第14話
――最高のキスを覚えているか?
なんの皮肉か、ランスが昔俺に聞いたような問いが、俺の脳裏にラッサルカスの荒原を舞うコンドルのように飛びまわっていた。
唇から伝わる感覚と、脳で見る感覚がまるで別物過ぎて、俺は何度も唇をぶつけた。
目で見る感覚がこの時無かったのは、仮面をかぶっているというのに俺は瞳を閉じていたからだ。
ラッサルカスの荒原に広がる広大な空。
目を開けたらイメージしたその景色ではなく、仮面越しに俺を見詰めている瞳と目が合うのが恐ろしかったのかもしれない。
――最高のキスだって? 覚えているさ
それはそうだ。
それは今。
今この時だからな。
4度目に触れた唇の、弾力に富んだ柔らかさに、もっとそれを味わいと思いながら、これ以上は悪として罰せられるような気がしたので、5度目の前に唇を離した。
だが離した直後にまた俺は強烈に5度目のそれを求め、罰せられるよりも今が貴重なのだと、本能が手を叩き踊る方へとまた唇をあてる。
結局のところ、最高のキスは回を重ねる毎に更新され、7度目のキスが人生で最も最高のキスということになった。
俺に人生最高のキスを与えてくれたその女は、顔も名も隠したがそれが俺が求めた女なのだと確信した。
確信していたのは、どうやら俺だけではないらしく向こうも俺を求めていたかのように激しく舌を這わせたのだ。
つるりと光沢のある滑りのいい肩に触れ、子猫のように細く頼りのない腕が俺の腰の後ろを抱く。
ここが夢の中でなければ一体なんだというのだ。
大きなシャンデリアに、宝石のように色とりどりのテーブル料理、キラキラと目の光を奪ってゆくような煌びやかなドレスに身を纏った女たちと、ゆらゆらと揺らめきなから休日の湖のように踊る人々。
それを一人の指揮者が操っているのでは? と疑わせるほどに洒落た音楽。
それらが全てこの箱の中に結集し、玩具隊が夜な夜な子供が寝静まった後に開催しているパーティーそのものではないか。
――いいや、違う。玩具のパーティーなんかではなく、ここは本物のパーティーなんだ。
正気に戻るのか、眠りにつくのか、もはやその境界線ですらよくわからなくなってしまいそうになったが、俺は自分にこれは現実なのだと言い聞かせると、胸に力を入れ目を見開いた。
「どうしたの? マー……」
俺の名を言おうとした仮面の淑女の口に指をあてると、今度は俺が逆に「それはルール違反ですよ、ミス」と笑った。
この湖の揺れる水面のように、この時ばかりは俺も一緒にその揺らめきと共に踊ったのだった。
「パーティーを抜け出そうよ」
俺達が踊っている横で、見知らぬ男が一緒に踊っていた女性に呼びかけ、仮面の女性は少し恥ずかしげに小さく頷くと男に手を引かれて人の波中に消えていった。
「……どうする?」
仮面で表情は隠れていても、微かに見える目元は好奇心で輝いている。
俺は、この瞳を見て唇の感触とは別のベクトルでそれがリリだと確信する。
「選択肢は二つ。AプランかBプランだ」
「どっちが刺激的?」
リリに笑って見せると、俺は彼女の手を引いて人混みから逃れる。
その手から伝わる体温が、俺の体温に混ざり合って朝に飲むココアのように甘く熱い血流を流し込んだ。
「朝にココアを飲むか?」
「ココアは嫌い!」
「そうか。俺はココアを飲んだことがない」
少し俺は自分に嘘を吐いた。それもそうだ。ダウンタウンで生まれ育った俺が、朝にココアなんてものを飲めるわけがない。
レインボーアーチブリッジの向こう側から、時折その甘ったるい香りが漂い、多分それがココアという飲み物なのだろう……という推測だけだったからだ。
「これはどっちのプラン?」
会場の外に出ると星空たちが観客であるように、俺達を見上げているようだ。
こんな格好で、こんなところにいるからか、俺の思考もいつもとは違う方へシフトしているらしかった。
リリに顔を向けると、俺は「Aプラン……かな」と話し、リリは「じゃあBだったらどうだった?」と口の両端を柔らかく持ち上げて言う。
