嫌忌より Ⅰ

「……あの。グムソムはあなたとナヤンさんのことには、反対しているみたいでしたよ?」

 流石に早く帰れとは言いづらいので、だから自分は協力できないと暗に仄めかす。

「ふうん。その口ぶりじゃああなた、やっぱりグムソムを選んだのね」

 しかし目をきらりと輝かせたハフルは、こちらの心情を知ってか知らずか、ほっと胸を撫で下ろした。

「なんだかんだでグムソムは炉の主だものねえ。うんうん。あなたたち、ぴったりだわ」

 ツェグナがグムソムを選んだ理由に財産は一切関係ないのだが、それをわざわざハフルに教えてやる義理はない。しかし、不愉快であるのには変わりなかった。

「グムソムはよちよち歩きの頃だけれど、桶に入った羊の乳を飲もうとして頭を突っ込んで、そしたらぴったりはまっちゃって。危うく羊の乳が原因で死ぬところだったぐらいのおっちょこちょいなのよ。ナヤンと私で、随分揶揄ったもんだわ」

「へ、へえ……」

「だから、あなたみたいなしっかりしてる人が、グムソムの奥さんになった方がいいわ。ぴったりよ」

 ハフルの調子がいいのは相変わらずだが、それはそれとして引っかかるものを感じた。だが、その棘の正体がはっきりしない。

「……グムソムはお母さまの件であなたに怒っていましたよ。ナヤンさんも、同じ気持ちなんじゃないでしょうか?」

 勘がいい割には察しが鈍いハフルには、これぐらいきつく告げないと伝わらないだろう。意図してそっけない態度をとると、流石にハフルもしゅんと項垂れた。

「あなた、グムソムからニルチャさんについても聞いたのね。そうね。あの頃のことは私も、とても酷い振る舞いをしたと思っているの。お父さんや、他の大人たちの言葉を本気にして、ナヤンやニルチャさんを傷つけてしまった……」

 ツェグナより背が高い彼女の顔を覗き込むと、目元は光る雫で濡れていた。ぎゅ、と固く握られた拳からも、ハフルの心情を察せられなくはない。

「私はお父さんの本当の娘じゃないから、お父さんの言う通りにしないと、お父さんに――いいえ、お母さんや弟たちからも捨てられてしまうかもしれないって、怯えていたの。そしてそれが、とても怖かった。ナヤンに嫌われるよりも。でも……」

 肩を震わせて嘆く彼女は儚げで、先ほどまでとはまるで別人だった。この悔恨を耳にしたならば、グムソムもナヤンも彼女を許すのではないだろうか。もはやツェグナも、さっさと出て行ってくれとは願えなくなった。

 客人用の器に酸乳アイラグを注いで差し出すと、ハフルは涙に濡れた面をほころばせた。打ちひしがれていてもなお、眩いものを感じさせる笑顔だった。どちらかというと明るい性分ではないナヤンには、こういう女性の方がいいのかもしれない。ツェグナが他人の性分についてとやかく言えたものではないが。

「あなたがやってきて分かったの。私、やっぱりナヤンが好き。ナヤンに謝りたい」

 ハフルは涙に濡れた双眸で、真っ直ぐにツェグナを見つめてきた。一瞬言葉に詰まるほどの、真摯な瞳で。

 ハフルの恋が実を結ぶか否かは結局のところ、ナヤン次第である。けれども行動に移さねば芽が出ることすらないだろう。彼女の父イェフチェが監視下に置かれ、普段よりも行動が制限されている現在の状況は、ある意味好機でもある。だからこそハフルも、ツェグナに接触してきたのかもしれない。年の頃から考えても、これがハフルに与えられた最後の機会なのだ。

「でね。ここからがツェグナさんに頼みたいことなんだけど、」

 了承するとは一言も言っていないのに、ツェグナもハフルの恋の成就に手を貸すと決められているのにも、心のどこかが引っかかる。しかしそれを追求するほど、ツェグナは野暮ではないつもりだった。

「……いきなり私が訪ねて行っても、ナヤンがびっくりしちゃうかもしれないでしょう?」

 ハフルはやおら立ち上がり、天幕の外に出る。

「これをナヤンに渡してほしいの! 私が作ったのよ!」

 戻ってきた彼女が抱えるずっしり重そうな容器には、いっぱいに凝乳が入っていた。

「ナヤンは昔から、こってりしたものよりもこういうあっさりしたものが好きだったから……」

 と頬を真っ赤にして呟くやいなや、ハフルはまたしても慌ただしく天幕から出て行った。

 ツェグナも、ナヤンには絶対に話さなければならない件がある。なのでこの凝乳を持っていくのは、大した面倒ではない。兄弟の父のものであったこの天幕と、ナヤンが暮らす天幕は、他の家族のものよりも比較的近い。馬を駆り出さなくてもよいぐらいだ。用事はさっさと片付けてしまうが吉だろう。

 永遠の蒼天を仰ぎつつ歩を進めていると、チャルダラン氏でも群を抜いて真っ白な――新しい天幕はすぐだった。ナヤンは最近、一日ごとに放牧に出ている。今日は、天幕で未だ本調子ではない体を休める日のはずだ。

「うわっ」

 などとぼんやり考えていると、早速番犬に牙を向けられた。灰色の毛並みのこの犬の父親は恐らく狼だろう。あの鋭い牙には、絶対に嚙まれたくない。

「――ナヤンさん、いますか!? いるんならこの犬をなんとかしてください!」

「……どうしたんだ?」

 悲鳴混じりの懇願が届いたのだろう。久しぶりに対峙するナヤンは、随分と顔色が良くなっていた。魂はもう戻ってきているのだろう。

「ああ。食事を持ってきてくれたんだな。ありがとう」

 犬を抑えつつ、青年はしっかりとした腕を差し出す。

「いえ、あの……体調は、もう大丈夫ですか?」

「ほとんど普段と変わりない。それに俺は子供の頃体が弱かったから、本当は熱が出ていてもある程度は平気で動けるんだ。グムソムは治るまでは体を休めていないとって煩いけど、あんまり暇すぎて放牧に行くことにしたぐらいだから、心配しないでくれ」

