嫌忌より Ⅱ

 己の骨を受け継いでおらぬとはいえ、イェフチェはハフルが母親の腹にいる頃から成長を見守ってきたのだ。ハフルのあまりにも無残で、あまりにも早すぎる死に、イェフチェはいたく心を痛めているらしい。騒ぎを聞きつけイェフチェの天幕の周りに集まった面々も、沈痛に面を伏せていた。けれども人だかりの中にナヤンと、テヌゲド一家の姿はなかった。顔を出しづらいのだろう。

 ――ハフルさんは、それでもナヤンさんに来てほしいと願うのだろうか。それとも、変わり果てた姿を見られるのは嫌なんだろうか。

 グムソムと寄り添って立つツェグナは、考え込まずにはいられなかった。答えなど出せるはずがないのに。

「……悲しかねえよ。こいつは最近、父である俺が認めない相手と結婚したいって、また騒ぎ出してたみたいだからな。こんな馬鹿娘、いなくなってせいせいするってもんだ」

 吐き捨てた文句の内容とは裏腹に、天幕の中で妻を抱きしめる男の声は涙で濡れていた。

「だから、な。……今はもう泣くな。それがこいつのためなんだ」

 青ざめた亡骸に縋りついて嗚咽する妻子の背をそっと撫で、イェフチェは天幕を囲む面々と対峙する。

「こういう次第だ。ひとまず俺たちを放っておいてくれないか? もちろん、埋葬の手伝いは頼みたいけどよ」

 そうして男は、再び物言わぬ娘の元に戻っていった。

「一体どういうことなんだ? テヌゲドが犯人なら、絞め殺すなんてせずに、魂を抜き取ればいいだろうに。……ということは、テヌゲドは犯人じゃなかったのか?」

「もしかしたらイェフチェのさっきの様子は演技で、あいつ自身が我儘娘に始末をつけたのかもしれねえな。監視は後で家畜をやるから、とでも言いくるめりゃいいし。俺だったらそうするよ。なんせ……」

 聞き流すには悪質すぎる冗談を吐いたダヤルギンに、ボソルの息子フルルバトは刀よりも鋭い舌鋒で反論した。

「俺は、今日だけじゃなくてずっとイェフチェさんを見張っていたよ。眠ってる時だって、みんなで決めたとおりにイェフチェさんの両手を縛って、起きたら俺が解いて……。だからイェフチェさんは犯人じゃない。――絶対に、違うんだ!」

 フルルバトはこれまでずっと、イェフチェの見張りを務めていた。彼は恐らく、なおも僅かに残る、イェフチェへの疑念を払拭せんとしたのだろう。己の父への疑いを強めることになっても、イェフチェのために行動せずにはいられなかったのだ。

「だから、正直に言ってくれ。……お前たち、もしかして見張りをさぼってたんじゃないか? そういうダヤルギンさんの方こそ、見張りに賄賂を掴ませて、監視から逃れてたんじゃないか?」

 フルルバトは、監視の役割を担っていた残りの三人を真っ直ぐに見つめる。しかしその眼差しは咎めるのではなくて懇願していた。

「もちろん、三人が三人とも怠けてたんじゃねえだろう。んな奴は、せいぜい一人しかいないさ。で、その誰かが正直になりゃあ、みんな安心できるんだ。誰も責めやしないから、名乗り出てくれないか?」

「な、お前……」

「今なら、あんたがみんなを救った、ってことにもできるんだぞ」

 フルルバトはオゲネイの息子――ダヤルギンの見張りである従兄を注視している。いや、もはや彼は糾弾していた。

「――お前の方が本流に近いからって、いい気になりやがって」

 遊牧民の間では特別な事情がなければ、末子から末子に家督が受け継がれる。よってより重要視されるのは、より後に生まれた息子の子息であった。オゲネイの息子はもしかしたら、普段からフルルバトと我が身の差を感じ取っていたのかもしれない。

