第4話

 リリ、あなたは生まれてきてはいけなかったわ。



 鼻水をすする私の鼻に口を付け、マムは私の鼻から鼻水を吸うと持っていたハンカチにそれを出した。



 なぜ? 私は生まれてきてはいけなかったの?



 マムは悲しそうに眉の外を沈ませるとピエロのように笑った。

 私がこの家にあなたを産んでしまったから。あなたはこれからたくさんの辛いことを経験することになるわ。私はそれを思うと胸が張り裂けそうなほどに苦しい。



 生まれてきてはいけない。そう言ったはずのマムはそれとは矛盾している愛おしい目で私を見詰めるとバッグからリボンの形をしたキャンディをくれた。



 キャンディ?



 ええ、そうよ。リリにあげるわ

 今食べてもいいの



 ええ、今食べて。リリが食べているところが見たいの



 ……甘い。これはチョコレートのキャンディね



 そうよ。チョコレート。



 コロコロと歯の上に丸いキャンディを転がして、喉をチクチクと刺激する甘さに私は幸福感を感じていた。

 おいしい?


 

 うん、おいしい。マムの髪の匂いみたいに甘くて、マムの作るピーチパイと同じくらい甘いわ。



 そう、リリがおいしいって言ってくれてマムはうれしいわ。



 マム?



 

 その時のマムのことは一生忘れない。



 私を両手で強く強く抱いたマムは私の頭を何度も撫でて「生きて、生きて」と繰り返し、それは途中から「愛してるリリ……愛してるわ」に変わった。



 マムが何故泣いているのか、幼い私には分からなかったが軍服の兵士に両脇を抱えられて連れ去られてゆくその姿を見て、訳も分からない恐怖を感じた。



 

 わああん!



