第2話(1)

 2年前、戦争が始まるほんの少し前のことだ。



「よおマーク、お前は今なにが一番欲しい」


 二つに千切ったパンにチョコレートをべっとりと塗り、あの日コフは俺にそう尋ねた。



「俺が一番欲しいもの? ……そうだな、リブステーキにチーズをたっぷりかけたオニオンスープにミートローフだろ、あとは山盛りのポテトにケチャップをぶっ掛けてビールで流し込みたいね」


「おいおい俺が聞いているのは欲しいものだぜ? お前が言っているそれは食い物ばかりじゃねぇか。そういうことじゃなくてよぉ……」


 バスケットを覚えたばかりのミニジョーダンにスリーポイントシュートのフォームを教えるように、コフは俺に自らの言った言葉の真意を教えようとした。

「そういうことじゃないのか? なら言い方を変えよう。【そういう物を好きな時に食えるような日常】だよ。それはそれが欲しい」


「ほぉ……言うね。じゃあお前は金は欲しいか」


「金で食い物は変えるが金を煮込んでも腹の足しにもならない。俺に取っちゃそんなもんだ」


 コフはチョコレートを塗った方のパンを俺に渡し、自分はなにも味のついていないもう半分のパンを齧り、愉快そうに顔を緩めて目の前に広がる工場と浅黒い霧と湿気と油でギトギトに汚れた野良犬を見詰めて言った。


「でもな、人は金で人を殺すんだぜ」

 なにか意味深に言ったコフの言葉だったが、俺にはさほど興味が沸かなかった。だがなにかしらの返事を求めていそうなコフに対し、もらったパンのチョコがついていない部分を軽くちぎると


「俺達は死神だからな。奴らの寿命を金でほんの少し伸ばしてやってるだけだ。奴らはぼやけてやがるが俺達の誰一人だって忘れちゃいねぇよ。俺達は死神さ、死神は死を売る商売だってな」


 そう言って野良犬に向かってそれを投げてやった。


「でも死神はいつだってあの野良犬にだってなるんだぜ。だれかにああやって気まぐれに恵んでもらったパンを喰うことでしか生きていけねぇ」

 そう言ったのを最後にコフはそれ以上喋らなかった。


 PEACEの仕入れ屋と取引があったため俺はその先を聞かずにヤマ場へ向かった。

 途中、何度も奴の思いつめた顔と食べかけの味のないパンを思い出したがどうしても奴の悩んでいるものの正体が掴めなく、なんとなく俺はもやもやとした気持ちになった。


「や、やあ……マーク、元気そうでなにより」


 いつものヤマ場に行くとPEACEの売人たちでただでさえ悪い空気がタバコと酒の香で更に悪くなっていた。


「いいの入ったんだよ、見てくれ」


 俺が売人のヒロ・カワグチと落ち合うのは決まってこのヤマ場の隅。三本の鉄骨が剥き出しになった柱の下だ。死神は売上の成績が良いものがより真ん中のシマで取引交渉が出来る。ま、ひとつのステータスと言ったところだ。


 分かるとは思うが、ヤマ場の隅で取引している俺というのは…………というわけだ。

「ガーベラ、ストック、ダリア……この辺はいつも通りだけど、今日はこれがあるんだ」


 カワグチはキョロキョロと周りを見渡すと誰も注目していないのを確認し、茶色く汚れたポンチョの裏から黄色い錠剤をこっそりと俺にだけ見えるように出した。


「これは?」


「オミナエシさ。最高級の純度を誇るPEACEでもトップクラスの上物だ」


 おどおどとしている中でもどこか自信ありげな目で俺を見詰めるとカワグチはぺろりと上唇を舐めて笑った。

「……そうか。だがそれだけの上物だったら高いんだろ、悪いがそんないいものを買う金は俺にはないね」


 欲しいは欲しいが今の俺にそれを変えるほどの甲斐性などない。売り手としてそいつを自慢したいのは分かるが、残念ながらそれを勧める客を奴は間違えている。

 例えば、シルクハットを被った立派な口髭を蓄えた紳士がコインを宙に投げ両手のどちらかでキャッチしたかわかないようにしてどちらかを当てさせるゲームをしたとしよう。それを当てれば見事箱のキャラメルを貰えるが失敗しても特に罰は無い。

