軽蔑より Ⅱ
グムソムもハフルがナヤンに恋していると承知していたとは。その事実に、ツェグナは混乱せずにはいられなかった。
「――ん? え、あれ?」
人倫を踏み外そうとしている人がいて、しかもそれにナヤンが巻き込まれるかもしれない。なのにグムソムはどうして今まで放っておいたのだろう。兄想いのグムソムなのに。
ツェグナが食事の準備も忘れて立ち尽くしていると、グムソムはらしくなく重い溜息を吐いた。
「あー。これ、結構深い事情があってだな。とりあえず飯食いながら説明するわ」
言うが早いか、少年は男の側に座り込んだ。家長の座に座ればいいと、ツェグナは何度も進めたのだが。グムソムなりのけじめとして、一連の事件が解決しないうちは、家長の座には不必要に近づかないつもりらしい。
今日の夕飯は
これまた普段通り、ツェグナが作ったものを一口分、馬乳酒は最初の一滴を天と炉の火に捧げてから食事は始まった。
「フフリさんの事件があった朝に、水汲みに行ってたっていう、イェフチェさんの奥さんとその娘のこと覚えてるか? それがハフルとそのお袋さんなんだけど……」
好物だという凝乳脂を一匙嚥下した後、グムソムはおもむろに口を開いた。
「ハフルのお袋さんはイェフチェさんの妻だし、ハフルの弟妹もイェフチェさんの子供だよ。でも、ハフルは違うんだ。あいつの実の父親はポズホル族だから」
寡婦は夫と同じ骨の一族と再婚するのが一般であるが、例外ももちろんある。また略奪の対象とされた女は、夫の生死に関わらず、他部族の男の妻や妾、奴婢にされるのが世の常だ。ハフルの母も小競り合いに巻き込まれた結果、妊娠中にイェフチェの妻となったらしい。もっとも、彼女はハフルの実の父の妾であり、その男とも親子ほどの年の差があったそうなのだが。なので彼女は、イェフチェの妻となれたのは幸運だったと、常々零しているという。
たとえ末の息子であったとしても、妾腹の子は家督を継げない。妾であり続けるよりは誰かの正妻に、というのは女として当然の願いであった。
「ポズホル族といえば、あなたたちのお母さまもそうでしたよね?」
「……あ、ああ」
イェフチェも周囲も、やや込み入った経緯の末に生まれてきたハフルを、弟妹たちと全く同等に扱ってきた。グムソムとナヤンの母ニルチャは同族の
と、いってもハフルは、幼少期から顔立ちが一際整っていたナヤンにべったり。弟のグムソムは二の次の対応をされていたそうだが。ハフルの幼少期の口癖は、「わたしがナヤンのお嫁さんになってあげるね」だったという。
「小さい頃のあいつが、兄さんを好きだったのは本当だと思う。兄さんが今も持ってくれてる鷲木菟の羽、俺とハフルが一緒に探したやつだし。あんときゃ中々見つけられなくて大変だったな」
兄さんは昔から体調を崩しやすかったんだ、とグムソムはぽつりと呟いた。アムタグの遺体を引き上げるために、ナヤンが川の水に浸かってから既に十日以上経過している。だのに、未だ本調子ではないのもその表れだろう。
そういえば、ツェグナが姉の死に直面したあの日、ナヤンは独り立ちをしているのに、家長たちの集いに招かれなかった。あれは叔父のダヤルギンなりに甥を案じての措置だったのだろう。
病気の原因は、魂が体から抜けるか、悪霊に体に入られるかの二つに大別される。魂が体から抜け出すのは防げない。けれどせめて悪霊除けとして、魔物を払い悪意を寄せ付けぬ力を持つ鷲木菟の羽を、というのはごく自然な、なおかつ暖かな発想だった。当時のナヤンも喜んだはずだ。
「でも、嫁云々を知られたのか、ある時いきなりイェフチェさんとハフルのお袋さんが怒鳴り込んで来てさ。母さん、ずっと謝ってたよ。……別に、母さんが言い出した話でもないのにな」
「……それは。いくら娘の結婚は親が、特に父親が決めるものとはいえ、酷いですね」
もしかしたらハフルの両親は、ハフルを実の父親から引き離したという負い目があったのかもしれない。だから娘を比較的自由にさせていたのかもしれない。しかしその結果、娘がいささか奔放に育ったとして、グムソムの母親を責めるのは間違っているのではないだろうか。
「こってり絞られたのか、ハフルもそれからも兄さんのことはこっそり目で追っても、母さんのことは知らんぷりするようになった。それで母さん、すごく落ち込んでたよ」
「……そうなんですか」
「で、母さんはそのうち病気になっちまった。もっともこれは、ハフルのせいじゃねえけど。でも、一度くらい様子を見に来てくれても良かったんじゃないかって、俺は今でも思ってる。イェフチェさん怒るとめちゃくちゃ怖いけど、でもさあ……」
グムソムの母親が亡くなったのは、彼が十歳の時のこと。その一年後に寡となった兄弟の父に嫁いできたのがアムタグである。
「母さんはもしかしたら、どこか遠くに行きたいって、ずっと悩んでたのかもしれない。それで、魂が体から抜け出しちまったのかも」