 気づけば私は泣いていた。何故だろうマムともう二度と会えない気がして、それがとても怖くて怖くて。



 せっかくマムがくれたチョコレートキャンディは、大きく口を開けて泣いた拍子に落ちてしまった。



 ぐずぐずと涙と鼻水でいっぱいにする私の足元に転がったキャンディに、沢山の蟻がたかって、自分たちの身体より数十倍もある丸いキャンディを少しずつ持ち帰ってゆく。

 もう見えなくなった母の姿の代わりに、私は声を上げて泣きながら空を見た。



 涙で滲んでまともに景色なんて見えないくせに、空だけはそんなことも無視してただただ真っ青な、真っ青なブルーで私を飲み込もうとしなかった。




「リリ、式の準備は出来ている?」


「ええ、マム。でも少し待ってほしいの、インナードレスのホックが引っかかっちゃって。それにベールにつけるカフスも見当たらないの。でも大丈夫、きっとすぐ見つかるわ」


「……そう。じゃあ、隣の部屋にいるから出れるようになったらノックしてちょうだい」


「わかったわマム」


 扉の向こうでマムの足音が遠のいてゆく。



 私はドレッサーの上に下げられている角ばった壁掛け時計を見た。



「……12時」



 ――本当に来てくれるのかな。



 あの時はちょっと強引に言い過ぎてしまった。そのまま話の途中でマムが来たから途中で終わってしまったけど……もしかしてやっぱり駄目なのかしら。

 ――いや、駄目だ。もしもニックが来なかったとしても、私一人でどうにかするしかない。



 ほんの少しクリーム色がかったウェディングドレスに身を包んだ自分の姿をミラーで確かめ、ひらひらと大袈裟なベールとアウトスカートを外すと自分の顔を見詰めた。



 自分で言うのも変だけれど、今の私はマムと似てきた。



 あの時、私を愛おしそうに見つめたマムと。

「いい? リリ、愛は全てを救うわ。愛があれば暴力も、戦争も、どれもこれも無力なものだときっとわかってくれる。そう、きっとアーレアだって」



 窓がコン、コン、となにか固い物で叩く音に振り返るとニックが機嫌の悪そうな顔で「出ろ」とジェスチャーをした。



「来てくれたのね! ありがとう、大好きよニック」



 窓を両手で上に引き上げると肩から上だけを見せたニックが「今回だけだ」と一言いうと私の脇を抱えて窓から軽く引きだした。



「きゃっ!」



「大事になるぞ。いいんだな」



 ニックが荷物を運ぶように私を肩に担ぎ不機嫌そうに言った。私はニックに「ありがとう」と一言言って、



「決めたから。この一回だけって……」



「じゃあ俺もお前に手を貸すのはこの一回だけだ」

 ロープで作った簡単な梯子。ニックが一歩降りる度にギシギシと鳴って、揺れる。



「ニック、大丈夫? 落ちたりしないよね」



「落ちてしまった方が、未遂で終わって丁度いいんだがな」



 こんなに怖い状況なのにジョークが言えるニックに私は素直に感心してしまった。そんな私の気持ちに気付いたニックは、「自慢できるほどのもんじゃない」と言った。

 梯子を降りると黒いフォードが止まっていて、ニックは「後ろに乗れ」と言った。



「よいしょ、と」



「おい!」



 ニックの言うことを聞こえない振りをして私は助手席に座り、「あ、ごめんなさい! でも時間が無いから……ね」と笑ってみせるとニックは舌打ちをして車を出した。



「しゃがんでいろ」



「うん!」



 助手席の足元に頭を下げてしばらく耳の近くで聞こえるエンジンの音を聞いていた。するとニックは「もういいぞ」と言ってうずくまる私の背中を叩いたの。



「もう大丈夫?」



「ああ」

 頭を上げて窓の外を見ると協会が随分と小さくなっていた。



「……ふふ、あははっ」



「なんだ? なにがおかしい?」



 急に笑い出した私を不思議に思ったニックが横目でちらちらと見ながら尋ね、私は窓から上半身を乗り出すとどんどんと小さくなってゆく教会に大きく手を振り別れを告げた。



「さよーならー!」

 初めての冒険。初めての反抗。初めての自由。



 全てが初めて尽くしで、私の全身を魔女の吐息のように取り巻く不安よりもガラスの靴で外に飛び出したシンデレラのようになにもかもが楽しみになった。



 12時がやってきて、魔法が解ける時が必ず訪れるのも忘れて。



 それを分かってくれたのか、ニックはそれ以上はなにも聞かずただ「危ないし目立つから窓の外に乗り出すな」とだけ言った。

 黒いフォードが2時間くらい走って辿り着いたぐるりと河に囲まれた街。



 車を降りて周りを見渡してみると私は思ったよりも面白くない光景に溜め息がでる。



「どうしたリリ。お前の望んでいたことが叶ったんだぞ。見たかったんだろ? 【外の世界】が」



「……そうよ。でもこれは【外じゃない】。【内側】でしょ」



「リリ……。どうかこれ以上困らせないでくれ、ここはサウザンドヒル。外と一番近い街だ。ここまで来るのだって俺にはヒヤヒヤものなんだぞ」

 ペチリ、と頭を叩き本当に困った顔をしたニックを見て少し気の毒な気持ちにもなったけど、私にとってはこの先こんな経験が出来るかどうかわからない。ニックには悪いけど譲る気にはとてもなれなかった。



「じゃあ、ニック私はあの橋の向こうへ行きたいわ」



 橋の先に立ち上る灰色の空と煙、そしてゴツゴツとした建物。これこそが私が見たい外の世界。私の知らない世界。



「おいおい勘弁しろ。あそこはダウンタウンだぞ、ゴミとスクラップ、油に薄汚れた犬猫しかいない町だ。あんなところに足を踏み入れてみろ、お前は二度と帰ってこれないしアーレアとの結婚だってなくなっちまうぜ」

