憎悪より Ⅰ

 ダヤルギン一家全員が、天幕の中で、首に矢を生やした姿で絶命していた。

 事件を知らせに来たフルルバトの顔は、立っていられるのが不思議なぐらい真っ青で。詳細を伝えられた際、ツェグナは声も出せなかった。昨晩の夕食の際に、グムソムから叔父の元を訪れたと、知らされたばかりだったからこそ。 

 最後にダヤルギン一家を目撃したのはグムソムだった。グムソムは放牧の帰りに、犬の件を相談すべく、叔父の天幕に訪れていたのだという。その時、ダヤルギン一家は確かに健在だった。

 グムソムがダヤルギン一家の天幕を出たのは日が沈んだ後。ダヤルギン一家の犬があまりに吠えるので、最も近いボソルの一家の者が確認に行ったのは夜明け頃。ボソルが恐る恐る足を踏み入れた天幕では、炎が炉で踊っていたという。幽かながら、確かに。

 事件はもう終わったはずなのに、どうして。

 グムソムと顔を見合わせたツェグナは一目で察した。自分たちは同じ疑問を抱いているのだ、と。

 慌てて駆けつけると、渦中の天幕には既にちらほらと人が集まっていた。そして集った者たちはいずれも、死人と紛う生気のない様子なのである。

 主亡き後も利口に天幕を守っていた犬は、グムソムの姿を確認するやいなや、尻尾を振って足元に纏わりついた。しかし決死の表情を浮かべた少年には、犬に構う余裕などありはしない。そうして少年と少女は、説明された通りの惨状に直面したのである。天幕の中では、炉の火も幽かながら燃え続けていた。

「こんな酷いこと、誰がやったんだよ!」

 グムソムは惨状を確認するなり、大粒の涙を流した。無理もない。最初に殺されたアムタグは、彼にとっては苦手な義母。フフリ以下のこれまでの犠牲者たちも結局のところ他人だ。しかし今回は叔父とその妻と従兄二人を、一晩にして喪ってしまったのである。

「……とりあえず、出ましょう」

 これ以上ダヤルギン一家の遺体の傍にいるのは辛かろうと、半ば引きずりつつ少年を天幕から出す。どうにか敷居を跨いだ途端、グムソムは膝から崩れ落ちた。 

 ――こんな酷いこと、誰がやったんだよ!

 半狂乱になって拳で大地を叩く少年は、喉も裂けよとばかりに絶叫する。それは集まった者たち全員が抱える疑念であり、混乱であった。

 雷の樹が燃え盛る天幕に侵入できたのなら、犯人は霊ではない。つまり、テヌゲドは一連の事件の犯人ではないということになる。しかし地理的及び体格的には一連の事件を実行できたはずの家長たち――オゲネイにボソル、イェフチェのいずれにも、ハフル殺しは不可能なのだ。彼らは監視下に置かれていたのだから。大体、主一家やその甥である兄弟以外の人間が侵入しようとすれば、番犬が黙ってはいないだろう。ならばやはり、犯人は生きた人間ではないはずなのに。

 今回が単独の事件なら、ダヤルギンが妻子を射殺した後、再び寝具に潜り込んで喉に矢を突き刺して自害した、という線もありはする。しかしダヤルギンもまた、ハフル殺害は不可能なのである。ついでにダヤルギンには、妻子を殺す理由は一切存在しない。ダヤルギンたちはごく普通の、厳しくも優しい父を中心とした仲睦まじい一家だったと、皆囁いているのだから。

 しかも、一度に四人の命が奪われてしまったから、被害者はこれで計八人になった。つまりあと一人誰かが犠牲になるまでに、犯人を突き止めないといけないのである。この不可解な、人間にも霊にも犯行不可能なはずの、一連の事件の犯人を。純粋に人間のみの力で。

 それはもう、不可能なのではないだろうか。ノルホン川の主はあの日ツェグナが感じた以上の怒りを抱えていて、チャルダラン氏を赦すつもりなど、毛頭なかったのかもしれない。だからこんな無理難題を吹っかけてきたのではないだろうか。