「Bだったらこうだ」
彼女の付けていた仮面を剥ぎ取り、俺も自分の仮面を取った。
そして、リリの頭と背中を強く抱きしめると、そのまま彼女の唇を食ってしまうかと思うようなキスをする。
リリの口元から涎が一筋道を作り、少し苦しそうに「ん……」と吐息を吐く。
彼女が苦しそうなのは分かっているが、だからといって俺はそれを止めることが出来なかった。
「……もしかして、ここでするの?」
「だとしたら?」
会場の玄関を出て壁伝いの角を曲がった場所。誰かがここまで出てきたら確実に見つかるような、なんの障害物もない場所だった。
ただ夜の暗がりに星と月だけが微かな光で俺達を照らしていた。
「刺激的ね」
「ああ、特別プランだ」
リリの背を壁に押し付け、肩が露わになったドレスの胸元を引き下げると、若々しく弾力のある乳房が弾けるように飛び出る。
しかしリリはそれに恥ずかしがることもなく、俺のベルトを緩めようと金具を鳴らした。
二人の吐息は、興奮からか荒々しくなり、遠目から聞けば息切れをしているように聞こえるんじゃないだろうか。
我ながら獣のようだと思ったが、これまでの人生でここまで女の身体を求めたことがあったか。まるでセックスを覚えたての……いや、これではまるでランスのようじゃないか。
「こんなに男の人を求めることなんて、初めて」
リリの興奮気味に言った言葉に思わず俺は笑ってしまった。それに気付いたリリも「おかしい? そうよね、おかしいよね」と言ったが俺は黙ってキスとすると、舌を絡ませ「俺も初めてだ」と返事をした。
嬉しそうにリリが笑うと、熱を帯びた俺の塊をリリの愛おしい、夢にまで見た裂け目へとねじ込んでゆく。
「あっ!」と短くも大きな声は、痛みや驚きによるものではなく、恐らくはお互いずっと求めていたものだったのだろう。
なぜなら俺自身も「うっ!」と短く声を上げたからだ。
「リリ……会いたかった……」
「この状況になってから言う? だけど……嬉しい。私もよ、マーク。ずっと、ずっとずっと会いたかった……」
リリの熱く柔らかなのに締め付ける肉が、俺をすぐに限界へと導くがリリはそれを許さない。
もっと、もっと、と言わんばかりに何度も何度も自分から腰を打ち付けてきた。
その情熱的なリズムに乗り、俺は絶頂に耐えながら必死でリリの期待に応え続け、リリは切なくも愛おしい声をそのリズムに囀る子猫のようにあげる。
「愛してる、愛してるマーク……」
「ああ、俺も……俺もだ。リリ」
「言葉に出して! お願い、マーク……私を愛してるって」
「愛してるリリ……! 俺は、お前を! 誰よりも……何よりも……!」
舌を鳴らすような卑猥な音を星たちにぶつけるように、俺は何度も何度も果て、リリも同じように何度もオーガズムに達した。
愛は理屈ではないのだ。
俺はこの夜、リリと再会するまでそれを理解していなかった。
愛とは幻想で、愛とは綺麗事で、愛とは誰もが理想にするものを見える形にしようとするものだとばかり思っていた。
だけど、現実は違った。
愛は、ここにあった。
――ここにこそ愛があるのだ。
俺は、これまでの人生で一度も言ったことのない言葉を、恐らくは一生分、リリに繰り返す。
愛してる、愛してる、愛してる、愛してる……と。
リリは同じだけの数、いや、もしかしたら俺よりもその愛が巨大であるのだと主張するように、呪いの言葉か、はたまた誓いの言葉か。
とにかく、俺達はお互いにその言葉を繰り返し続けた。
ふとももから滴り落ちる滴が、切ないほどに星の光を吸い、ヒールの中に吸い込まれてゆく。
パームライズホールの夜は、リールダンスとダンスのリズムとはまるで違う鼓動のリズムで、まるで多国籍の楽器が出会い、即興でセッションをしているような。
これを無理に美学的に描写するのならこういうことだろうか。
それほど長い時間ではない中で、出来る限り体を重ね、お互いを混じり合わせた俺は、胸の中で息を切らして汗を拭うリリに対して俺が思ったことを話した。
「多国籍の楽器……。素敵」