 だがそれに挑戦するには1ドルが必要だ。いや、1セントでもいい。


 誰もがこぞって我も我もとシルクハットのマジシャンに1セントを渡し、ゲームに挑戦する最中ただ一人、1セントでパンの耳を買っているガキ。それが俺だ。

 だがカワグチは俺のそんな声に長いため息を吐く訳でもなく、ヒッチハイクで素通りする車を目で追うことも無く次を待つ。そんななんでもないことのように「高くないんだ」と笑った。


「高くないだと? オミナエシがか?」


「そうさ……ここだけの話だからマークには教えてやるよ……」


 カワグチは俺に顔を近づけると耳に口を近づけた。

 奴の口からはチーズとウォッカの匂いが漂い不快極まりなかったが、奴のいうここだけの話とやらを聞くためにほんの少しの忍耐で我慢してやった。


「もうすぐ戦争が始まる」


 カワグチが言った意外な言葉に俺は無言で奴の顔を見るという、地味な反応しか出来なかった。


「戦争……だと? そんなものはどこでもやっているじゃないか」


 そう、戦争とは言っても大小含めて外では常にドンパチやっている。外の情報なんてものは入ってこなかったし、興味も無かったがこの街じゃオムツを履いた子供ですらそんなことは周知だ。


「違う、もっと大きい奴だ。もちろんダウンタウンもサウザンドヒルも戦火に包まれるだろう。だからいくらPEACEを売ったところで戦争が始まってしまえば僕達にとって金なんて無意味になるんだ」

 愉快そうに話すカワグチの話を聞いても尚、俺はその話の内容にピンと来なかった。なぜ戦争になるからといって、俺達にとって金が無意味になるんだ。


「マーク、分かってるさ。戦争と金は無関係……そう思っているんだろ? けど違うのさ。それは今に分かる。だからこのヤマ場に居る連中は今のうちに稼いでおこうとしてこぞってオミナエシやサクラなどの高級PEACEを売りさばいてやがる。

 それでも普段の2割引きが相場さ。金が価値を失うってことを知っているのは俺達バイヤーだけ。死神レベルにはこの情報を降ろさない。なぜかって? そりゃそうだろ、金が価値を失くす前に贅を尽くそうってハラだからね。

 だけどマーク、君は数少ない僕の上客だ。これまでの感謝を込めてこの情報と価格で応えてるってだけさ」

 俺は黙ってカワグチの話を聞いていたがにわかには信じ難い。そんなもの(戦争)、一体誰が起こすというんだ。サウザンドヒルはともかくとして俺達ダウンタウンを巻き込む意味も分からなければ、戦争が始まったとしても恐らく変わらずこの街に住んでいるはずの俺に金が無価値になることなど有り得ないからだ。


「ついでにもう一つ教えてやるよ。俺達バイヤーは今日が仕事収めさ。明日このヤマ場に来ても誰一人としてバイヤーはいないよ。もちろん僕もだ。

 だから買っておきなマーク。もしかしたらこの先もどこかで会うかもしれないんだ。その時の為に貸しを作らせてくれよ」


 いくらカワグチの話に説得力がないからと言ってもこの男は無意味で無益な嘘などつかないということだけは強く知っていた。俺は仕方なしに気持ち半分でその話を聞いてやると、奴の言い値でオミナエシを買ってやったのだ。

「毎度。じゃあ、またどこかで会おうぜ相棒」


「頼り甲斐の無い相棒だ。背中を任せたらお前ごと耳を飛ばされそうだぜ」


「くっくく、言う」


 カワグチの言い値は本当に普段の末端レベルのPEACEと同じ値段だった。俺は奴からオミナエシを5袋買うと今晩のレインボーアーチブリッジでの成果を思い胸が躍らせ、夜が来るのが待ち遠しくなった。


 

 俺が期待した通り、その日持ち込んだオミナエシはあっという間に5袋売れた。


 これは相当美味い話だと思い、翌日ヤマ場に行ったがカワグチの言った通りただの一人ですらバイヤーの姿が見えない。

 仕方なく俺は持っていたノーマルレベルのPEACEでその晩の商売に挑んだ。


 リリと出会ったのはその夜のことだったのだ。



 リリと会うのがもう一日早かったならば、俺はカワグチにリリのことを聞けた。

 そう思うとこのタイミングを心から恨むしかなく、灰色の空から俺達にションベンをかけるような汚い雨を降らす信じる者も救わない神に舌打ちをした。


 カワグチという男はその昔日本で地形のことを研究していたと言っていた。なぜそんな奴がこんな汚れきった街でPEACEのバイヤーなんかをしているのか分からなかったが俺自身さほど興味がなかったせいもあり、その日まで俺の知るところではなかったのだ。


