憎悪より Ⅱ
コユの天幕では、母を喪った、しかし丸々と太った赤子が、すやすやと眠っていた。
「……可愛いですね」
「だろう? 娘なんだけど、こいつは本当にフフリに似てるんだ」
生まれて数か月といったところだろう。赤子の愛らしさに、少女は涙の跡を残した頬をほころばせる。しかし、この子の成長や嫁入りをフフリは見届けたかったはずだと考えると、双眸はたちまち潤みを帯びた。
ゲレルタヤは孫息子を連れて乳絞りに行っているという。ツェグナがゆっくりコユと会話できるよう、計らってくれたのだろう。
「あんたに見てもらいたいのはこれだよ。清めの時に、全部一緒くたにして煙を浴びせたフフリの遺品を整理してたら、お袋が見つけたんだ。俺は気づかなかったけど、お袋はフフリが最近それを縫ってるのを、何回か見た覚えがあるそうだ」
コユが差し出してきたのは、何の変哲もない、縫いかけの小さな産着であった。産着といっても、型そのものは成人用と変わらず、大きさを赤子用にして仕立てるのだが。
男の意図を解しかね、少女は首をひねる。フフリには赤子がいるのだ。産着を縫うのは不思議でも何でもない。むしろ、そうすべきであるはずなのに。
でもそれにしても綺麗な縫い目と刺繍だと、少女は産着の仕立ての丁寧さに魅入られた。そうして違和感に――コユが仄めかす真実に気づいた。
この縫いかけの産着は、フフリが娘のために拵えたものではありえないのだ。だって、それにしては小さすぎる。この大きさは生まれて数か月経った赤子というよりはむしろ、生まれたての――
「フフリは特に裁縫が上手かったから、頼まれることも多かったんだ。アムタグさんは……確か、裁縫はいまいちだっただろ?」
「……はい。他は完璧なのに、それだけは駄目でしたね。嫁いでも、上達しなかったんですね」
真実に至った瞬間、少女は泣き崩れた。姉がどんな想いで死んでいったのか、真の意味で理解してしまったから。フフリが自分に何を伝えたかったのか、悟ってしまったから。だから抱きしめた産着がぐしゃぐしゃになるまで嘆き続けた。
幾枚かの
生まれてからずっと宿営地から宿営地へと移るごとに目にしてきた作業。
――そしてそれはそなたらも顔を知る者で、今この天幕に集いし九名の
老巫者の器に収まっていた
「――コユさん。わたし、犯人が分かったかもしれません。おそらくですけれど、動機も」
少女が慄きつつも呟くと、暗く陰っていた男の瞳は、ほんのしばし在りし日の輝きを取り戻した。愛妻がいた頃の光を。
「……でも、一つ教えてもらいたいことがあるんです。コユさんたちは、わたしたちがアフズの老巫者さまの元で川の主さまからお言葉をいただいていた時――だいたい夕食の頃です――一体何をしていましたか?」
「何って……。みんなでメシ食ってたよ」
「具合が悪くて食事ができなかった、ということもないんですね?」
「……俺は体調はともかくフフリのことがあって食欲がなかったから、馬乳酒だけで済ませたけどな」
答えは予想と寸分違わぬものだった。
「それを火に誓えますか? いえ、火に誓ってくれますか?」
「……皆で普段通りにメシ食ってたことをか?」
戸惑いつつも、男は言う通りにしてくれた。
「先ほどから変な質問してばかりですみません。最後に一つだけ、教えてくれませんか。……本人たちに直接訪ねるのは、流石に気が引けるので」
少女が消え入りそうに朧な声を絞り出すと、男は痛ましげに目を細めた。ついに気づいてしまったのかとでも言いたげに。
「……さんの生まれた月は、一体いつなんでしょうか?」
「それを知っても、あいつらを責めないでいてくれるか? ……証拠があるわけでもないし、あいつらはきっと信じたかっただけなんだ」
彼の人の名はうまく発せなかったが、コユは察してくれた。答えはやはり、予想と違わぬものであった。コユの母ゲレルタヤがしきりにグムソムと結婚しろと進めてきた裏には、こんな事情があったのだ。
この夏営地に到着してから目にしてきた幾つかの些細な事柄――例えるならば指先をちくりと刺す小さな棘が、針となり刀となって、少女の心をずたずたに引き裂いていく。ツェグナでさえ痛みを覚えるほどなのだ。本人はどんなに辛かったか。
少女は、枯れ果てたはずの嘆きが溢れるのを抑えられなかった。だがとにもかくにも、二枚目の毛氈も探し出したのである。
「早速今からでも、老巫者さまのところに赴かなければ。今回はコユさんも向かいましょう。だから、他の家長たちに話を付けてくれないでしょうか? わたしはその前に、確かめないといけないことがあるので」
戸惑う男の制止などなかったかのごとく、産着を片手に少女は天幕から飛び出し、薄栗毛に跨った。自分たちはもう手遅れである可能性が高い。しかし、定められた期日を迎えるまで、精一杯足掻かなくては。
「――すみません!」
少女が最初に飛び込んだのは、ボソルの天幕であった。コユの天幕から最も近かったし、心理的に入りやすかったのである。
