアはその後もニックに折檻を続け、その度に私は泣きながらやめるよう懇願した。
「いいように育てたものだな、ニック。レイプをしても憎まれんとは……反吐が出る」
私にはレイプという言葉の意味が分からなかった。そして何故アーレアがそんなにも激昂しているのかも……。
「申し訳ございません。このまま私をギロチンにかけても構いません……どうかリリ様をお許しに」
ニックがあの時私に言った「俺に任せておけ」というのはこういうことだったのか。
それに気付いた時にはもう遅かった。
一年以上が経って初めて自分のしてしまったことの重さに私は気付いたのだ。
――ニックは嘘を吐いたんだ。私を無理矢理……って。だから私は悪くないから許してやってくれって言ってる!
マークとセックスをしたのは私の意思だ。
愛とはなんなんのかを知りたかった。
たったそれだけのはずだ。
たったそれだけの冒険だったはずなのに……
「いい覚悟をしているな」
アーレアが立たせてある鎧のオブジェクトから剣を抜くと、重そうなそれをニックの肩に乗せた。
「見ての通り手入れもしていない、観賞用の剣でね。これでお前の首を落とそうとすると……さぞ苦しみが続くだろうな」
アーレアの表情は見えなかった。私がいくら駆け寄ろうと肩を振ったところで私を抑える城の者がそれを許しはしない。
「……王の意のままに」
「やめて! ニックを殺さないで!」
サムズアップシフトの滝の下、両手を広げながらニックは笑って言った。
『俺が受け止めてやるから勇気を出して飛べ』
と。
ニックはマムが死んだ後も、ずっと私の味方だった。
ううん、私の味方はもうニックしかいなかったのに……そのニックが私のせいで……
「なんでもします! なんでもして償いますから! ニックを殺さないでください!!」
アーレアがゆっくりとこっちを振り向き、見たこともない複雑な表情を私に向けた。
ほんの数秒、時が止まったようにその沈黙が通り過ぎ……。
「分かったよ、リリ。お前がそこまでいうのならこの愚かな亀を許してやろう。だがこの街に置いておくわけにはいかん。それは分かるな?」
ニックが殺されないで済むのならばそれでいい。
私は何度も大きく首を縦に振った。
「リリ……」
ニックは私の名をたった一度だけ、口にした。
そうして今、ニックは街中の人間が見守る中追放されたのだ。
「一時の過ちとはいえ許されないものもある。だが彼は自らそれを告白し懺悔した。そんな愚かだが立派な紳士の命を奪えるものか。だから彼にはもう一度立ち上がり、我らの平和と永遠なる栄光のために戦う戦士になってもらうのだ」
ミュージカルで歌を披露するように空を見詰めたままアーレアが言った。
何故だろう。私はこの男のことも愛せるはずだったのに、一生愛して生きてゆくはずだったのに、この男に近づけば近づくほどに逃げ出してくなってしまう。
アーレアは本当にニックを許したのだろうか。
アーレアは本当にニックを戦地に送るつもりなのだろうか。
全ては上手くいった。泣き崩れる私の肩を抱き覗き込みそう言うアーレアの顔は、何故かニックが追放される前と変わっていなかった。
悲しみに暮れる私にはまだ、この後に訪れる出来事の足音など聞こえるはずもなかった――。
「コフ・マッケイン……か。活動家として名を馳せている『自称:革命家』といったところでしょうか。それがなにか?」
ニックがこの街を追われて数週間経ったある頃、同盟国であるフリーザからシンジ外相がアーレアとの会談のため訪れていた。
コフ……というどこかで聞いたことのある気がする名前に紅茶とスコーンを運んでいた私は思わず足が止まる。
「女王が直々にお茶を運ぶとは……恐れ多いからやめてください」
シンジ外相が笑って手を大きく振り、私は「お気になさらず」とその場を片付ける振りをして話を続けて聞いていた。