時折言葉を途切れさせながら、情事の余韻に浸っている様子のリリは俺の胸から肩越しに空を見上げて言った。
「世界中の人達が、国々の色んな武器を自分たちの国の楽器に持ち替えて、一緒に音楽を奏でるの。私が見たこともない楽器や、聞いたこともない音色を奏でて、何曲も何曲も……。私は歌うわ、喜びの歌を歌うの。
人と人が繋がり、愛し合い、命が連鎖していく。
その世界では誰も死ななくて、おばあさんも赤ん坊も一緒に、歌を歌うのよ。
沢山の音色と、色々な人達の歌声。
私は特別でなく、その中にいる一人の人として歌うの。
そして誰かがまた戦いを始めようとしたら、銃の代わりにバンジョーを渡すわ。
誰かが罵声を上げたら、その罵声にコーラスをつけて反骨の歌にするわ。
そんな世界で、私は貴方と生きてゆくのよ、マーク。それが私の理想……私の夢よ」
「……いい夢だな」
「貴方が今、星空と一緒に私にくれた夢よ。ありがとうマーク……愛しているわ」
パームライズホールの夜は短い。どれほど短いかというと、それが永遠だと勘違いするほどに短いのだ。
人が死ぬときには、自分の命が消えるその瞬間、そのように思えるのなら幸せなのかもしれないと思った。
リリと過ごしたかけがえのない時間は、俺にそんな永遠をもたらすほどに短い夜だったのだ。
一秒一秒はこんなにも長いのに、一時間は目を見張るほどに短い。
どれくらい前のことだったか、ロックミーが俺に対し熱心に『相対性理論』について熱弁をふるっていたことがある。
そのほとんどを俺は理解できなかったが、ただ一つ奴が言っていたことで忘れられないフレーズがあった。
――光を超えれば人は時間を超えられる。
ニュアンスだけで覚えているから、実際に奴が言ったこととは違うかもしれない。
ただ、俺にはこれが正しい相対性理論で、相対性理論という仮説の名前などどうでもよく、俺にとってのそれはこれでいいのだ。
もしも、今俺が神になったとして、その偉大な力で光を超えたとしよう。
そうすれば、俺達は時を超えて永遠を手に入れられるのではないか?
「そうだったのね。神様は貴方だったのね」
なにも言っていないはずだったが、リリはなにかを感じ取ったのかそんなことを呟いた。
これは運命の女ではない。宿命の女なのだ。
「俺は心を失うことが恐ろしい。それは自分が死ぬことよりも、……だ。だが俺は考えるんだ。俺にとっての心とはなにか?
仲間を失うことが恐ろしい心か。このままリリに会えない孤独か。食い物にありついた時の喜びか。ピースドラッグが売れた時の達成感か。ランスの話に呆れた心か」
「答えはでたの?
「いや。だからリリ、一緒に探してほしい。俺の心がどこにあるか」
「じゃあマークは私の身体を探して」
「体?」
「そうよ。この身体を抜け出して、女王であるリリを捨ててただ愛した男の人についていくだけの、ごく普通の女性。その身体がほしい」
俺は、さっき投げ捨てた仮面を拾うと土を払った。
それをリリの顔につけてやると、「ほら、ここに知らない女が一人。……君の名前はなにかな?」、そう聞いた。
仮面で顔が隠れたリリはうれしそうに笑い、「名前を聞くのはルール違反よ」と俺を抱き締める。
俺も壊れてしまわないように強く抱き締め。
「このまま二人で逃げてしまおう」
リリの耳元で囁いた。
リリは、嬉しそうに泣き笑いのような声を上げると、俺に負けないくらいに強く力で抱き締め返す。
「嬉しい! マーク、嬉しいわ!」
しかしリリはそのすぐ後に「でも……」と付けたし、腕の力を弱めアースグリップがイカれてしまった時のようになってしまう。
「逃げ出してしまうには沢山の人が死に過ぎてしまったわ」
金色の日差しのように眩かったリリの声は、夜空の星光を吸ってしまうような悲しげな色に変わった。
「知ってる? ニックが死んじゃったの。私、ニックになにも言ってあげられなかった。ありがとうも、さようならも」
「……」
リリの言葉で俺はニックの最後の顔を思い出してしまった。
そうだ。
俺はニックを……。
