軽蔑より Ⅰ
三つ目の事件が起こった日の決意も虚しく、以降十日も少女と少年は手がかりすら掴めなかった。その理由は二つ。一つは、幸いにも新たな犠牲者が出なかったため。そしていま一つは、溜まりに溜まっていた家事に、毛刈りを含む家畜の世話や、毛氈作りに追われていたためであった。
搾乳作業用の上着を羽織った少女は、牝牛の横で一息ついた。皮の長靴に包まれた爪先近くの桶には、牛乳がなみなみと溜まっている。その乳白色の液体めがけて舌を出した子牛を、少女は慌てて静止した。子牛の首に回した紐はぴんと伸びている。
「はいはい。あなたの分はちゃんと残してますからね」
紐を外し、まだたっぷりとした乳房まで誘導してやると、子牛は嬉しそうに母の乳を貪りだした。
短い夏の間、草原の女の本格的な一日は、水汲みがなければ牛の乳搾りから始まる。
子牛がいなければ母牛は乳を出さないが、とはいえ子に全ての乳を飲まれては堪らない。そのため牛の母子は、実はあまり共にはいさせないのだ。昼は別々に放牧するし、夜は夜で別々の囲いで休ませる。
母牛と子牛が触れ合うのは授乳の時だけ。それだって、羊や山羊と違って牛はなかなか乳を出してくれないので、まずは子牛に吸わせて、頃合いになったら子牛を母から引きはがすのだ。そうして適当な場所に子牛を繋ぎ、搾乳するのである。ただし最後の一滴まで搾り取っては子牛が飢えてしまうから、子牛の取り分も計算に入れて絞らなければならない。
満足した子牛が母牛の乳房から離れた途端、グムソムがやってきた。
「じゃ、こいつ連れて行くから」
「ええ、行ってらっしゃい」
グムソムは父から受け継いだ分だけでなく、ツェグナの結納品である家畜も放牧に連れて行っているので、大層忙しいだろう。そんな中、地道な聞き取り調査を行ってくれているのだから、グムソムには感謝の念しかなかった。
グムソムの家畜には、姉が持参したものも含まれている。残っていればの話ではあるが、母の持参金もまた末の息子が受け継ぐ。アムタグには実子がいなかったため、掟に照らしてグムソムが受け継いだのだ。ツェグナの目の前で子を見送った母牛も、実は姉のものだった一頭である。草原には野牛が沢山いるので、羊の場合のような管理――あるいは介入をせずとも、牛は子を産むのだ。
ひらひらと手を振って少年を見送りつつ、少女はふと思った。まるでわたし、グムソムに嫁いだみたいだな、と。
ツェグナはナヤンの妻となるため嫁いできたが、それは確定した事柄ではない。正直、ダルキル族一の勇士であったという彼らの父の子ならば、相手はどちらでも構わないのだ。それがかつて叔父に押し付けられた条件だから。
ただナヤンの方が年嵩であったため、ツェグナはナヤンに、という方向で纏まったのである。縁談話の最中彼らの父が身罷り、グムソムはアムタグを娶るはずだと目されたことも、この決定に関わっていた。
しかし姉もまた世を去ってしまった以上は、炉の主であるグムソムに早く身を固めさせた方がよいのでは、という意見も当然出てくる。
『あんたはグムソムの妻になるべきだよ。それがあんたのためでもある』
特にゲレルタヤなどは、グムソムがいない間にしきりに勧めてくるので、正直参ってしまっていた。嫌ではないが、照れてしまうのである。初めて結婚相手について触れられた日などは、しばらくグムソムの目を真っ直ぐ見れなかった。
布で濾して塵を除いた牛乳を鉄製の鍋に入れ熱しつつ、少女は煩悶せずにはいられなかった。自分は一体どうしたいのだろう、と。
生活するにあたって炉の火を扱えなくては不便極まりない。だからツェグナは既にこの家庭の炉に挨拶を済ませていた。と、言ってもグムソムが炉の火に乳酪と松の枝を捧げた後、ツェグナも同じ捧げ物をしただけなのだが。
炉の火への挨拶は本来婚姻儀礼の一部ではあるが、その順序は時と場合によっては入れ替えられる。第一、婚姻を行うべき時期そのものが明確に定まっていない。あくまで夏に行うことが重要で、儀礼を行うまでに子を儲けていても、何らの支障もないのだ。
草原の民の婚姻は双方の話し合いに基づく場合と、男が女を攫ってくる場合に分けられる。部族間での争いで、戦利品として捕まえてきた女を妻にする事例も多い。
略奪によって家庭に入ることを余儀なくされた場合、男女が同じ天幕で暮らしだした時期と、正式に夫婦となった時期には多々ずれがあった。
また略奪によって結びついた男女は、夫婦となるまでに女側の親族などが奪い返しに来れば、そのまま別れてしまうことも珍しくない。よって、ツェグナは必ずしもグムソムと結婚しなければいけないわけでもない。しかしそれでも、ツェグナをこの家庭の火に紹介してくれたのはグムソムで……。などと考えると、なんだか頭が煮立ってきた。ツェグナの脳は乳ではないのだが。
羊や山羊、牛の乳を弱火で熱しつつ繰り返し柄杓で掬っていると、脂肪分が泡立って浮いてくる。これが
