第16話




 星の降る夜。



 とっても下品でイヤラシいことをしたの。



 マム、ねぇ。



 私は悪い子かな。



 アーレアという夫がいるのに、私はマークを愛してしまった。



 沢山の、沢山の愛を、ほんの少しだけマークにだけ特別にしてしまったの。



 マム、ねぇ。



 ねぇ、マム……。



 パームライズホールの夜、あの日がなにかの夢じゃないか。



 私は何度も頬をつねった。



 つねった頬は、じんわりといつまでも痛みの余韻を引き、今が如何に現実であるかを私に説教するようだった。



 久しぶりに会ったマークの胸板は、初めて出会ったあの頃よりも逞しくなっていて、とっても堅く、木の板のよう。



 思い返すだけで、何度も一つになった箇所が、じんわりとみっともない状態になってしまう。



 それを恥ずかしいな、とも思いながらでも、私は少し嬉しい気分にもなった。



「……もう夢でいいかも」



 ――仮にあの夜の出来事が、私が眠っている間の夢であったとしても、それでもいいと思ったのだ。



 それほどまでに、美しく楽しく、興奮のする、全身が歓喜に打ち震えるような、そんな……そんな夜だったから。



 人は人を平等に愛すべきなの。



 だけど、私はマークを他の人達よりもほんの少し、少しだけ愛してしまった。



 その愛に後悔はないの。



 どれだけそれが罪なことであっても、自分勝手なことでも。



 ごめんなさい、マム。



 私は、死を正しいことだとは思えないし、思わない。



 だけど……だけどね。



 マークを愛することが、私の死で許されるのなら死んだっていいって思うの。



 マム、貴方は私と同じ愛を持っていたのかしら。



 だから、貴方はそのために自ら死の行進に参加したの?



 パレードの先に、終わりがあるのなら……私は。



 夢にまでみたあの腕は、夢にみたよりも温かく、力強く、私をバラバラに壊してしまいそうだった。



 より日常よりも強く、より日常よりも柔く、激しく刺激的なオーダーをマークにした。沢山のわがままを言った。



 マークはそれに全力で答えてくれた。



 私達が愛し合う夜空に輝く星々が、流星として愛し合いひとつになっている最中の私たちに降り注ぎ、穴だらけになったり、押しつぶされたりして死んだとしても、それも私にとっては本望。



 だってこれは夢。私に取っては、瞳を開けて見る最高の夢だから。



 この夢が醒めなければ、私はずっとこの場にいていられる。それが死で終わったとしても、闇の中に沈んだとしても。



 愛しているわ、マーク。



 マーク……。






 ――思っていた通り、夢はあっという間に醒めて、太陽は容赦なく私に日常を返してきた。



 望まないことは許さなれない。



 でも私にとっては、唯一この日の朝だけは僅かに望まなかった。日常が戻り、現実が還ってくることを。



 私は、今日も世界の人達のために……。



 ううん、全ての人が持つ愛のためにまた歌わなければ。戦う人達を、失う人達を、私が特別で会っていいはずがない。



『このまま二人で逃げてしまおう』



 マークの言葉。心臓が潰れるかと思うほどの、最高の言葉だった。



 そして、その最高の言葉に頷くけないことが更に心臓をバラバラになってしまいそう。



 全てが終わった後。戦争が、人から戦いが無くなったその時はきっと……






「どうしたのジョージ」



 ジョージを気にかけたのは、私じゃなくトーアだった。



 普段ジョージに気を使うことなどほとんどないトーアなのに、帰りの車の中ではなんだか機嫌が良いみたいで、その顔にも微笑みが漏れている。



 私と話す時は、いつもなにかに心配しているような表情だし、隊の人達と話す時は無表情。ジョージと話すときは、なんだか機嫌が悪そうに口元を歪ませているのが見慣れたトーアの表情だったから。