「ちょっと、いきなり何なの!? この子が折角寝たところだったのに!」
ボソルの妻は、いつかの幼児の母親であった。夫よりも随分と若いので、後妻なのかもしれない。彼女の姑の姿が見当たらないのは、外で家畜の世話でもしているからだろう。息を乱しつつツェグナが事の次第を説明すると、若妻はコユと同様に火に誓ってくれた。
礼を述べつつボソルの天幕を後にする。途中、ぽかんとした顔のオゲネイとボソル兄弟の母と遭遇したが、気にかけている余裕はなかった。事態は一刻を争うのだから。
少女は次に、ボソルの兄であるオゲネイの天幕を訪れた。中では見慣れない顔の中年の女が
「……えっと。あんたのとこ、色々大変だったね」
オゲネイの妻とはこれまで挨拶すら交わしていなかったから、会話は大変気まずかった。しかしツェグナは彼女の落ち着いた人柄に助けられ、用件を伝えられた。その後の流れは、ボソルの天幕での場合と同じだった。
「落ち着いたら、グムソムと酒でも飲みに来なよ。……もっとも、これからもっと騒がしくなるかもしれないけどね」
ありがたい申し出に感謝の言葉を述べつつも、少女は先を急ぐ。オゲネイの妻の心遣いを無駄にしないためにも、ツェグナはやり遂げなければならない。
ツェグナの推察が正しいかどうかを確かめるには、イェフチェと亡きテヌゲドの一家の元にも訪れなければならない。
逡巡した末、少女が先に愛馬を向かわせたのは テヌゲド一家の天幕の方角であった。ツェグナの仮定を伝えたら、塞ぎ込んでいるだろう彼らの気力も、ほんの僅かながら回復するかもしれない。
「――あの、すみません!」
深呼吸の後に声をかけると、いつかのテヌゲドの娘が応対してくれた。
「何? ……もしかして、やっぱりお父さんが犯人だって言いに来たの?」
当然と言えば当然なのだが、彼女は当初ツェグナを警戒するばかりで、容易には天幕に入れてくれなかった。夫の死とその後の顛末の衝撃に耐え兼ね、倒れてしまった母親が寝付いているそうだから、無理もない。
「お願いだから、さっさと帰ってよ。……別にあんたが悪いわけじゃないけど、あたしたち、今はなるべく誰にも会いたくないの」
テヌゲドの娘の顔の険しさは、蹴りを入れられて追い払われてもおかしくはないほどだった。しかしツェグナは骨を折られようが足を切断されようが、引き下がるわけにはいかない。
「そう。……まだどうなるか分からないってことだけど、お母さんが目覚めたら、伝えておくわ」
どうにか事の次第を説明すると、彼女は涙ぐんだ。そうして、これまでの女たちと同じ事実を火に誓ってくれた。これで後は、ハフルの家族の元を訪れるだけである。
意を決してイェフチェの天幕近くの馬繋ぎ棒に薄栗毛を繋ぐと、異変を察知した番犬に吠えたてられた。
「……あんたは、」
ハフルの妹が応対に来てくれないか、と少女は祈っていた。しかし出てきたのは泣き腫らした目の母親であって。
「あんたのこと、ハフルがちょくちょく話してたよ。随分親切にしてくれたんだってね」
我が子を殺された母親に対して、どんな言葉をかければよいのだろう。少女は俯いて唇を噛み締めていたのだが、ありがとうという言葉に促され、どうにか面を上げられた。
「犯人を見つけようと頑張ってくれているのも、感謝してるよ。下の子供たちがいるんだから、あたしたちもこのままぼーっとしてるわけにはいかないって分かってる。だけど、まだ何をする気も起きないんだ。……ハフルはもう、戻ってこないから」
――随分情けない母親だよね。
ハフルの母親は掠れた声でぽつりと独り言ちると、その場に蹲って泣き出した。彼女の気持ちが落ち着くのを待ち、共に天幕に入る。ハフルの母親も、これまでの者たちと同様に火に誓ってくれた。かくして推理の天幕の組み立ては完了したのである。その瞬間、今度は少女の双眸から大粒の雫が零れ落ちた。
結局のところツェグナは、あちこちをひっかきまわした一方で、期待してもいたのだ。自分の推察が全て誤りであれば、と。さすれば姉の喪が明けても犯人を割り出せないかもしれない。しかし亡き者の心情を考えると、そちらの方がまだ救いがあるから。
あちこちに放牧に行っている家長たち全てに話を付けるには、結局夕暮れを待たなければならなかった。
「……ごめんな。急がないといけねえのに」
コユは眉尻を下げて謝罪してきたが、ツェグナだってハフルの母親に火に誓ってもらった後は、ずっと泣いていたのだ。彼を責められるはずがない。
かくして、アフズ氏族の夏営地に向かって発つのは、前回と同じく早朝となった。その顔ぶれは次の通りである。まだ幼く、父を喪った衝撃から立ち直れていないテヌゲドの息子を除く、チャルダラン氏の家長たち――オゲネイ、ボソル、イェフチェ、コユ、ナヤン、グムソム。そしてツェグナ。
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