 だが一つだけ奴に関してはっきりしているのは、地形のスペシャリストだからこそ末端とはいえダウンタウンまでバイヤーとして訪れることが出来たのだ。

 ダウンタウンの周りは高い岩山で囲まれており、海も無い。せいぜいレインボーアーチブリッジの掛かる大きな川くらいだ。


 その為非常に流通が困難なのだ。

 もちろん空の便を使えば容易にその問題はクリアに出来るのだが、この落ちた人間が水溜りの如く身を寄せ合って集まる貧しく汚れた街に空から飛行機やヘリで物資を届ける狂った人間はいないということだ。


 バイヤーたちは誰もが独自のルートでここまでやってくるがそのほとんどが有料のゲートで料金を払って来ている。

 通りやすく舗装された道はお偉いさんがたのシャツを買う金の為に作られたみたいなものだ。

 だがカワグチは全く違う別のルートを使い、金を払うことなくここまで来る。

 そんなことを可能にするのは彼の類稀なる知識によるところだろう。


 ともかくとして金を払わずに自力でここまで辿り着けるバイヤーはいないということだ。


 そう言った秀でた能力を俺は買っていた。


 それだからカワグチはダウンタウンの外について詳しいのだ。一人で行動する為、道中の街などで大きな警戒心を抱かれることもなく情報を自然と手に入れる。

 その中にリリの情報がないものかと、そう思ったのだ。

 だがそんなことは後の祭りであり、そして今俺は知らない部屋で寝ているということ。

 これが節急して解決せねばならない問題であった。


 昨晩のセックスの余韻は強烈に俺を思考を鈍化させ、それすらもなんらかなの夢だったのではないかと思った。

 実際に目を覚ました瞬間、日の差し込む明るい部屋を見て昨夜のことが全て嘘であること直感的に悟り、昨日のことが全て夢であるのならば俺も今日は橋の上で商売が出来るではないか。


 そんな下世話な小さい悩みが杞憂であったと自分を慰めようとしたとき、俺を眠りから呼び戻した原因を耳が捉えた。

 ゴツゴツと硬いゴムの踵がベッドを伝って背中に感じる。やや乱暴になにかを取り出してはジュウという音。音だけを聞いて判断するのならば誰かがキッチンで料理をしているらしかった。


「……リリ?」


 俺が夢であったことを信じて呼びかける。

 夢であったことを信じたい俺だったが、本当はリリだけはこの世界に存在してほしい。

 そんな贅沢で馬鹿な妄想を確かめる為の呼びかけに、歩き回る踵がふと止まった。


 ほんの数秒止まったままの靴音が今度は俺の方を向いて近づいてくる。

 近づいてくる足音にももちろん注目していたが、誰かがやってくるまでの少しの合間に俺は自分が眠っているベッドを見た。


 真っ白いシーツ。ペイズリー柄のサフラン色の壁紙、ベージュのクローゼット。


 昨日の夜は暗くて分からなかったが、俺は今自分のいる部屋が昨日の夢の部屋であると分かったその時、俺の思考を払いのけるかのようにドアが開いた。


 ドアを開けた人物はその足音からリリではないことは分かっていたが、それにしたって昨日のリリとは余りにも似ても似つかない一人の男が立っていた。

 男はスキンヘッドにサングラスというこの国の軍族が主に好む、極めて個性を視認的に殺す姿にグレイのTシャツ、まだ馴染んでいなさそうな濃い藍色のジーンズを履いていて、目覚めてすぐのアリスさながらの俺を真っ黒いサングラス越しに睨むとこれもまた想像通りの低いコントラバスのような声で俺にこうおはようの挨拶をした。


「隣にシャワールームがある。すぐに浴びてくるんだ」


 生憎俺は誰かに命令されるのは慣れている。状況が分からずともこういった場合は素直に言うことを聞くのが鉄則さ。子供の頃、この鉄則を守らずに死んだ奴が何人もいたから俺はそのアメフトスターの言うことを聞いた。

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