 でも、この時のトーアと言えばそんなジョージに対して、私にも向けたことのないような、優しい顔をしていたの。



「え? いやぁ、さっきからどうも腹の調子が悪くてね。なに、車に乗る前ちゃんとホテルで綺麗に出してきたから心配しねぇでいいさ」



 トーアが思わず声をかけたのはどういうわけかと思い、ジョージの顔を見てみると、なるほどなんだか顔色が悪い。



「そう。だったらいいけど」



「トーア、なにかいいことあった?」



 トーアの変化を無視できず、やっぱり私は聞いてしまった。



「なにか? 私、なにか変?」



「ううん、変じゃない。今のトーアの表情が本当で、それ以外がきっと変だったんじゃないかって思うくらい……変じゃないよ」



「なによそれ。分かりにくいわ」



 そうは言いながらもトーアはふふ、と鼻を鳴らして笑って見せた。



 私達のやりとりも見ずにジョージは、ずっと青い顔で窓の外を見詰めている。



 パームライズホールには、3人で来なければなかった。



 私とジョージは、メンバーとして必須だったからあと一人誰にするか……。



 その時に私はトーアを指名したのだ。



 トーアにとって今回のパーティーが楽しいものになるかは分からなかったけど、軍服を着ている姿しか見たことのない私は、トーアに息抜きをしてもらいたかった。



 ラミトやキナのことも気にはなったけど、そのことを彼女たちに言うと口を揃えて「トーアを連れていってやってほしい」と言われた。



 それほどにトーアという女性は、皆からの信頼が厚い女性なのだ。



 年齢は37だと聞いたことがある。女性としての人生はもう捨てているとも。



 そんなもの決めつけるのはまだ早いと言ったけれど、やっぱりトーアよりも若すぎる私が言ってもなんの説得力にもならなかった。



「リリ、ありがとう。私もいつか恋をするわ」



 トーアはいつかそう言って私に笑ったっけ。



 彼女は、私のような子供にも、精一杯傷つけないように気を配れる優しい女性だ。



 それを誰もが認めていたのだろう。



 ほとんど無理矢理、私は今回のパームライズホールのパーティーにトーアを誘った。



 最初は渋っていたが、ジョージと私を二人で行かせることに心配したらしく、最終的には承諾することになった。



 ジョージをドギーバーのように使ってしまったようで、気が引けたけど後々事情を話した時、ジョージは笑って「じゃあ俺に不利益を与えた代償として、パーティーでワインを一杯奢ってもらおうかね」と言った。



 パーティーのドリンクなんて、全てセルフだというのに。



 彼も彼で大人だということだ。



 とにかく、そんな他人のことばかり気にかけるトーアが笑っていると、私まで嬉しくなってしまう。そう言いたいの。



「なにか嬉しいことがあったんでしょ? ね、トーア」



 トーアははにかむように笑いながら「なんでもないって……」と小さな声で言う。



 私はトーアが嘘を吐くのが下手なのだと、この時初めて知った。



 何度か肘でトーアの胸をつつき、「教えて」と尋ねているとトーアは観念して少しずつ語り始める。



「パーティーで、ロックミーという男性と知り合ったの。歳は聞いてないけど、多分同じくらいかちょっと上かな……。

 背が高くて、それなのによく鍛えていて。なによりもヒップから足のラインがとてもセクシーで……」



 ハッとトーアは私の顔を見た。



 もちろん、私はニヤニヤと笑っていたからトーアは暗い車内でもはっきりと解るほど顔を赤くして「違うの、ロックミーがセクシーだっていうのは、私が勝手にそう思っただけで……。本当に、ダンスしかしていないし、ワインだって……」としどろもどろで言い訳をする。



 その様子が、余りにもキュートで、グリーンバードの収穫祭で売っていた誰かが手作りで作ったミーアキャットのぬいぐるみのようだと思った。



「トーア、ちゃんと自分のことは教えた?」



「え! ……あ、一応私の連絡先は」



「うふふ」



 私の笑みに、トーアは恥ずかしそうに俯きながら目だけを私に向け、口を尖らせた。



 こんな風にからかわれるのが苦手なのだと、私はそれを知ってなんだかとても嬉しくなってしまったのだ。



「意外と奥手なのね。トーア」



「そ、そういうリリはどうなの?! ちゃんとキスくらいは……」



「なにを言っているのトーア? 私は沢山、マークとセックスをしたわ」



「セ、セック……」



 そこまで言いかけると、トーアは車窓を開けそこから顔を出すと急に咳き込んだ。



「あははっ、トーア。とってもかわいいわ」



「かわいいって、リリ! 私は貴方より……」



「そうよ。トーアは私のお姉さんよ! だけど、こっちのほうは私の方が上手(うわて)ね」


 私が笑ってトーアをからかい、トーアが時折とびきり高い声で否定したりして帰りの道中はすごく楽しかった。



「……」



 そんな中で、ジョージはなぜかずっと押し黙ったまま、目を閉じて眠っている振りをしている。時折鼻を鳴らすので、それが本当に眠っていないのだということだけは私にもわかったからだ。