「そうですか。それは、良かったです」

 静かで控え目な、けれども一人の娘を恋に狂わせるには十分すぎる微笑を向けられても、ツェグナの心はそよとも動かない。かえって罪悪感が刺激されるだけだった。

「実は、あなたと少し話がありまして。……あとこれ、実はわたしが作ったやつじゃないんです。ハフルさんが……」

「――ハフルが?」

 嫋やかな弧を描く柳眉が顰められる。美形の怒り顔は迫力が違うが、だからと言ってこのまま引き下がるわけにはいかない。

「ハフルさん、わたしのところに来て、こう言ったんです。昔のことは後悔している、あなたに謝りたい、と。その印として、これを渡してほしいって。……あれだけ分かりやすい方だから、あなたもハフルさんの気持ちはご存じでしょう?」

 今ほど、自分の口下手さと抑揚のない話し方を呪った瞬間はなかった。これでは、ハフルの気持ちの一割も伝えられた気がしない。ついでに、自分の心情をきちんと伝えられるかどうかも定かでなかった。

「あと、聡明なあなたはもう察しているかもしれませんけれど、わたしは……」

 いつの間にやら、視線は目の前の青年から自分の足元に移っていた。どこまで臆病なのだろうと、我ながら呆れてしまう。

「グムソムとのことだろう?」

 しかし、俯く少女にかけられた声はあくまで優しかった。青年が湛える表情も。

「俺たちの結婚が決まった頃とは、あまりにも状況が変わってしまったからな。柔軟に対応しないといけない。それに、君みたいなしっかりした人があいつを支えてくれるなら、俺も安心できる。みんなも祝ってくれるだろう」

 ――弟をよろしくな。

 震える手から重い容器を受け取った青年の笑みは、どこまでも透明だった。


 夕食時。乾酪を頬張りつつ、少年はしっかりとした眉を顰めた。こういう仕草は兄とよく似ている。

「さっきからぼーっとしてるけど、どうした? 俺がいない間に何かあったのか?」

「えっ、あ、いや!」

 ハフルやナヤンとの間の出来事をグムソムに打ち明けるのは、なんとなく憚られた。だいたい、どう転ぶかも分からないのだ。グムソムに全てを話すのはハフルの恋が成就した後でも構わないだろう。

「……犬のことを考えていて。そろそろわたしたちも番犬を飼うべきじゃないかな、と」

 苦し紛れに引っ張り出したにしては、我ながら筋が通った言い分ではないだろうか。

「あー。確かになあ」

 匙を止めて考え込んだ少年の様子に、少女はほっと胸を撫でおろした。

「叔父さんとこの犬は割かし人懐っこくていい奴だぜ。叔父さんたちだけじゃなく、俺と兄さんにも大人しく撫でさせてくれるし。でも他の奴には容赦しないし。……あいつ雌だから、次に子供を産んだら貰ってこようか?」

「そうですねえ。でも、父親次第では気性が荒くなるかもしれませんから、ある程度育ってからじゃないと……」

 番犬については、ツェグナがダヤルギン一家の番犬の働きぶりを確認するまでは保留となった。それでも、犬を貰ったらどんな名前を付けるかと話し合うのは、とても楽しかった。

「犬については、放牧中に遭ったら叔父さんたちに話付けとくから。叔母さんへの挨拶がてら、そのうち様子見にいくと……いや、やっぱ独りではやめといた方がいいかも。叔母さん、叔父さんのトゥグナト嫌いが伝染うつ ってるから」

「……ええ。そういう大切な情報はもっと早く教えてくださいよ」

「ごめん、ごめん。――じゃ、そういうことだから!」

 川から吹く清々しい風が、天幕の壁材ハナとも、馬具の原料ともなる柳の葉を揺らす朝。少年は朗らかに手を振り、緑の海の彼方を目指す。天幕に旋風が舞い込んできたのは、それから一刻も経たぬ頃だった。

「――ツェグナさん!」

 もはや慣れっこになってしまったハフルの到来に、少女は手を止める。

「さっきナヤンが放牧に行く前に、こっそり桶を返しに来てくれて――お礼も言ってくれたの! 私のことも、もう怒ってないって。あの時はああする以外どうしようもなかったって……」

 瞬間、作業用の服に包まれた体は、ほっそりとしなやかな熱に包まれた。

「ナヤンは私を許してくれたんだわ! 全部あなたのおかげよ!」

「……そんな、わたしは別に、大したことは、」

「ねっ、私たちこれからずっと仲良くしましょう!」

 だって姉妹になるんだし、とツェグナの頭上で炸裂するハフルの声は弾んでいた。ナヤンが彼女を許したことと、彼女を好いているかどうかは全く別の問題だが、とりあえずされるがままになっておく。

「私のこと、本当の姉だと思って頼ってね! 私はずっとチャルダラン氏のみんなと一緒にいたんだから、きっとあなたの助けになれるわ!」

 きゃあきゃあと娘らしくはしゃぐハフルは、言葉とは裏腹に、無邪気な妹を連想させた。

 ハフルの亡骸が発見されたのは、それから三日後の晩だった。家族は日が暮れても戻ってこない彼女の身を案じ、松明を持って周囲を探した。そうして少し離れた窪地の目立たぬ茂みで、細い首に指の跡をくっきり刻まれたハフルを発見したのである。

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