「それとこれは関係ねえだろ!? だいたいうちは、んな有力な氏族でもねえだろうが!」

「だからこそ、てめえが普段から調子に乗ってるのが気に食わなかったんだよ!」

 集まった父親同士と祖母は静まれと呼びかけた。しかし取っ組み合いの喧嘩にまで発展した青年たちの熱狂は静まらない。

「だいたいてめえ、しっかり見張ってたっていうけどな、誰がそれを証明するんだ!? イェフチェさんを見張ってたお前を見張ってたやつでもいんのかよ!? ――いねえだろうが!」

「あ!? ふざけんなよ! 俺はイェフチェさんをちゃんと監視してたと、火に誓ってもいいんだ!」

 天地が分かれた時に発生したとも、世界樹の頂点の葉が擦れて誕生したとも語られる火は、もちろん神聖な存在である。

 鋼鉄を父に、火打石を母に持つとも唄われる炎は浄化の力を持ち、魔を寄せ付けない。草原の遊牧民はいつとも知れぬ昔から火を崇め、火を罵倒するのを憚ってきた。火は人の言葉を解するため、誇りを損ねれば火事を起こされてしまうのである。

 また、火に証人となってもらう場合もあった。自分の発言が真実であると証明したくば、火にかけて誓えばよいのである。把握する事実と人間の言葉が合致すれば、火は爆ぜて合図をしてくれるのだ。

「――それです!」

 ツェグナが突然大声を出したからだろう。頬を腫らした青年たちも、その親族も、皆ぴたりと動きを止めた。

「……あ。その、急にすみません。……フルルバトさんが言うように、見張りの皆さん、自分はちゃんと監視をしていたと、火にかけて誓えばいいんじゃないか。そうすれば誰が嘘をついているか分かるはずだ、と閃いて……」

 痞えながらも少女が閃きを打ち明けると、これまで黙していたオゲネイがようやく口を開いた。

「そういう訳だ。お前たち、俺の天幕へ行くぞ」

「――おう。望むところだぜ。俺にはやましいことなんて、一つもないんだからな」

 その場に居合わせた者たちも、何とはなしにオゲネイに付いていく。

「……なあ。これって、川の主さまの言葉に反することにならねえのかな?」

「あ、」

 道中、ひっそりと抑えられた声量で指摘された途端、少女はたちまち硬直してしまった。川の主はチャルダラン氏の力のみで事件を解決せよと言ったのだ。常のごとく火に誓うだけでも、火の精の力を借りたと見做されるかもしれない。

「まあ、川の主さまの言葉は火も知ってるだろうし、駄目だったら一切反応しないんじゃないか」

 少年は励ましてくれたが、オゲネイの天幕を目指す間、少女の心臓は激しく脈打っていた。破裂しないのが不思議なぐらいに。

「……え。と、いうことは誰も嘘をついていないのか?」

 結果、四人全員が見張りの務めを果たしていたと明らかになった。オゲネイの天幕の炉の火は、四人それぞれの証言中に、高らかに爆ぜたのである。

 赤々とした炎を眺めつつ、ツェグナは安堵の息を吐かずにはいられなかった。今更といえば今更だが、グムソムが疑われた時も火に誓わせれば良かったのかもしれない。いや。あの状況でグムソムはツェグナとフフリの約束を把握していたか否かを明らかにするのは、グムソムは犯人か否か尋ねるに等しい。川の主も流石に許してはくれなかっただろう。

「ほら見たことか。――お前、俺に何か言うことねえか?」

 火影を頬に映したオゲネイの息子は、あからさまに勝ち誇った顔を従弟に向けたが、真の問題はそこではなかった。問題が解決したとも言えるのだが。

「……お前は少し黙ってろ。ぺちゃくちゃまくしたてられてたら、考えが纏まらねえ」

 溜息を吐いた男は、息子を軽く小突いて黙らせた。

 ハフルが殺害された日も、オゲネイとボソル、ダヤルギンとイェフチェの家長たちは全て見張りの監視下に置かれていた。よって犯行は不可能である。グムソムは、体格からしてフフリ殺害は不可能である。また、テヌゲドの死亡時、グムソムはツェグナの監視下にあった。アフズの老巫者と弟子とツェグナは、地理的な問題でアムタグの殺害は不可能である。それ即ち――