 アーレアの名前を聞いて現実に無理矢理引き戻された気分になった私はほんの少し気分が悪くなった。今聞きたいのはそんなことじゃないのに……。



「それに……マムが悲しむぜ。ただでさえ今頃血眼になってお前を探しているはずだ」



「それはそうだけど、マムはそこまで私のこと大事じゃないでしょ。早くアーレアと結婚して家を出て行って欲しいって思ってるもん」



 ニックがやれやれといった様子腕組みをして黙った。

 ニックは言い争いが苦手だ。だから少し言い合いが続くとすぐに黙ってしまう。



 だけどこうなってしまうと仕方なしにいつもよりなんでもやってくれるようになるから私にとっては都合が良かった。



「ねぇ、お願い。ほんのちょっとだけ」



「……じゃあ、橋の上ならいいよ」



「ええー橋の上って……ダウンタウンじゃなきゃ意味がないじゃん!」



 ニックに詰め寄り、背の高いニックの顔を見上げながら睨む。

「怖い顔するなよ。……わかった、わかったよ。俺の知り合いに手配してやる。その代りお前は部屋で待っておけ」



「えーー! 部屋で待つの? だってそれじゃ一緒じゃない!」



「外に少しでも行きたいならいうことを聞け。お前が安全にあっちに行けるようにするにはそれなりの手配が必要なんだ。ダウンタウンで信頼できる奴なんて少ないんだからな」



 ニックはそう言うとオレンジ色の壁がカワイイアパートの一室に私を連れていった。

「わあーいい眺めぇ」



 窓の外からはサウザンドヒルの景色が広がり、大きな噴水広場や綺麗な街灯が私の目に吸い込まれてゆく。



 ニックはダウンタウンへ行く手配をするために私を部屋に置いて出て行ってしまった。



 部屋に残された私は、自分の部屋よりも狭いアパートの一室が新鮮であれこれと見て周り、引き出しや棚を開けたりトイレやバスの作りを見たりして少し興奮していた。

 ――マム、愛ってなぁに?



 同じ質問を私はダディにもしたことがある。ダディは「それは誰かが誰かを大事にすることさ。例えばダディがリリを大事にするみたいにね」と答えてくれたが幼かった私にはピンとこなかった。



 マムは私が尋ねた急な質問にも表情を変えずに、私の前でしゃがんで目の高さを合わせて話してくれた。

 ――愛っていうのはね、人と人が繋がることよ。あなたと私、私とダディ、ダディと色々な人。



 ――繋がること?



 ――そうよ。難しい? じゃあリリにも分かるように教えてあげるわ。手を出して?



 ――うん

 マムは私の前に手を差し出し、私はマムが差し出した手を握った。



 ――温かい?



 ――うん、マムの手、とっても温かいわ。クマのテディよりもマムの手の方がずっと。



 ――そう、その温もりが愛よ。温もりを感じること、それが愛。



 

 ベッドに倒れ込んだ私はあの時のマムを思い出していた。



 初めての街で始めたの部屋で思い出すのは結局マムのことばかり。



 ――マム、だったらきっと人間に種類は関係ないのよね? 肌の色も瞳の色も住んでいる場所も、関係ないのよね?



 私はマムが教えてくれた通り、世界は愛が溢れていると思っている。

 アーレアと結婚し、子供産む前に、【愛】がなにかを確かめたかった。



 ……違う。そうじゃない、私の思う【愛】とマムの言った【愛】が同じものかをちゃんと確かめたかったんだ。



 ――人は何故殺し合うの。



 ――きっと愛するのが怖くなったからじゃないかしら



 ……だったら世界が愛で溢れれば、きっと傷つく人はいなくなる。そうよね、マム

【反乱軍と内通し、その上反乱軍幹部との不貞があったマーラス元王妃の処刑】



 大人になってから初めて意味が分かった。マムが死んだ本当の理由。



 言われているそれが本当なのか、嘘なのか。それは分からない。



 でもそんなことよりも分からないこと、それは



『命を奪われるようなことをマムはしたのか?』



 ということ。

「私の息子は反乱軍との内戦のせいで死んだ! その魔女は殺すべき!」



「反乱軍と不貞行為だなんて正義に反する! あの魔女がいるかぎりこの街は平和にならない」



「王妃であった記録を抹消しろ! この国の汚点であり恥だ! 極刑にて処罰しろ!」



 