らしくなくしんみりと黙りこくった様子から察するに、グムソムは母親に対して深い思い入れがあるのだろう。グムソムの母の居場所を奪うかのように、姉はやってきたのだ。グムソムがアムタグに敵愾心を覚えるのは、当然の成り行きだったのかもしれない。そしてグムソムの反発は、姉が彼に母として接するごとに強まっていったのだろう。……なんて言葉をかけても、グムソムは自分を許せないのだろうが。
居たたまれなくなってしまったので、正直話題を変えたい。しかしいきなり関係のない話を振ったらあからさますぎて、グムソムを傷つけてしまう。
「……そういえばあなたたちのお母さまって、やっぱり綺麗な方だったんですか?」
故に今ツェグナが踏み込める話題といったら、
「あなたたち、兄弟なのに似てないですから。あなたはお父さま似ということですから、ナヤンさんはお母さま似なのかな、と……」
少数の例外を除いては、ツェグナが把握する限り草原の民は皆一様に、癖のない黒髪に赤い瞳、黄みを帯びた肌を持つ。しかしそれでも当然、美醜の差は存在するのだ。
草原において美女と認められるには、五つの条件を満たす必要がある。
艶やかな黒曜石の髪に透き通る雪の肌と、鮮やかな炎の瞳。潤いを帯びた珊瑚の唇と、煌めく真珠の歯。これらを満たせば、顔立ちがよほどまずくなければ器量よしと扱われるのだ。
ナヤンは五つの条件を全て兼ね備えている上、顔の造作も他を寄せ付けぬほど整っているのだ。女に生まれていれば、求婚者が列をなして訪れただろうに。
なお、ツェグナは髪こそ美しいが、肌は普通の色合いだ。ついでに目の色は暗すぎるので、美人だと称賛された覚えは一度もない。顔立ちも、睫毛が意外に長いのだけが取柄である。不器量と謗られた経験もないので、構いはしないのだが。
「そ。兄さんは母さんにそっくりなんだ」
とにもかくにも、ツェグナは正しい方角に進んでいたらしく、少年は弾けんばかりの笑みを零した。俺たちの自慢の母さんだったんだ、と。その様を眺めていると、ツェグナの頬も緩んだ。だから、つい口を滑らせてしまったのかもしれない。
「でもわたしは、あなたの顔の方が好きですよ」
すると目の前の少年の顔は虹彩に負けず劣らず赤くなった。
「――え? あ、な、は……?」
「……いえ。あの、その……」
ツェグナの頬も、あるいはグムソムよりも赤くなっているのだろう。馬乳酒を注いでやろうと、空になったグムソムの器に手を伸ばすと、間違って彼の指に触れてしまった。それは何でもない、今までも幾度かあった出来事である。しかし触れ合った瞬間、肌と肌は燃え上がった。
こうなっては、もう違和感だとか会話の流れだとかに、構ってはいられない。
「――そっ、そういえば、ゲレルタヤさんから、あなたは馬頭琴を弾くのが上手だって聞きました! 仔を蹴飛ばして拒絶する母駱駝も、あなたにかかればいちころだって」
家畜においては時折母が仔を拒絶し、授乳を拒否する現象が観察される。母が初産であるか、仔が虚弱で無事に成長できそうにない場合。はたまた通常一頭しか生まれない種で双子が生まれると、育児の問題が生じやすい。しかし、問題は全くなくとも、仔を顧みない母は存在した。
母子の紐帯が切れてしまったとしても、駱駝ならば母に馬頭琴の音色を聞かせればおとなしく仔に乳を与える。もっとも、ただ闇雲に弦を操ればよいわけでは全くなく、演奏する側にも相応以上の技量が求められるのであるが。
「えっ、うん。まあ、父さんには、“んなもんに触る暇があったら弓の練習でもしろ”って怒られてたけど、それなりに……」
――だったら、いつかわたしに聞かせてくれますか? この事件が解決してからでも、そのずっと後でもいいから。
ありったけの勇気を振り絞って問いかけると、少年はこくりと首を縦に振った。こうして、ツェグナの気持ちは大方固まったのである。もっとも、まずは姉たちを殺した犯人が誰なのか、突き止めなければならないのだが。
ツェグナも両親が生きていた頃はよく
「んじゃまあ、ハフルのことは昨日言ったとおりだから、もしまた来ても適当にあしらっててくれ。なんなら蹴り飛ばして追い返してもいいから。あんまり酷かったら、俺がイェフチェさんのとこに文句言いに行く」
翌朝、グムソムは昨日同様に満腹になった子牛を連れて放牧に行った。
「おっはよー! ツェグナさんは相変わらず頑張ってるわねえ!」
どうしてと言うべきか、やはりと言うべきか。絞った牛乳を布で濾して塵を取っていると、件の人物の能天気極まりない声が、入口から天幕中に轟いた。やはりこの天幕には一刻も早く番犬が必要だ。今晩にでもグムソムと相談しなければ。
「昨日は途中で帰っちゃったけど、大切なことだから、じっくり話し合いたくて来たの!」
ハフルはやはりのほほんとした様子で、了承もしていないのにずけずけと中に入ってくる。
――そういえばあなた、家の仕事をしなくていいんですか?
皮肉とも罵倒ともつかない文句を呑み込んだのは、ツェグナが優しいからでも、思慮深いからでもない。押しの強さに圧倒されてしまった。ただそれだけである。
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