愛情より Ⅱ
「わたしはハフルさんに、グムソムの昔話を一つ教えてもらいました」
亡き娘に言及された途端、イェフチェは震える手を握りしめた。
「内容自体は他愛のないものでした。幼いころのグムソムが、乳桶に顔を突っ込んで、危うく溺死するところだった、という。でもこの話、似ていませんか?」
イェフチェの隣に目を向けると、コユの顔は真っ青になっていた。彼はもう、気づいたのだろう。しかしだからといって、これからツェグナがする話が、彼に苦痛を齎さないはずはないのだ。
「グムソムは陸の上で溺死するところだった。フフリさんは陸の上で溺死した。――つまり、グムソムの幼少期の状況を応用すれば、フフリさん発見時の状況を作り出せるのです。ナヤンさんはハフルさんと一緒に、グムソムをさんざん揶揄ったそうです。だから、この細工も容易に思いつけたでしょう」
少女が閉ざした目蓋の裏では、桶の水で水浴する小鳥の姿が浮かび上がっていた。もちろん水の量にもよるが、雨に濡れずとも陸の上で水浸しになるのは可能なのである。解決の糸口となってくれたあの鳥には感謝しなければ。
「わたしが考えたフフリさん殺害時の状況は、次の通りです」
まず、フフリを背後から思いっきり殴りつけるなりして失神させる。もしくは、無理やり押さえつけて、あらかじめ用意していた水が入った容器に、フフリの顔を押し込む。そうして彼女を溺死させた後、水を遺体の全体にかける。そうすれば、とても人間技とは思えぬあの状況は、いとも簡単に作り出せるのだ。犯行に要する時間も、さほどではあるまい。もっともフフリを殺害するには、犯人はある条件を満たしていなければならないのだが――
心配になって様子を確認してみると、案の定コユは腰を浮かしていた。ナヤンに殴りかかろうとしていたのだろう。コユが隣の人物に押さえつけられるのを待って、少女は説明を再開した。
「もっとも先ほど述べた犯行を行うには、犯人はフフリさんよりも体が大きくて、腕力がなければなりません」
獣の形相で荒い息を吐くコユは、それでもどうにか激情を抑え込んでくれた。
「それにそもそも、フフリさんがあの日あの時あの場所に訪れると、把握していなければなりません。わたしはあの日の前の晩、フフリさんにどうしても話したいことがあると言われて、早朝に
だからツェグナは、もし仮に川の主からのあの言葉がなかったら、真っ先にナヤンを疑っていただろう。ツェグナとフフリの家族を除いては、フフリがあの場所をあの時間帯に訪れると分かっていたのは、彼だけなのだから。
ナヤンは大男ではないが、元服を迎えた男らしい体格をしている。彼ならば体調が回復して――魂が戻ってさえいれば、女にしては大柄なフフリでも難なく抑え込めたはずだ。そしてその後、再び魂が抜け出していたとしたら。さすれば、その後もナヤンが体調を崩したままだった理由を説明できる。悪寒を感じただけでも、魂が肉体から出ていってしまうことはあるのだから。
あるいは、こうも考えられる。ナヤンは、幼少期の体の弱さゆえ、熱発している状態に慣れているという。ナヤンなら、魂が戻っていなくともある程度熱が下がってさえいれば、フフリに抵抗されても動きを封じられただろう。
「ナヤン。お前そういや、約束の
家長たちはただ一人を除いては、恐るべき殺人者から、ナヤンから逃れるべく、身を寄せ合っていた。静かに佇む青年が恐るべき病魔であるかのごとく。その例外であるグムソムは、その場にへたり込んだまま、微動だにしない。
「ナヤンさんがフフリさんを殺害したのは口封じ――フフリさんが伝えたかったことを、わたしに伝えさせないようにするためでしょう。細工については、人間の犯行ではないと皆に錯覚させるため。グムソムに類が及ばないようにするため、ではありませんか?」
もしもフフリと話し合った後、ツェグナがナヤンの天幕に留まっていたら。そうしたら彼は犯行を諦めたのだろうか。ありえたかもしれない可能性を考慮すると、息が止まりそうになった。
「ナヤンさんの行動を理解するには、ナヤンさん自身を基準にしてはいけません。あなたはいつも、大切な誰かのために行動していた。そうですよね?」
瞬間、兄弟はそろって面をぐしゃりと歪めた。前も思ったのだが、グムソムとナヤンは顔立ちは全く似ていないのに、表情はそっくりなのだ。
「……俺の、ため?」
ナヤンが三つ目の殺人を実行したのは、紛れもなくグムソムのためだろう。ナヤンはグムソムに掛けられた疑いを晴らすべく、テヌゲドを毒殺したのだ。
グムソムがツェグナの監視下で拘束されていた間で事件が起これば、誰もグムソムを犯人扱いしなくなる。テヌゲドの生活習慣は皆が把握していたというから、少し早起きをし、相談があるとでも理由を付けて彼に話しかけ、途中で毒入りの馬乳酒でも進めればよいのだ。
テヌゲドは友人の息子であるグムソムの身を案じていたという。その彼ならば、グムソムは犯人ではない証拠を見つけたとでも
そうしてナヤンの目論見通り、グムソムへの疑いは晴れた。ハフルを殺害するのは、テヌゲドの場合よりももっと簡単だったろう。ナヤンに恋するハフルは、彼に呼び出されれば簡単に応じたはずだ。ナヤンにこのことは秘密にしてほしいと言われれば、ハフルは疑いもせず従っただろう。