 群衆が悪魔になる瞬間を私は目の当たりした。



 正義のため、平和のためなら無抵抗の一人の人間を群集の眼前で処刑する。



 マムは死んだ。みんなに殺されてしまった。



 だけどマムは恨み言や未練など1つも言わず、ただ「愛してる、生きて」と言っただけ。



 そして、「あなたは生まれてきてはいけなかったわ」という言葉。

 この世界には愛がないのかな。



 でも私を愛してくれる人はいて、私は今誰かを愛することが求められている。



 マム、愛とはなに? 



 

 マムが死んだ後、私は王である父と現王妃である人を母として育てられた。



 そして、隣国の英雄アーレアと結婚する。



 なにもかもが、なにもかも分からないまま。私は人の妻となり、英雄の子を産む。



 だけど、その前に――。

「リリ、まずいことになった」



 ニックが帰って一言目に言った言葉はムードもなにもあったものじゃない。



「なぁにニック、どうしたの?」



「王族の連中がこの街にもやってきた。今街に出るのはまずい、いいか? それでも外に出たいというのなら夜あの橋の上で立っておけ。コフという男がお前を迎えにゆく。唯一俺があの町で信用している男だ」

「ニック、あなたはどうするの?」



「悪いがわがままなジュリエットに最後の冒険を楽しんでもらうには、損な召使いが囮になるしかないんでね。同行は出来ないが、行かなくてもいい。もう充分に家出気分は味わったろ?」



「ありがとうニック。答えは【それでも行くわ】よ」



 私が笑ってそう答えると、ニックも苦笑いで答え私に四角いカードのようなものを渡した。



「夜の端は自由に行き来出来ないようにゲートが閉じている。それがあれば出入りができるはずだ。コフにはお前の名前を教えているから呼ばれたらついていけ。

 いいか、それ以外にはついていくなよ。絶対にだ」



「……わかったわ」

 ニックが部屋を出て行ってほんの2時間ほどで空は暗くなった。



 暗くなってから一人で外に出るなんて……一体いつぶりかしら。



 ……ううん、一度だってない。たったの一度も。



 だから私は今こんなにもドキドキしているのね。



 知らない世界が、きっと私を待っているんだわ!

 階段を駆け下りると街は爛々と光っていて、私が今までいたオレンジの壁をしたアパートも、その壁がオレンジだって分からないくらいに色々な色を吸い込んでいた。



 見上げればあちこちに色とりどりの明かりが点っていて、私は興奮して「わお!」と叫んだの。



 この街に着いた時は私の街とそんなに変わらないのだと思っていたけど、夜になるとこんなに素敵な街になるのね!



 華やかな通りを抜けるとすぐに橋へと続くゲートがあった。



 すぐ横に人が出入りする用の小さな扉と、キーを差し込むスリットがある。



「ここにキーを通すのね……」



 音も静かにドアはスマートに開錠し、私は扉を押した。



「うわあ……」



 先に断っておかなければならないのは、この声は決して感動によるものではないということ。これまでが感動することばっかりだったからつい声が出てしまっただけで、そこはサウザンドヒルの広場とは全く違う、暗い景色が広がっていたの。

「ちょっと怖い……かな」



 冒険のつもりだったけど、一人でこの暗い場所にいるのは正直言うと怖かった。



 それに女の人が私以外にただの一人もいない。



 思った以上に私は心細くなってしまった。



「夜……としか聞いてなかったけど、すぐに来てくれたらいいな」



 だけど、恐れる私を余所にうろうろとしている男の人達は誰一人として私に反応することはない。



 出来るだけゲートの近くで私はコフを待った。



「よおお嬢さん、PEACEをお探しかい?」








【つづく】

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