 それに……ジョージが眠っているのを見たことがある。



 彼は、眠っている時。



 大きないびきをかくのだ。



 彼がこんなにも静かに、それこそ少年が疲れて眠りこくってしまうように眠りを貪るとは考えられらなかった。



 でも、ジョージは私をこの奇跡と素敵と、流星のパーティに連れ出してくれた。



 なにがあったのかはわからないけど、私に出来ることと言えば、ジョージの眠った振りに気付かないでいてあげることだと思ったの。



「ラブ アンド ピース」



 ふとそんな言葉が聞こえて、私はトーアを見た。



 トーアは、車窓から藍色の景色が流れるのを見詰め、ぽつりと言ったのだ。



「トーア?」



 ラブアンドピースだなんて、いつも私が言っていることだった。



 トーアがそれを言うことがおかしいというわけじゃないけれど、あまりそれを言わない彼女に一瞬、釘づけになってしまったのだ。



「……素敵な言葉ね。リリ」



「そうよ。愛で人は平和になるの。平和が愛を連れてくるの。これが循環していれば、世界はいつも笑顔よ。そのために、人は手を繋ぐのよ。……こうやってね」



 トーアの手を握ると、彼女も笑ってくれた。



 私はもう片方の手をジョージにやり、ジョージの手も握る。



「私は人を、全ての人を愛しているし、感謝している。でも、私は人を愛せる自分を作ってくれた全ての物事にこそ、この身を捧げたいと思うの」

「はは……まるで神様だな」



 ジョージは、やっと口を開きトーアと手を繋いだ。



「つまり、こういうことかい?」



 三人が両手を繋ぎ、一つの輪になった。



「そう。これがピース。ピースの輪!」



 トーアも、ジョージも、多分……私がこれまで見てきた中で一番、優しい顔で笑ってくれた。



 私もその笑顔を見て、嬉しくて笑う。



 私の笑顔を見て、トーアも嬉しくて笑って、その顔を見てジョージも……。



 ――私は、満たされていた。理屈じゃないの。全ての生きとし生けるものに、愛と感謝を。



 ……そして。



「みんな、……マークに会わせてくれてありがとう」





「トーア兵長が、休暇……とは珍しいですね」



 すっかり前線に行く機会が少なったヴァルキリーサークル。



 明らかにアーレアの声がかかっているのだろう。



 多分、「ヴァルキリーサークルを戦地に配置するな」って命令しているのだと思う。



 そんな中に居ては、戦意を保ち続けるのは難しい。



 私の求めたことなのだけれど、ただキャンプにいるだけで行き場のない兵士達は、毎日を持て余している。



 誰よりも私に賛同し、ヴァルキリーサークル設立の立役者だったイチタもあれこれと言いながら戦地にわざわざ赴いて行ってしまった。



 あれほど一大ムーブメントを起こしていたはずの、ヴァルキリーサークル。



 誰もが、誰かがこぞって創り上げた『ヴァルキリー』という神様を崇拝して、この場に居れば『弾丸が当たらず、無傷で帰られる』と信じてはこの場に集まった。


 だけど、無傷の進軍は進むことを禁じられ、どこに行くこともなくただ留まれと命じられた。



 無傷の人間ばかりというのは、今も更新中。



 当然だろう。誰も戦地に行かないんだもの。



 私は、それについてすごく嬉しかったのだけど、みんなは違った。



 退屈は、人を狂わせるのかな。



 イチタの脱退を皮切りに、次々とわざわざ戦地へ戻り武器を再び持つ兵士が後を絶たなかった。



 気づけば、ヴァルキリーサークルと呼ばれたこのサークルは、私とラミト、キナにトーア……たったの四人になってしまっていた。



 ラミトはいつも武器やランド・セルを磨いて、余った時間があれば絵ばかり描いていたし、キナも提出する宛もない報告書ばかりを書いていた。



 トーアも、普段キャンプに居る時は私の部屋のドアに立ち続け、いつも私の身に何かが起こらないように見張ってくれていたの。



 私達だけ、時間から取り残されたようで。


 そんな中での、トーアの休暇。



 たった二日間だけの休暇だった。



 私は彼女がどこに行くかを知っていた。



「トーア、ロックミーと会うのね」



「え、あ!? 違うのよリリ! 私は、そんな……」



「なぜそんなに隠そうとするの? 私はトーアがロックミーと会うのが嬉しいわ。でも、本当に嬉しいのはトーアと、女の子のお話が出来ることよ。愛とか、恋とか、……キスの仕方とか、色んな楽しいことを……トーアとシェア出来るのが嬉しいの!」