 少女はいつの間にやら、嗚咽する少年の隣にへたり込んでいた。座っているはずなのに、視界がぐるぐると回転する。こんな頭では考え続けるなどできやしない。

「――俺たちはもう終わりだ! ノルホン川の主の怒りを受けるんだ!」

 絶望に浸食され混乱した世界においては、己の内心を代弁して絶叫した人物の正体すらも曖昧だった。


 ツェグナもグムソムも、いつの間にやら天幕に戻っていた。正確には、誰ぞによって戻されていたから、その後の詳しい事情にはあまり明るくない。ただ、ツェグナたちよりもやや遅れて到着したナヤンが、その後の一切を取り仕切ったのだという。葬儀も、埋葬も、何もかも。

 副葬品とした品以外の家具や道具は、燃やして清められた。

 二つの炎の間をくぐらせるか、煙を浴びせれば、遺品であっても再び使用できる。けれども皆気味悪がって、ダヤルギン一家の物を欲しがらなかったのだ。殺人の現場にあった品々など、確かにツェグナも欲しくない。その使用者に想いを馳せたら、どうしても目が熱くなってしまう。

 しかし、管理する者がなくなった財産にも、燃やして処分するわけにはいかないものがある。それがダヤルギン一家の家畜と番犬だった。

 番犬については、事件が明るみになった日から、ツェグナとグムソムが引き取っていた。というよりは、ふと気づいたら犬も天幕にいたのだ。葬儀の邪魔になるから、一緒に押し込まれていたのだろう。

 グムソムの話通り聡明かつ人懐っこい犬は、すぐにとはいかないもののツェグナにも心を開いてくれた。もっとも、撫でさせてくれるまでには五日も要したのだが。

 ツェグナが初めて番犬に触れたその日、数を減らした家長たちの話し合いが行われた。結果、故人の家畜はグムソムが引き取ると定まったのである。

 グムソムは既に父親の財産や実母の結納品だけでなく、義母アムタグとツェグナの結納品を引き継いでいる。だからグムソムは難色を示し、葬儀を取り仕切った兄が受け取るべきだと主張した。けれども当のナヤン自身が、炉の主であるグムソムが受け継ぐべきだと、頑として譲らなかったのだという。

 かくしてグムソムは、傍流であるもののチャルダラン氏で最も裕福な家長となった。しかしグムソムの、叔父のものであった家畜を眺める際の目は、常に虚ろだった。また、グムソムを羨ましがる者も、ただの一人もいなかった。

「だからこれからはツェグナにも負担が掛かることになるけど、あんま無理すんなよ」

 家長たちの相談の後。作り笑いを浮かべながら謝罪してきた少年の顔は、少女の眼裏に焼き付いた。さながら家畜の所有者を表す印のごとく。

 グムソムは叔父一家の死の衝撃から立ち直れていない。だから大切な兄と争ってまで己の主張を通すなど、できなかったのだろう。それぐらい言わなくても理解できるのだから、謝る必要などないのに。

 ツェグナはグムソムには悲しい顔をしてほしくなかったのだが、元気づけることもできないまま、時は流れてゆく。そうしていつの間にか、姉の喪が明けるまであと十日になっていた。

 このままでは、いや明日にもあと一人が襲撃されたらその瞬間、チャルダラン氏の命運は尽きてしまう。さすれば姉たちを殺したのが誰なのか突き止めるのも不可能になってしまうのだ。

 生まれたのはトゥグナト族とはいえ、嫁してはダルキル族の一員だ。だいたいツェグナには、生まれた氏族への愛慕の念など残ってはいない。むしろ、チャルダラン氏の方に愛着を覚えているぐらいだ。その皆のためにも何かをしないといけないのに――

 チャルダラン氏の夏営地全体を覆いつくす絶望など知らぬとばかりに、青く澄み切った天の下。少女はこれまた皆の心情とは対照的に爽やかな風を浴びていた。

 急に少し足りなくなった分の水は、もう十分に汲んだ。だからあたりを駆け回っている薄栗毛を捕まえて、天幕に戻らないといけない。しかし姉が死んだ場でもあるノルホン川を前にすると、考え込まずにはいられないのだ。