叔父ダヤルギン一家についても、夜中にこっそり天幕に忍び込めばいい。ダヤルギン一家の番犬に懐かれているナヤンならば、番犬の警戒を潜り抜けられる。ナヤンならば、一家全員を起こさずに射て殺せたはずなのだ。というより、ダヤルギン一家を目覚めさせずに殺害できるのは、生者ではグムソムかナヤンのみなのである。アムタグの場合を除く全ての殺人の状況が、ナヤンこそ犯人だと示しているのだ。
「……このように、ハフルさんとダヤルギンさんとその家族を誰にも知られたり気づかれずに殺害できたのも、やっぱりナヤンさんだけなんです」
自分が犯した罪を追求されても、青年は穏やかなままだった。それは彼が自分自身ではなく、愛する者のために罪を犯したからなのだろうか。
「成るほど、な」
「そりゃ確かに、ナヤンにしかできねえな」
オゲネイとボソルの兄弟がうんうんと頷く、ともすれば余裕すら伺える様は、非常に似通っていた。だが彼らの態度も、これからツェグナが明らかにするつもりの事実次第では、ひっくり返ってしまうかもしれない。
「――お前、テヌゲドやハフル、ダヤルギン一家はともかく、どうしてアムタグさんを殺したんだ!? てめえの親父に申し訳ねえと、思い
一方妻を理不尽に奪われた男は、いつの間にかナヤンににじり寄っていた。襟首を掴んで青年の体を揺さぶる彼の眦は濡れていた。
コユは、ツェグナ以外では姉アムタグの真実を把握している、ただ一人の人物である。彼が姉のために怒ってくれていることが、こんな状況だというのにとても嬉しかった。
「コユさん、ありがとうございます。……でもこのことは、わたしから言わせてください」
少女はふわりと唇をほころばせ、袍の打ち合わせから小さくたたんでいた毛氈を取り出す。それは、縫いかけの産着だった。
オゲネイとボソル、イェフチェにグムソムは、戸惑いを露わに赤子のための衣服を注視する。が、ナヤンは再びその端正な顔を歪めた。痛みを堪えるかのように。
「これは、フフリさんが姉さんのお腹の子供のために縫ってくれていた産着です」
しかし少女の言葉の意味を理解した男たちは、やがて沈痛に面を伏せていった。老巫者の弟子すらも。
「姉さんは妊娠していた。だからあなたは、姉さんを殺したんですね。グムソムを炉の主でいさせ続けるために」
ナヤンはグムソムとは異なり、義母とは良くも悪くもそれなりの関係だったのだという。仲が良いわけでもないが、殺意を抱くほど険悪な仲でもない。
しかし彼らの父親の死後しばらくして、アムタグのグムソムに対する態度はあからさまに変化した。これはきっと、自分の妊娠に気付いた姉が、グムソムが炉の主でなくなる可能性を考慮したためだろう。
孕んだとて、無事に生まれるかは分からない。だから姉は腹を隠しきれなくなるまでは、周囲には自分の妊娠を隠そうとしていたのかもしれない。しかし、ナヤンは義母が妊娠しているのかもしれないと感づいた。そうしてナヤンは思い悩んだ末、姉が死んだあの日、ノルホン川の畔で姉を問い質したのだろう。
そうしてナヤンは、衝動的にか予め計画していたのかは不明だが、腹の子を姉ごと川に突き落として殺した。姉の腹の子が女であればよい。だが男であったら、グムソムは炉の主でいられなくなり、実母の結納品はともかく父の財産を受け継ぐ権利を失ってしまうから。
最初に川の主に見えた際にこの天幕に
フフリとアムタグは仲が良かった。また、最近赤子を生んだフフリになら、アムタグがなにがしかの相談をしていても――つまりフフリならばアムタグが妊娠していたと知っていても、おかしくはない。さすればほどなく自分が義母を殺害したと悟られ、弟にも類が及んでしまう。おそらくナヤンはこのように考え、フフリ殺しを実行したのだろう。
「……兄さん。何でだよ? どうして俺に一言相談してくれなかったんだよ。……俺は兄さんがいれば、父さんの財産なんて……」
少女が推理の大半を詳らかにした頃には、少年は大粒の涙を流していた。自分のために兄がこれほどの罪を犯したのだ。平然としていられる人間の方が少ないだろう。
コユとイェフチェは、ただただ泣きじゃくる少年を憐れんでいた。グムソムは自分から大切な存在を奪ったナヤンの弟であるが、流石に憎めなかったのだろう。
「じゃ、何だ? もうとっくに九人殺されてたってことかよ!」
「……そういうことになるな、ボソル。でも、いいじゃねえか」
「まあ、それもそうだな」
オゲネイとボソルはというと、ナヤンに侮蔑の眼差しを向けるだけだった。彼らがこうも余裕でいられるということは、やはり……。
胸の奥深くから生じた痛みをやり過ごすべく、少女は深く深く息を吸う。そうして対峙した青年の笑みは相変わらず透明だった。
「……驚いたな。君の魂こそ、体を抜け出してその場にいたんじゃないか?」
青年はとうとう己の罪を認めたが、ノルホン川の水のごとく澄み切った笑みと眼差しは濁らない。
「そうだ。確かに俺は、あの晩この天幕にいた。熱に浮かされながら見る夢で、川の主様の発言を聞いた。だからあと六人殺そうと決意したんだ」
しかし青年の弟は濁った声を絞り出した。そんなことをする必要はなかったはずなのにどうして、と。
ナヤンはこれほどの罪を犯したのだ。皆に赦されるなど、ありえない。ナヤンは氏族の許に戻るなり処刑されてしまうだろう。だからグムソムが兄の内心を知ることができるのは、今だけなのだ。
「それは、お母さまを苦しめた者たちへの、復讐としてですよね?」
少女が諭すように問いかけると、青年は初めて動揺を露わにした。
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