第2話(2)

「マーク、あれがバッカスソックスのナンバーワンスター・バッドバッドだぞ」


 親父がスクラップから拾って来た16インチのテレビが奇跡的に命を吹き返したのは俺が9つの時だ。

 バッドバッドと親父が呼んだその選手を見た時、中世コロッセオで戦ったグラディエイターかと思った。拾ったものでしか知識を得ることの出来なかった俺達ガラクタのガキは、橋の向こう側の種類の違う人間……いや、天使(アンヘル)達が笑いながら捨てた絵本やコミックで娯楽や知識を得ていた。


 もちろんそんなもので得たものは偏り、マトモな思考にはならない。分かったろ、俺が拾ったのはそんなグラディエイターが躍動した絵本だったのさ。

 画面の中で俺のグラディエイターはそれこそ猛牛の様に迫りくる敵をなぎ倒しながらアーモンドボールを突き立て、彼を囲むテラテラを蠢くミツバチのような観衆がワッと躍った。


 親父はそんなミツバチと一体になって「ヤーハー!」と拳を突き立て立ち上がった。 

 だがその拍子にテレビを置いた台に足をぶつけると、親父をタップダンサーに祀り上げた音の鳴る箱は、文字通りただのスクラップと化した。


 親父は台から落ちたテレビを何度も叩いてはスイッチをガチャガチャとしていたが、その箱が再び魔法を見せることは無かった。


 親父がテレビをサウザンドヒルが小さく見える川に向かって投げ捨て、泡を吹きながら沈んでゆく箱を見詰める俺にはほんの一瞬目に映ったバッドバッドというグラディエイターが頭に焼き付いて離れなかったのを覚えている。

 熱いシャワーで身体に纏わりついた油性の霧を洗い流し、バッドバッドと先ほどのスキンヘッドの男を重ね合わせていた。あの男もアメリカンフットボールをしていたのだろうか。


 アメリカンフットボールのルールを知っているのだろうか。もしも知っているのなら、教えて貰えないだろうか。


 そう思いつつも身体を洗い流していると、ヌルヌルとした身体の中で一部分だけ油性が取れている箇所を見つけ、俺の思考はまた昨日の夜へとバックする。


「…………リリ」


 口に出すのもはばかれるくらいに馬鹿馬鹿しいが、汚れた俺の身体の中で唯一汚れの落ちていた部分……それはだらんと垂れたそれであった。

 あれは……本当だったのか。


 夢だと思われたその朧な記憶は、その瞬間からたった数分前……いや、たった今現在すら行為の最中であると錯覚させるほど鮮明に瞼に蘇った。


『ん、はぁ……マーク……。大丈夫、私がいるわ……私があなたを愛している……ん、は……』


 シャワーが俺の肩を打ち付ける水音がリリの痛みと快感に呻く囁き変わり、だらんと垂れていたはずのそれが徐々に血を集めてゆく。


『マーク、愛してる……私はマークを愛してるの……よ……ああ!』


 

 月の明かりと街灯が照らしだす腰のくびれと、なんの突起も見当たらない溶けかけた氷のような芸術的な滑りの肌。それが蠢く度に揺れる二つのそれは、マシュマロという菓子に初めて触れた子供のような感動があった。


 そしてそれらが俺の汚れたパイプに血を送っているということ。


 その事実を視認する度に目を閉じ、目を閉じればまた甘い菓子を求めそれを見詰める。


 血を送ってもらっているはずのパイプは、その度に熱い地熱を噴出させ繰り返し繰り返しそれに夢中になった。


 どちらかが、もしくは互いが動く度に漏れる吐息と激しい息遣いで俺はこのままどろどろに溶けてシーツのシミとなり無くなってしまうのではないかとさえ思った。


 窓の外からはセックスの最中も何度か警戒アナウンスが流れ、相も変わらずブーツが階段を昇ったり下りたりしている。


 そんな外界の雑音でさえ俺達を更に二人きりの世界に引き込む材料になった。


 