「リリ……」



「だから、お願いトーア。いっぱい、い~っぱい、楽しんできてね!」



「分かった。リリ、い~っぱい楽しんで、くるね」



「うふふ」


 今朝のそんなやりとりがあって、この退屈なのに何もできない時間にも少しだけ潤いがあった。



「リリ、なぜそんなに楽しそうなの?」



 キナが書類を仕上げ、顔を上げた。



「ううん、……人は恋をして、愛を持って生きてゆくものなのね」



「なにそれ? でも、いつも通りのリリね」



 ドカッ、入口の辺りで慌ただしい靴音が資材箱にぶつかった。



 静寂とは言えないけれど、セムカリームのバーベキュー場と同じくらいの静かさを急に壊したその音の方向に目を向ける。



「あら、ジョージ」



 顔色を変えたジョージがそこで私の顔を見詰めていた。



「……なんで、お前がここにいるんだ!?」



「なんだお前! リリ女王に失礼だろう!」



 キナがベルトにかけた鞭で地面を叩き、ジョージを威嚇するけど、ジョージは構わずに私に迫った。



「なんで、ここにお前がいるんだ! リリ!」



「……ジョージ?」



 バチン、と激しくも短い破裂音のような音が鳴ったのと同時に、ジョージはその場にひざまずいた。



「あうっ!」



「ちょっと、やめて! キナ!」



「ここは黙ってください! ……ジョージ、貴様。リリ女王と親しくしているからといって、友達にでもなったつもりか! その暴言は充分軍法会議ものだぞ!」



「やめてってばキナ! ジョージは軍兵じゃないわ! それに私の友達よ!」



 バチンという音は、キナがジョージの背を打った音だったのだ。



 ジョージは、背中を抑えようとするけど痛みの場所まで手が届かず、ヒィヒィと隙間風のような息で肩を揺らしている。



「う……うぅ……」



「どうしたのジョージ? ここに私がいないと思ったの? なにがあったの」



「う……うぅ……でも、これで良かったかも知れない……」



「これで良かった? ジョージ?」



「キナ! リリ!」



 私がジョージの代わりに背中を擦ってあげていると、ラミトが血相を変えて駈け込んで来た。



 私とキナの名前を呼び胸で息をするラミトは、血を失っているのでは勘繰るほどに青ざめた顔で、口をパクパクとさせている。



「……ラミト?」



 突然のジョージ訪問と、狼狽した様子のラミト。



 立て続けに現れた余裕を失ったお客様に、私とキナはなにごとか全く理解ができないで、ただパクパクとジェリーフィッシュの揺らめきのような口の、ラミト眺めているしかなかった。



「トーア……兵長、が」



「トーア? トーアがどうしたというの」



「トーア兵長が、……死にました」



「……」



 唐突過ぎる報告に、誰もそれに反応すら出来ないでいた。



「死んだ……って」



 やっとキナが口を開いたかと思うと、それを待っていたのかラミトがキナの言葉に被せるように、



「パームライズホールが爆撃され、壊滅状態です! トーア兵長の遺体も確認されました!」



「馬鹿を言うなぁ! 今朝までキャンプにいたんだぞ!? それがなぜパームライズホールで……」



 ――ロックミー……。



 私の脳裏にその名前が過る。ああ、そうだ……トーアは、恋をするために……パームライズホールへ。



「トーアは、少女のままで死ねたのね」



 キナはラミトやジョージになにか叫んでいたけれど、私の耳にはもうなにも入ってこなかった。



 騒がしい部屋を出て、私は空に迎い鼻声と嗚咽で躓きながら、歌う。



inside the birdcage freedom is sung

So loud that our freedom song can't be heard

All the lives lost make no difference to us


The prayers of beasts locked inside the camp

Are softly surrounded by the poison gas

It's just like what the world feared of all those year ago

The stories from 1940 to 1945


End of the world


Inside the bug cage the butterfly prays of freedom

And our freedom prayers can't be heard

All the lives make no difference to us


in a pet shop where life has a price tag

We pick up and hold the lonely cat to our chests

It's like buying and selling a life for profit

Oh, what's it called again?

I'm too tired to remember the word


End of the world


Everybody has a different view of this world

I just want to live in harmony

There is no life that comes with a price into this world

I just want to treasure everything


End of the world



One day I began to feel that dogs weren't locked up in chains

So please let me ask you this:

"What is the reason that you are free?"