ツェグナはこれまで、ナヤンの人となりをほとんど把握できないまま、成り行きでグムソムと行動を共にしてきた。しかしナヤンが弟想いの優しい青年であるのは間違いない。その彼をよく知らないまま、一緒にいて気安いし楽しいからと、結婚相手を変えても良いのだろうか。それはあまりに不義理ではないだろうか……。
いったいどれぐらい考え込んでいたのか。
「ねえ。それ、いい加減に掬わなくていいの?」
初めて耳にする声に驚きつつ天幕の入口を確認すると、すらりとした女性が立っていた。年の頃はナヤンと同じぐらいだろう。
この天幕には番犬がいない。正確には姉の葬儀の間、番犬をナヤンの天幕に移した。そうしたら新参者のツェグナがいる天幕よりも、ナヤンの天幕の方が居心地が良かったのか、犬がナヤンの天幕に居ついてしまったのである。グムソムも、無理に犬をこの天幕に戻そうとしなかった。だからツェグナは来訪者の存在に気づけなかったのだ。
グムソム曰く、父から天幕を貰ったナヤンは、妻となる女とともに良い犬を選ぶつもりだったらしい。が、そろそろこの天幕用の犬を探すべきかもしれなかった。今まで不用心すぎたかもしれない。
「さっきからぼんやりしちゃって。あなたここに来てから色々あったから、疲れてるのよ」
「えっ、あっ、そ、そうですね……」
いかにも親しげに話しかけられたが、ツェグナは彼女の名前を知らない。顔に覚えはあるのだが。なので少女はとっさに、凝乳脂を専用の容器に移す作業に専念している振りをした。
もしも既に名乗られているのなら流石に申し訳ないので、尋ねるのも躊躇われる。一体どう対応すべきか。
「私はハフル。あなたとおしゃべりするのは初めてね、ツェグナさん」
ハフルの溌剌とした笑みに、少女は内心でほっと胸を撫でおろした。自分たちは初対面だったのだ。
「私、あなたに尋ねたいことがあって来たのよ」
「はあ。わたしに答えられることでしたら、なんなりと……」
入っていいとは言っていないのに、ハフルはさも当然とばかりに天幕に足を踏み入れ、女の側に座り込んだ。
脂肪分を分離させた乳はしばらく鍋ごと冷まし、木製の樽に注ぐ。そうして暇を見つけては、
この次は昨日の夕方に搾った乳の加工をしなければいけない。だから、鍋が冷めるまでには帰ってくれないだろうか。
いささか薄情な少女の心中を知ってか知らずか、ハフルはしばらく頬を赤らめたまま黙りこくっていた。
「……あの。あなた、ナヤンのことどう思ってる? グムソムとナヤンだったらどっちが好き?」
ようやく口を開いたら、この内容である。どうして初対面の彼女に、そこまで自分を曝け出さないといけないのだろう。正直腹が立ったのだが、ここで自分の心情を素直に表せるのなら、誰も苦労はしないのである。
ハフルはいつ嫁入りしてもおかしくない年頃のはずだ。しかし彼女がいなくなった後も、ツェグナは彼女の家族とは交流しなければならないのである。余計な波風を立ててはいけない。
そもそも、どうしてハフルの問いに答えられるだろうか。ツェグナ自身さえこの問題への直視を避けているのに。
「――ううん、やっぱりいいわ! じゃ、またね!」
少女がひたすら混乱する最中、いつの間にやら顔を真っ赤にした娘は、旋風となって去っていった。
今のは一体何だったんだろう。あと、次があるのか。
少女はただただ茫然と、すらりとした姿を見送った。
先ほどの様子から察するに、ハフルはナヤンに特別な好意があるのかもしれない。ナヤンほど容姿に優れていれば、そういった対象にもなるだろう。しかし、同じ部族間での婚姻は禁じられている。ツェグナがグムソムを好いていようがナヤンを好いていようが、ハフルには関係がないはずなのだが。
いや、ハフルがナヤンを好いていると感じたのは、ツェグナの気のせいかもしれない。ハフルはゲレルタヤの指金でツェグナの気持ちを確かめに来たのかも。……などと思案しつつ乳の加工に明け暮れていると、太陽が沈むのは一瞬だった。グムソムが戻ってくるのも。
「ただいまー。あ、兄さんの分は俺が持っていくよ。あの犬、ツェグナにまだ慣れてないもんな。それにあいつ結構狂暴だし」
草原の犬には多かれ少なかれ狼の血が入っているのだが、その中でも特に狂暴だとは。ナヤンの天幕で過ごした間、噛みつかれなかったのはとても幸運だった。あるいは、犬なりにツェグナの心情を慮ってくれたのだろうか。
まだ細いがしなやかな腕が、ツェグナが予め用意していた乳製品入りの桶を持ち上げる。少年を送り出すやいなや、少女ははたと思い至った。ハフルとナヤンの関係をグムソムに確認しなければならない。が、ナヤンに失礼がないよう話を切り出すには、どうすればよいだろうか。一歩間違えれば、失礼どころの話では済まなくなる。
結局少女は当たって砕ける道を選んだ。
「あの。今日実は、ハフルさんという人が訪ねてきたんですけれど」
すると戻ってきたばかりのグムソムは、あからさまに面を顰めた。
「え? あいつもしかして、まだ兄さんを諦めてなかったのかよ」
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