だから俺は、リリに会う資格なんてないと思っていた。ニックはあの時、俺の顔を見て言ったのだ。
『マーク……』
と。
リリが言ったように、俺も今唐突に身体が欲しくなった。
マークという兵士ではない、ただの男。
なんでもいい。町でナッツを売るみすぼらしい男だっていいんだ。
リリが俺のことをマークだと分からなくてもいい、ただ俺はもう一度、リリと出会い直したいと思った。
全てをリセットして、俺はリリともう一度出会い、愛の言葉を告げ、そして結ばれるのだ。
その先には特別なものなど一切なく、ごく普通の暮らしがあり、俺たちに興味をもつ隣人などおらず、ただひっそりとパンとチーズ、それに少しの果実で生きてゆくのだ。
自然にいついた犬は俺に厳しく、リリには甘い。
リリはその犬に名前をやる。ニックという名を。
そんな、そんな有り得ないし在りもしない未来と将来。そうか、これを夢だというのだろう。
次に俺は愛をなんと説くだろう。
俺にとっての愛とはなんだ。
「リリ、お前にとっての愛とはなんだ」
リリは俺の問いに微笑み、手を握った。
「……手を繋ぐこと」
目の前で俺に微笑みかける、【なんでもないただの女】の答えに俺は涙が溢れた。こんなことは初めてだった。
「手を繋ぐこと……か」
リリは地面に落ちた俺の仮面を拾い、土を払って俺の顔に着ける。
「どうして泣いているの坊や?」
この瞬間、俺達はBWのマークとAPのリリではなく、お互いの顔も名前も知らない仮面をつけただけの普通の男女になった。
顔も知らないこの優しい女の人は、この僕を見てどうして泣いているのか聞いてくれたんだ。
僕は恥ずかしいって思ったけど、女の人の顔が仮面で隠れているのを見て、自分も仮面をしているって思い出した。
だから恥ずかしくなんてないんだって思ったんだ。
僕は、パパが泣いているのを見たことがある。その時、すごく嫌な気分になったんだ。
だから僕は泣かない。誰かの前でなんか泣くもんか! って決めたんだ。
だけどこの優しい女の人は、笑ってくれた。優しい目で僕を見詰めて。
「ママ……」
それは自然に出た言葉だった。物心ついた時から存在しなかった存在。母親。
女は、いつか子供を身ごもり、母になる。
当然、俺も女から生まれてきたはずだが、俺を産んだ女なんて知らない。
生まれてここまで、母親の名前なんて呼んだこともなければそんな名前も知らなかったからだ。
もっと言えば、興味もない。最初からいなかったから。
だけど、目の前で笑いかけるこの女は、最初からいなかったはずの、名前も顔も知らなかったはずの、俺の母親なのではないか。
馬鹿げた話だが、この瞬間俺はそんな錯覚を覚えたのだ。
だがそれも全部、全部……あとづけだ。
なぜなら俺は……。
「う、うああ……ママ……ママぁ……」
「寂しかったね。寂しかったのね、坊や」
リリが頭を撫でてくれる度に、情けない声と嗚咽が漏れる。
俺の脳裏にここまで生きてきた沢山のことが蘇り、全身を駆け巡るようだった。
「キユが大人に殺されて、リオリは食べ物がなくて飢え死んじゃったんだ。戦争が始まってゲンノスが死んだ。ワッカもカーミャもセナも戦争が始まって、死んじゃったんだ! 誰もお腹いっぱい食べることもなく、ただ死んだんだ! なにかのためじゃない、『ただ死んだ』んだ……!」
この戦争の意味など、考えようと思っても考えるのをやめてきた。
出来るだけこの戦争に対する情報も耳に入れないようにやってきた。
コフとも距離を置き、俺はただ戦場に立つことにこだわった。
肉片に代わり、誰も知らないところで腐って骨になってしまったのに、放置されたままの仲間だっている。
俺は、その死にうんざりしていた。
ダウンタウンにいるときとどう違うのかを比べた時に、あまり違わないことに気付いたんだ。
みんな、『ただ死んでいく』だけ。
なにかのためでもなく、『ただ死んでゆく』だけなのだ。
だったら、なぜ生まれた?
俺たちの中に、BWに『愛』を知っている人間はどれだけいる?