 ドッドッドッドッドッドッ


 心臓が胸を突き破る。肋骨を割り、肺を押しのけ皮膚を破って飛び出す。

 それほどに高鳴った鼓動が蘇り、たまらず俺は血が集まったそれを握り切ないこの膿を放出しようとポンプ車の運動で自分を慰める。


「う、ぐ……!」


 シャワーの湯水と明らかに質の違う粘着質のあるそれが排水口に逃げてゆくのを眺めて俺は、タイルの壁に背中をもたれかけた。


「リリ……リリ・ピース……」






 カチャカチャとナイフとフォークで皿の底をぶつけてバッドバッドの作ったベーコンとハチミツの入ったスクランブルエッグと、ダイアナ・ペイの肌のようにこんがりと焼けたトーストを口に運び、温かいミルクで喉に行列を作るそれらを流した。


「……」


 バッドバッドはホットミルクだけを飲み、自分は食事を取らずただ久しぶりのフルコースに舌鼓を打つ俺を眺めている。


「……ふぅ」


 最後に残った一欠けらのパンに一口分残ったスクランブルエッグを乗せて一緒に食い干すとホットミルクの入ったマグカップの口を噛みカップを頭と一緒にカップを逆さにして食事の終わりを告げた。

「お前、名前は」


 ようやく口を開いたバッドバッドの問いはごく普通の質問で、俺は奴のよこした綺麗なシャツの裾で口を拭きながら「……マーク・ウォー」と答えた。


「そうかマーク」


 バッドバッドは不意に立ち上がると突然俺の左頬に右ストレートをブチ込んできやがった。バッドバッドの不意打ちに椅子ごと後ろに吹き飛ばされた俺は突然の出来事に殴られた頬を抑えて奴を睨むことしかできない。


「俺はニック・オーガスタだ。よろしく」


 バッドバッド改めニック・オーガスタはなにも無かったかのようにまたその場の椅子に座るとカップに残ったミルクをまた一口飲んだ。

 ニックが更に追撃しないのを確認すると、俺と仲良く吹っ飛ばされた椅子を直し俺も座った。


「食器を割りたくなかったんでな。手加減してやった。……でどうだ? バージンを喰った感想は」


「……リリのことか」


「気安くその名を呼ぶんじゃない」


 俺の口からリリの名を聞くとニックは俺を殴った時と同じ目つきで睨んだ。

「……ちっ、あんたの質問に答える変わりに俺の質問にも答えてもらおう。ひとつにリ……いや、あの女は何者なんだ。それと、なんで俺を殴った!?」


 ニックは立ち上がり、冷蔵庫からミルクの入った瓶を取り出すと空になった俺のマグカップに注いだ。そして、分厚い唇を小さく開閉させて言う。


「ひとつめの質問には答えられない。ふたつめの質問の答えはこうだ、『お前は自分の娘のバージンを奪った薄汚い男とふたりきりになったら』

 それと、俺の質問には答えなくていい。胸糞悪ィからな」


「なんにも答えるつもりはないってことか……じゃあ、もう一つ。彼女はどこだ」


 ニックは初めてふふんと鼻を鳴らして笑った。

「お前は知らなくていい。そしてもう会うことは無い。いずれ彼女が民衆の前に立つ時、自分のしでかしたことの大きさに気付くだろう。だが俺はお前が周りになにを言うことも止めない。それはな、お前みたいなゴミ箱からはみ出たゴミの言うことなんて誰も信じないからだ」


 ニックの言葉に俺はどうしようもないくらいに納得した。

 奴の言った内容にじゃない。奴は俺が何を聞いたところで一切なにも答えるつもりはないということだ。その無駄に気付き、俺は納得したのだ。


「……ほう。悟ったか、案外馬鹿なだけじゃあないんだな」


 ニックが立ち上がりアイスシートを投げ、「それで冷やしとけ」と言った。

「元軍兵の拳は後で腫れるからな。すぐに冷やしておけばそれほど目立たなくなるはず」


 俺は言われるがままに熱のこもる患部にシートを当て奴を睨む。


「そう怖い顔をするな。これ以上お前がなにもしなければ危害は加えない。別にここからどこかに連れ去るつもりもないさ。すぐにあのゴミ溜めに帰してやる」


「殺すんじゃないのか。見たところ彼女は大層すごい存在なんだろ」


「さっきも言った。事実がどうであったかともあれ、お前の言うことなど誰も聴かないし信じない。それはなお前がゴミだからだ。お前はゴミをゴミ箱に捨てたあと焼却まで自分でするのか?」