「やっぱりテヌゲドが犯人だったんだな。死んで間もない人間の魂は足音を立てたりもするんだ。か弱い娘を絞め殺すぐらいはできるだろう」

 あからさまに安堵した様子のダヤルギンの発言通り。あの日あの時アフズの老巫者の天幕に集っていた者たちのうち、犯行可能な者はテヌゲドしかいない、ということになる。つまり一連の事件の犯人はテヌゲドだったのだ。

 発見時、ハフルの亡骸はまだ温かったという。きっとテヌゲドの魂は、動ける時間帯になってからハフルを絞殺したのだ。ハフルは何らかの理由により、雷の樹の効力が及ばぬ天幕の外にいた。だから彼の餌食になってしまったのだろう。

 テヌゲドの動機は未だ明らかではない。いつか誰かが囁いていた通り、彼はアムタグを嫌っていたのかもしれない。そうしてついにアムタグを手にかけてしまった現場を、フフリに目撃されてしまった。だから彼はフフリをも殺めてしまったのかもしれない。自殺については、結局はフフリ殺しの罪悪感に耐えられなくなった、というところだろうか。

 テヌゲドがいかにして、ツェグナとフフリの約束や、その仔細を把握したかも、依然として不明である。あの約束の存在を知っていたのは、ツェグナとフフリの他は、ナヤンとフフリの家族だけだったのに。けれどもフフリは、姉殺しの犯人が誰なのかを、ツェグナに教えようとしてくれていたのかもしれない。

 もしも自分が約束の場所を間違えていなかったら、フフリは死なずに済んだのだろうか。そう考えると、悲しくて悔しくて――申し訳なくて、グムソムの支えがないと立っていられそうになかった。

 テヌゲドが霊魂となってからハフルを手にかけた理由も定かではない。あるいは、天幕の外にいるのなら誰でも良かったのかもしれないが。それにツェグナは新参者だ。チャルダラン氏の人間関係については、把握しきれていない事柄の方が多い。テヌゲドがフフリを殺害した手段も、さっぱりだ。でも、とにかく終わったのだ。

 とうとう膝から崩れ落ちた少女の眦からは、自然と涙が零れていた。嗚咽を漏らす少女を、傍らの少年はそっと見守る。

「ま、これで犯人が誰かははっきりした。ついでに、そいつから身を守る方法も分かり切ってる。雷の樹だ。これさえありゃあ安心だ」

 心なしか、泣き崩れるツェグナに向けられたダヤルギンの眼差しが、いつもよりも柔らかく見えた。視界が涙でぼやけているからかもしれないが。

「だからまずはハフルを埋葬してやろうぜ。それからアフズの老巫者を訪ねても、まだまだ余裕はある。そういうことだから、俺はこれからイェフチェのところに行って、犯人を教えてくるよ。でも、」

 天幕の入口をくぐる寸前、ダヤルギンはくるりと振り返った。

「みんな、テヌゲドの家族に辛くあったりはしないようにしようぜ。これまで通りにしよう。あいつらだって被害者みたいなもんだし、家長を亡くして途方に暮れてるはずだ。助け合わないとな」

 ――そこんところも、俺がよくよく言っておくからよ。

 ダヤルギンが言い残した言葉は、ツェグナの心にも深くしみ込んだ。周囲の者たちも皆、神妙な面持ちをしている。

「まあでも、これで俺は監視の役目とはおさらばだし、父さんたちも久々にゆっくりできるな!」

 しかし中には、幼子のごとくはしゃいでいる者もいた。監視役を任された青年たちは、十日以上も自分の天幕に戻れていなかったのだ。肉体はともかく、精神は疲れ切っているだろう。

「俺も、兄さんに犯人は分かったって教えてくる。だからツェグナは先に天幕に戻っててくれ」

「……ええ。行ってらっしゃい」

 ハフルの埋葬が一段落したら、川の主を呼び出してもらわないといけない。でもひとまずゆっくりと休みたいのは、ツェグナも同じだった。

 しかし少女の願いを踏みにじるかのごとく、事件はまたしても起きてしまった。哀れな娘を埋葬した翌日の朝、ダヤルギン一家計四名が死体となって発見されたのである。死霊は侵入できないはずの、雷の樹の煙が沁みこんだ天幕の中で。

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