「ええ、そのコフ・マッケインですがね……どうも不穏な動きをしているようでして」
「不穏な動き?」
「そうです。なにやら傭兵や元軍属にあった帰還兵などを集めて軍隊の真似事をしているとの報告がこのところ相次いでましてね」
「それはそれはご苦労なことです。いくら兵士を集め、武器を入手しても宣戦布告などはしないでしょう。それこそ馬鹿という言葉では足りない」
スコーンを乾いた軽快な音で食むアーレアを余所にシンジ外相の顔は笑っていなかった。
「あくまで噂の範疇ですが……その馬鹿では足りないようなことをしでかす可能性が出ているのです」
神妙な面持ちのシンジ外相とは対照的に楽観的な佇まいで紅茶を啜るアーレアにシンジ外相は僅かながら苛立ちを覚えているようにも見えた。
「ダージリンはファーストフラッシュもいいが、私はセカンドフラッシュが好みでね。なんでも一番がいいとは限らない、二番目の方が品がいいこともある」
シンジ外相が「は?」と思わず声を出してしまうと、アーレアは穏やかな表情を崩さずに左手でシンジ外相のテーブルに置かれた紅茶を差した。
「つまり落ち着け、ということです。いくら連中がどのような兵力で宣戦布告をしようとも、こちらには圧倒的な軍事力があるではないですか……おっと、私の小さな街にはそんなものはありませんが」
「小さな街だなんてとんでもない……。この街の豊かな資源はどの国も喉から手が出るほど欲しがっています。国の大きさなんていうものが強さとは直結しませんぞ。
現に我がフリーザもグリーンバードの資源なしでは成り立たなくなっておる現状ですしな」
アーレアがふふんと鼻を鳴らし、横目で私をちらりと見た。その目が「どうだ私はすごいだろう? こんなにも他国の要人がへこへこするんだ。よく見ておけ」とはっきり言葉に乗せて私の目に送ってくる。
「そして名誉の戦傷を背負って尚、王で在り続けるアーレア将軍に頼みがあってきたのです」
「議題がここまで来るのにえらく時間がかかったものですね。……頼みですか、今日はそれが本題のようですね」
「お恥ずかしい、私は外交を任されている割にポーカーは大の苦手でして……。単刀直入に申しても?」
「どうぞ」
「来たるべきコフ軍の対抗勢力として新規の軍を立ち上げたい。アーレア将軍にはその象徴になってほしいのだ」
「……ほう。象徴……?」
シンジ外相はテーブルの上に置かれたティーカップをカタカタと鳴らし興奮気味に続けてゆく。話の大部分はどうやら戦争の話で、私にはその内容を理解するのが難しい。
だけどもアーレアは興奮気味に捲し立てるシンジ外相の顔をたまにチラリと見るだけで、興味のないような素振りで聞いていた。
「もちろん、ただで……とは言わんさ。連合国の中でもこぞってアーレア将軍を推す声が高まっている、承諾してくれるのなら……国土を分けてやってもいい」
「国土……?」
「そうだ、この小さな街で満足するようなアーレア将軍ではあるまい?! その腕を失った隊もこの国の民が多く参加している隊だったそうじゃないか。あの一件で君は世界的にも英雄視され始めている。
戦地に立たず、要事要事で士気を高める演説をしてくれればいい。それだけでコフの勢力なんて水飲み場の雀を撃ち落とすよりも落とすのは容易いだろう」
――良く喋る人だなぁ……。
政治がらみでグリーンバードを訪れる大人たちはみんな小難しい単語を並べて難しいことばかりを言っている。それらを理解しているアーレアもすごいと思うが、それ以上に誰も彼もがアーレアを持ち上げすぎだ。
「分かりました。極めて前向きに検討し近日中に返事をしましょう」
シンジ外相に言ったその最後の言葉を、アーレアは何故か私の顔を見ながら言った。
【続く】
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