ならばAPではどうだ。
奴らは愛を知っているのだろうか。
知っているならば、こんな戦争は起こらなかった。
『愛』を知っていれば、貧しいだけで『ただ死んでいく』俺達を放っておけないだろう。
だけどリリは、愛を手を繋ぐことだといった。
俺達は、一度でもAPと手を繋げただろうか。
奴らは、俺たちと一度でも手を繋げただろうか。
「手、温かいでしょう?」
強く握りしめた両手。伝わる体温。二人の体温が共鳴するように汗となって生まるる命。
こんなにもシンプルなものだったのだ。
『愛』とは、『愛情』とは。
「この戦争が終わったら。一緒に逃げましょう、約束して……」
リリは、仮面を外すと素顔を露わにし、俺も素顔を晒した。
「約束して、マーク」
「ああ、リリ。約束するよ」
涙は止まっていた。
なぜならここにいるのは、マーク・ウォーとリリ・ピースだからだ。
仮面を外したのは、お互いを確認するためだったのかも知れない。
――この戦争が終わったら。
いつになるだろう……。
だけども俺達はここに決めた。
次に出会うのは、戦争が終わってからだ……と。
全ての罪も、言い訳も、思い出話でさえも。
俺とリリは、この夜を最後に戦争が終わるまで決して求めないことを誓ったのだ。
ここには『愛』がある。
手を繋いだ温もりがある。
「お上品な女もたまにはいいねぇ! アナルにぶち込んでやったら失神しやがって俺のコックがまたそれに興奮しちまってよ~!」
思った通りランスは下品な土産話を大きな声で話し、ロックミーはそんなランスの武勇伝を聞き流しながら切り取ったメモをずっとニヤニヤしながら見詰めている。
「おいマーク! また絶対誘ってくれよな、こんなにオイシイことねーからよ!」
人殺しをしなかっただけでもマシか。
そう心で呟く俺の表情も見ずにランスは、興奮しながら武勇伝の続きを詠った。
「で、お前は何を見てやがんださっきから」
帰りの列車は奮発して個室をオーダーした。一応これでも顔を指される可能性があるからだ。それにパームライズホールならいいが、パームライズホール外でAPの兵士に会ってしまうと大変だ。
さすがにやつらは武装していないだろうから、拘束されることは考えにくいがそれでもちょっとした事件になるかもしれない。
まあ兵属ともなると気にしなくてもいいことにも注意しなくてはならないということだ。
そんなことよりもランスの興味はロックミーのメモにあるようだ。
「いっつも隣の鶏が死んだような顔してるクセになんだってそんなにやけてやがんだよ!」
ロックミーはランスがメモを奪おうとしたのを左手で払いつつ腰を上げた。
反動でランスは頭から椅子に突っ込み、派手な音を上げる。
「普段からちゃんと訓練しないからだ」
ロックミーは特に感情も込めずにランスへ言う。ランスはというと、しこたま頭をぶつけたらしく手でそこを撫でるばかりでリアクションが出来ないでいる。
ロックミーが言うように、ランスに比べてロックミーは単体での戦闘能力は高い。
もしも今ここでAPの奴ら5人くらいに囲まれても顔色を変えずに床に伏せさせるだろう。
「連絡先だ」
そんな屈強なロックミーは、メモを潰してしまわないよう気を使いながら、黙っていては何度でもちょっかいを出して来そうなランスに向けて言った。
「連絡先?」
「ああ、そうさ。パーティーで出会ったトーアという女性のな」
「名前を聞いたのか? そりゃお堅いロックミー先生には珍しいこった! あのパーティーは名前や素顔を隠すことに美学を見出すんだろ? そのルールを無視するなんて、その女ぁヤルね。
よっぽどコアなファックをしたんだろうよ」
ロックミーの告白に頭をぶつけた痛みを忘れたといわんばかりに、ランスは愉快そうに笑う。
「そういうお前はどうなんだ。お前だって名前くらい聞いたんだろう?」
「名前? 馬鹿言うなよ、そんなもん名前なんざ聞いても面白くねーだろ。ああ、顔は見てやったぜ? 俺は最後まで仮面は外さなかったけどな。もうちょっと具合のいいプッシーだったらイニシャルくらいは聞いてやってもよかったんだがよ。ハハッ」
ペチペチと額を叩きながらランスは楽しそうに言う。ジャケットもすっかり着崩し、ネクタイもどこかに失くしたと言っていた。
「言っておくが俺はお前のような野獣じゃないんでね。身体からことを始めたりはしない」
それを聞いたランスは顔を縦長にして驚いた。そして俺に向かって視線を配せるとロックミーを指差し、「聞いたかよマーク」と震える声で言う。
「なんだ?」
「なんだじゃねえって! こいつ、こんな最高なプレシャスにファックしてないんだとよ!」