 ニックはテーブルの食器をシンクに置くと、玄関へと続くドアノブに手をかけ俺を見ながら開いた。

「じゃあ行くぞ。ついてこい」


 ニックがそう言って俺を外に連れていこうとした時、俺はあることが気にかかりそれを口に出した。


「リリが言ったのか」


 俺が言い終えるよりも早くニックは俺の胸倉を強く引き挙げ、その強い力にシャツの胸元が小さくビリビリと悲鳴を上げた。


「その名を呼ぶなと言ったはずだ。次はアッパーを喰らいたいか」


「あんたは父親なのか」


「俺がそんなジジイに見えるのか。あれは例えだ、それくらい彼女を大事にしている……とだけ思っておけ」

 俺を下ろしたニックについてゆき、サウザンドヒルの船着き場から小さなボートでダウンタウンへと俺は帰りたった一日しか留守にしていないその街に妙に懐かしさを覚えた。


「もうサウザンドヒルにくるな。レインボーアーチブリッジで仕事もするんじゃない。わかったな? 次は本当に死ぬぞ」


 ボートを出す前にニックは俺に念押しした。

 サウザンドヒルになんて行く気は元々なかったし、レインボーアーチブリッジ……いやデスサイズアーチブリッジで売人としての俺の寿命は終わった。


 しかしよくよく考えてみればカワグチが言ったことが本当で、PEACEのバイヤーがいなくなれば自然と死神で食っていくことも出来ない。

 だとすれば丁度ここらが潮時だったのかもしれなかった。

 翌日の朝、いつものようにパンを配っているコフに見つかった俺は奴に抱き締められ無事を称えられ、いつもよりもひとつ多くパンをくれた。


 コフは色々と俺に聞いてきたが、俺はリリやニックについては離さず上手く隠れてなんとかボートで逃げ帰ったと嘘を吐いた。

 サウザンドヒルでの一件の前に思いつめていた様子のコフの表情はすっかり晴れており、それがなんだったのかを俺に匂わすことなく俺は昨日まで死にかけていた自分のことは棚に上げ、コフの様子に安心した。


 吹っ切れた様子のコフは俺の肩を叩くと「話があるんだ。今夜俺の家に来てくれ」と言い、スプーンにたっぷりと救ったピーナッツバターを俺のパンに塗ったのだった。

「戦争をする」


 耳を疑う言葉。口元に運んだ薄いコーヒーを噴き出しそうになるのを俺はなんとか止めることが出来た。


「戦争だと? なにを言っているんだコフ」


 コフ・ワッケインは俺よりも10以上も年上の活動家だ。極端に教養の低い俺達の街では誰一人として奴のしていることを理解していなかった。

 それの関しては俺も同じで、仲良くはしているがこいつが一体普段何をして、何で生計を立てているのかを知らない。

 ただ、この男が率いる『ビギンズ』という組織が毎朝食い物の無い俺達にパンを配っているということだけは確かだ。

 政府も軍もアンヘル達も、俺達に食料を支給しない。

 治安も空気も悪いこのダウンタウンでは野菜を作るだなんてサンタクロースを待つよりも途方もなく現実味のないことだった。


 結果、工場とPEACEで生き永らえているこの貧しい街には食料の生産性が著しく乏しく、誰かの援助なしでは飯にすらありつけない。

 そうすればどうなるか。子供が真っ先に死ぬのさ。

 大人は誰も彼もガリガリで、子供もそうだ。

 書く言う俺だってそういう出身だからな、他人事なんかじゃあない。

 だが、それをある日救ったのが、コフが率いる組織『ビギンズ』だった。

 彼らは突然現れて、俺達にパンを配り始めた。


 なにか下心があるのだと分かってはいたが、それでも彼らのくれるパンは大歓迎だった。

 金で人は人を殺す。

 コフは俺に言ったが、そんなことよりも俺達からすれば【パン一欠けらで人を殺せる】から、金の価値なんていうものに説得力がなかったのだ。


 コフはそんな中で俺を含めた数人の若い連中と仲良くしていた。今思えばその理由のためだったのかもしれない。


 ただ、俺達は【平和】を知らなかった。【戦争を知らない】ことにも気づかずにただ【平和】を望んだのだ。


 平和……言葉にしてみると仰々しいが俺達の平和とは【食べて生きて死ぬ】、それだけのことだ。それ以上でもそれ以外でもない。




 戦争をすると言い放ったコフの晴れた顔の意味を俺はもっと考えるべきだった。





【続く】


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