「さようならも、言えないなんて」



 少女のような笑顔を見たのは本当にさっきのことだった。



 トーアは、いつでも私に厳しかったから。



 だけど、どれだけ誰かが私を非難しても。



 どれだけの人が私を神だと崇めても。



 トーアだけは、私の味方だったし、私をいつも一人の子供として見ていてくれた。



 トーアだけが、……トーアだけが。



「マム、何故神様は私から大事な人ばかりを奪ってしまうの? マム、そんなにそっちの世界は楽しいの? 歌で溢れているの?

 ニックも、トーアも、マムも……みんなそっちに行ってしまったわ。誰も居ない世界で、私は……私はひとりぼっちで生きていかなくてはいけないの!?」



 ――マーク。なぜこんなときに、こんなにも悲しい時に貴方はいないの……。



 戦争が、トーアを殺したのか。



 人が、トーアを殺したのか。



 私はこの世界を、本当に愛していけるのかしら。



 憎しみも、怒りもありはしないわ。



 ただ、深い……深い悲しみ。



 この悲しみに私は殺されてしまいそう。



 息が止まり、鼓動が躍るのをやめ、私は静かに死ぬの。



 貴方に会える夢を見ながら……。私は、静かに……。



 心の中で、もう会えない人達を浮かべた。



 戦死したAP軍の戦士たち。ニック。トーア。マム。



「うう……」


「リリ!」



 部屋に私がいないことに気付いたキナとラミトが、飛び出してきた。



「大丈夫。キナ、ラミト。私は泣きながら立ち上がるわ。泣きながら前に進み、泣きながら、戦う人達の為に歌う。ニックが、トーアが、マムが、私に言うの。

 リリ、貴方は歌うの。ただ、愛の為に。愛の為だけに歌うのよ……って。

 私は歌うのをやめない。もしもこの世界が私だけになってしまったら、歌うのをやめて愛する人を思いながら静かに眠るわ。けど、その日が来ない内は歌うの。私は、……私は歌うのよ」



 こんなにも人がいなくなってしまった場所で、私は掌を組み空に縋った。



 どうか神様。



 神様、誰もが武器を捨て空になった掌を敵兵と繋げる日が来ますように。



 神様。



 ああ、神様……。



 どうかお願いします。大きな大きなピースサークルを……平和な日を……。






『――分かったろう。BWは非戦闘地域にも平然と爆弾を落とし、罪のない民間の人間を虐殺する。奴らは独立を唱えてはいるが、実際は自らの実権を詠いたいだけなのだ。

 力を誇示することで、我らが如何に人道に外れたものかと、同じ貧しい人間に唱える。

 しかし、本当に貧しい人間とは何だ?

 彼らのように富もなく、教養もなく、食べ物も家さえもない。そんな人間を貧しい人間だというのだろうか。それが戦闘理由になるだろうか。

 私達は、貧しさを知らない。彼らは裕福を知らない。

 それだけならば、謂わば同じ人間と言えども違うものと考えてもいいのだ。

 何も私は差別論を唱えているわけではない。

 どちらも良し悪しがあるということだ。ならば本当の悪とはなんだ?