オーバーな手振りでもってそう俺に媚びるランスを無視するように、ロックミーは「お前と一緒にするな。マークがそんなことする男なわけないだろう」とため息を吐く。
「……」
「おい、お前……まさか」
俺の無言の回答にロックミーは少し言葉を見失うと、少しイラついた様子で頭を掻いた。
「ほらな! マークだって脳内は女のプッシーにどうコックをインサートするかばっかりなんだよ!」
ロックミーは簡易型のベッドに横たわると「まさかマトモなモラルを持っているのが俺だけだとはね」と寝返りをうつと俺達に背を向けた。
「……で、どうだったんだ戦神オーディン様はよ」
部屋に備え付けられた冷蔵庫からビールを二本取り出し、ランスは俺に放り投げて尋ねた。
「まあまあ……だな」
「しらばっくれんなよ。そうそうに会場からいなくなったことくらい分かってんだ。相棒だろ? 俺たち」
ランスの『相棒』という言葉に思わず俺は笑ってしまい、「相棒なのか?」と聞き返した。
「相棒? ああ、言い方を変えてやろうか? お前といれば俺は死なないし、良い想いもできる。俺に取っちゃオーディンというよりゃハーレムのボス……ってとこか」
「お前らしいな」
そういって笑った俺にランスは楽しそうに「今日はよく笑うじゃねーか。いいことあったな?」とビールをぐびりと飲んだ。
「俺たちはいつ死ぬか分からない。だから次の約束があれば生きる理由にもなるだろ?」
相変わらず背を向けながらロックミーが言う。ランスは俺に『やれやれ』というジェスチャーを無言でした。
「……なぁ、お前らは『愛』ってどういうものだと思う?」
ぶほっ、とランスが口からビールを吹き出し、慌ただしい音を立ててロックミーが俺に向いた。
「おい、変なもの食ったか?」
本気で心配そうに聞くロックミーに両手を胸の位置で振りながら「いや、その……だ。つまり、ちょっと気になってな……。お前らみたいな奴はそれをどう思ってんのかって……」と流石にたどたどしく答える。
「ヤキが回ったもんだねー戦神オーディン様も! こりゃ次の戦地から弾丸浴びるんじゃねーの?!」
鼻からも飛び出たビールをチリ紙でかみながらランスは涙目ながらも愉快そうに言う。
「……愛か。意外と自分にとってそれがどういうものなのか考えたことはなかったな」
ロックミーはメモを畳み、枕の下に仕舞うと顎に手を触れて考えに耽った。
「愛ねぇ……そうだなー。俺に取っちゃそんなもんはチーズ一枚分の価値もありゃしねーけどな」
「じゃあ、どういうもんなんだ」
「知ってんだろ? 俺はアウトシティの生まれだ。生まれはしたが、一体どこの誰が俺を産んだのかも、俺を産んだ女のプッシーにスプラッシュした男のことも、誰の事すらわかりもしねぇ。
俺には仲間が家族だったし、大人になれば家族だった仲間も死んだりパクられたり、殺したり……まーとにかく酷いもんさ。そこからお前の言う『愛』とかいうもんを探すなんて、よっぽどの変態じゃなきゃできねえよ。
お前もダウンタウンの出だって聞いてたから俺と同じもんだと思ってたがな、買い被り……あ、違うな。安く見過ぎてたみたいさ、マーク兵長殿」
ランスは噴き出してしまったビールをダストボックスに投げ入れると、次のビールを冷蔵庫から出しながら言った。
「ロックミーはどうだ」
「愛とは上等なもの……。俺にとってもそれが美しいものでありかけがえのないものなのだろう、という推測は出来るがね。
しかし、それがどういうものかという定義づけをしろと言われても難しいな。月並みなことをいうなら自己犠牲の象徴って感じじゃないか」
そうか。とだけ答えると、俺はよく分かった。
愛の定義などというものは、各々に置かれている環境でどのようにも形を変えるものなのだと。
そんな形の違うモノの中で、リリの言ったことはシンプルだけど真理なのだと思う。
――『手を繋ぐこと』
このたった一言の『愛の定義』に俺は心を撃ち抜かれたのだ。
「……手を」
この会話に飽きてしまったのか、ランスは俺の考える愛の定義については聞かなかった。ロックミーも少しそれを聞くべきか迷った様子だったが、メモをもらった女性のことをもっと考えたかったみたいで、またメモを取り出すと横になってしまった。
この手はつい数時間前まで、ほんの少し前までリリの手を握っていた。
それが愛なのだと説かれながら。
そして、俺もそれが愛なのだと確信していたのだ。
列車は夜の闇から逃れるように、朝日へ向かって走っていた。
【続く】
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