 足元では、瑠璃玉薊ルリタマアザミ薄雪草エーデルワイスといった花々が咲き乱れている。が、けなげに草原を彩る植物を愛でる心の余裕などありはしない。むしろ、青と白の天空の二色が寄り添っている様をこれ以上眺めていると、眩暈がしてきそうだった。

 ツェグナがあんまりぼんやりとしているから、石かなにかと間違えられたのだろう。小さな手が持つ桶に浜雲雀ハマヒバリが飛び込んできた。淡い褐色の体と、鮮やかな黄色と黒の顔の対比が目にも鮮やかな小鳥は、桶の中で嬉しそうに水浴している。ぱちゃぱちゃと跳ねた水が顔にかかった瞬間、少女ははっと暗紅の瞳を瞠った。

 眼前に広がっているこの状況と似た話を、ツェグナはつい最近、もういない人から聞かされた。そして、一瞬で積みあがった仮定が正しければ、フフリ殺しの際の理解不能であった状況は、説明可能となる。ツェグナがかつて仮定した犯人像とも矛盾しない。しかし、決定的な証拠どころか、犯人を導く手がかりにさえならなかった。だいたい、犯人はどうやってフフリの居場所を割り出したのだろう。

「……よお」

 暗い顔をした少女が、どうにか愛馬を捕まえて天幕まで戻ると、予想外の人物に声をかけられた。

「えっ、コユさん? いったいどうしたんですか?」

 妻を殺害されて以来すっかりやつれた男は、俯きがちに馬繋ぎ場の近くに立っていた。

「……そういやまだあんたにちゃんと謝ってなかった、と思ってな」

 敵意が削ぎ落とされたコユの顔は、誠実で優しそうだった。いや、コユは実際に誠実で優しい人間なのだろう。だからこそ愛妻を喪った悲しみに呑まれてしまったのだ。

 コユのあの時の言動に傷つかなかったと言えば嘘になる。しかし、彼を責めたり、謝罪を要求するつもりはなかった。あれは仕方がないことだったのだから。しかもコユは、後にアムタグは立派な人間だったと言ってくれたではないか。ツェグナにとっては、それで十分だったのに。

「そんな。わたし、全然気にしてなかったのに、」

 この通りだと頭を下げる男に、少女は慌てて面を上げてくれと懇願した。フフリの死にツェグナが関わっている可能性は否定しきれない。だのにこんなに謝意を表されたら、申し訳ないどころでは済まなかった。

「……お袋に聞いた通り、あんた優しいんだな。ほんと、見た目も中身もアムタグさんに似てるよ」

 自分はコユに優しい言葉をかけてもらうに値する人間ではないのに。

 少女の裡で燻っていた後悔はたちまち燃え広がり、なけなしの自制心を灰にした。

「……そんな。そんな風に、言わないでください。わたしがあの日、きちんと大きい方のオボーに行っていたら、フフリさんは殺されなかったかもしれないのに」

 打ち明けても残された者を苦しめるだけだから、黙っていよう。固く決めていたはずなのに、涙と言葉はどんどん零れてゆく。

「わたしがちゃんとナヤンさんに確認していたら……」

 ツェグナのとりとめのない謝罪に、コユは辛抱強く耳を傾けてくれた。

「俺たちの間では、オボーっていやあ大きい方のことなんだ。でも、ここにきたばっかのあんたに、んなこと分かるはずがねえよ。ナヤンが何を考えて小さい方を教えたかは分かんねえが、フフリが死んだのはあんたのせいじゃない」

 コユは笑ってツェグナを赦してくれた。だからもう泣くまいと、少女がどうにか涙を抑えた次の瞬間。男はあたりをきょろきょと見回し、声を潜めた。

「実はな、俺がここに来たのはあんたに謝罪するためだけじゃねえんだ。うちのお袋が見つけたやつで、あんただけに確認してもらいたいものがあるから、ちと俺の天幕に来てくれねえか? ……もしかしたら、あの日フフリがあんたに伝えたかったことにも、関係あるかもしれねえんだ」

 無論少女は頷き、再び薄栗毛に跨った。

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