 それは貧しさでも、富でもない。

 本当の悪とは、無差別に人を殺すことだ。人が、人の命を理由もなく奪うなどということはあっていいはずがない。

 この戦争は、そういう主張の対立であったと言ってもいい。

 だが、奴らはルールを破った。対等の正義であったはずの我らとBWは、今回のパームライズホール爆撃で、完全に悪となり下がったのだ。

 彼らは自らの正義を放棄したのだよ』



「アーレア、私には難しいことは分からないと言ったわ。戦争の思想も、互いの理論や価値感も、私にとっては上等過ぎて立ち入ることが出来ない。

 でも、貴方の言った「人の命を理由もなく奪う」のが悪というのは、わからない」



 意外そうな、ほんの少し高い声でアーレアは通信機越しに『なぜだ?』と尋ねた。



「理由があっても人の命は奪っていいものではないわ。貴方に取っての戦争とは、理由があるから仕方なく人の命を奪うものなの?」


『僕には君の言っていることのほうがよほど難しいがね』



 アーレアが通信で私を訪ねたのは、パームライズホール爆撃……トーアが死んだ日から数週間経ったある日のことだった。



『信じたくはない情報なのだがね。そんな悪に成り下がった許すまじBWのとある兵士と、君が深い関係にあると……そんなことを耳にしてね』



「なぜそれをすぐに聞かないのかしら。わざわざBWが悪だと断じてからそれを切り出すなんて、少しずるいわ」



 通信機のスピーカーの奥で、アーレアは『あはは』と短く乾いた笑いを発する。



『僕が……嫌いかね』



「私には嫌いな人なんていないわ。だけど、進んで戦争を激しくする貴方達を心から愛せるかどうかは、……自信がない」



『……トーア・ミシェル兵長。いや、トーア・ミシェル軍曹のことを言っているのかね』



 トーアの階級は兵長だった。



 それをわざわざ軍曹に言い直したのは、トーアが二階級特進したから。


 戦死したのではなく、休暇中に遊びに出かけた地で爆撃にあったのだから、本来はこれが適用されるはずなんてない。



 でも、アーレアはトーアに階級を与えた。



 紛れもなくそれは、国民支持と……私への配慮のためだったらしい。



 だけど、私は軍曹と言い直されると「ああ、トーアは本当に死んでしまったのだ」と再確認してしまい、辛いだけだった。



 そんな私の気持ちにも気づかずアーレアは、その後も何度にも渡ってトーアを『軍曹』と呼んだ。



『しかし、わかっただろう。君の周りにはもう誰もいない。あれだけ女神だとフィーチャーされたのにも関わらず、だ。だからリリ、君はもう戻ってくるんだ。

 私の意思ではない、戦争がキミを必要としなくなっただけさ』



「私に出来ることは、もうなにもないの?」



『充分やったさ』



「それで……聞かないの? 私とBWの兵士のこと」


 少しの沈黙。



『それを今答えたとして、君にとっては不利益なことしかないよ。それとも、話してギロチン台に登るかい? 母親と同じように』



「マムは……!」



『ともかくとして、わざわざこの話題を君にしたのは、責めたいからじゃない。釘を刺しただけさ。『全部知っているぞ』……とね』



「……」



『僕個人としては、許せないのだが……。だからといって正当なら理由もなく君を殺す訳にもいかない。なんといっても戦女神(ヴァルキリー)だから。

 ヴァルキリーサークルには誰もいなくなってしまったけど、未だに君の人気はAPでも絶大なんだ。だからね君の引退試合を用意しようと思う』



 アーレアのその言いまわしに私は言葉を失くした。一人きりのキャンプで「まさか!」と私の声だけが反響する。



「ヴァルキリーサークルから兵士が居なくなったのは」



『深読みはよくないよ。リリ』


 唇を噛み締めると、鉄の味がじわりと舌の上に沁み込んできた。



 私の声に驚いたキナとラミトが、様子を見に来たけれど通信をしているのを見て再び戻ってゆく。



 誰も居ないと言っても、誰一人としていないわけではない。



 キナとラミトだけはここに留まってくれた。



 だけど、トーアのことがあって以来、どこか距離を置いているような気がする。



 その距離感が、すぐに戻る態度に出ているみたい。



 だけど、私はキナもラミトも責めるつもりはないの。



 誰だって、近い人間が死ぬのなんてもうまっぴらだものね……。



『リリ、君はもうこちらに戻ってくるんだよ。既に選択肢はない。だが、それにはケジメが必要だ。一度戦女神として崇められた君がこのまま戦局から黙って身を引くのは許されない。

 全ての戦争に携わる人間達にとっては、君は戦争と平和の象徴なんだよ。望まなかったとしてもね』


 人を愛し続ける。全ての人を同じように愛する。



 マム、貴方はそれが出来たのかしら。



 友達が死んで、家族と思っていた人も死んで、愛する人は敵軍の兵士で。



 そして、本当ならば愛さなければならない夫が、この戦争の中枢にいる。



 たった一言で沢山の人が死ぬのに、そこから動くことのない人。



 あの人が腕を失って帰った時、私はこの人に一生お仕えしよう。そう思ったわ。本当よ。



 恨んだことも、憎んだことも、怒ったことでさえも、ただの一度もない。



 これも本当よ。



 相変わらず私にある感情は一つだけ。



 悲しみ。



 深く、暗い、悲しみ。

 どうかこの悲しみが、私にだけ降りかかりますように……。



 私には、死ぬ準備は出来ていた。



 本当に、どの瞬間で終わってもいいの。



 パームライズホールのあの夜。私の人生はもう終わっているから。



 最高の瞬間を迎えた、マークとのあの時間で私の人生はもう満足したわ。



 だからね、マーク。



 もう会えないけれど、私は幸せだったわ。








【続く】

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