憤懣より Ⅱ

 テヌゲドの妻子はグムソムに付き添われ、天幕に戻っていった。

 故人の家族はいない方が、今後の対策のための協議を行いやすい。だから、ツェグナにとってもありがたい話である。ありがたいはずなのだが、表現しきれぬ靄が胸の中に巣食っているのも事実だった。

「……あの。テヌゲドさんが犯人だとしたら、魂だけになった以上は、今までよりも動きやすくなっているんじゃないでしょうか?」

 アムタグとフフリは犯人がその手で殺したとしても、これからもそうとは限らない。少女がぽつりと呟くと、周囲の者はぶるりと身を震わせた。巫者ならば目視できる霊も、ただ人にとっては風と大差ない存在である。見えぬ相手からどうやって我が身や家族を守ればいいのかと、慄いて当然だった。

「殺害法も、呪殺という手が採れるようになったから、むしろより厄介かもしれません」

 霊は生者の魂を抜き取ることもできるのだ。何も九年間彷徨わずとも、肉体から離れた魂が致命傷を負えば、肉体もまた同じ場所に傷を負う。そうして魂もろとも死んでしまうのだ。テヌゲドは今後は呪殺するために毒を飲んだんじゃないか、と囁く者がいるのも道理である。

「一体どうしたらいいだろうねえ。あたしはもう十分生きたから、いつ殺されたっていいよ。でも、息子や孫たちの身に何かがあったら……」

 どうにか落ち着きを取り戻した女は、しっかりとした肩を落とした。いや、ゲレルタヤだけでなく、老いも若きも皆、口々に不安を訴えている。幼児を連れた若い女は、我が子をひしと抱きしめた。邪霊の目から稚い命を隠すかのごとく。

「いっそ犯人がテヌゲドさんだって証拠が見つかるまで、毎日黒雲がごろごろ言ってくれたら助かるんだけどなあ」

 どこの誰だかツェグナにはまだ判別できない若い男が、ぼそりと呟いた。

 雷には霊を追い払う力がある。ごろごろというあの恐ろしい音を聞きつけるやいなや、悪魔も悪霊も物陰に隠れるか、その場から逃げ去ってしまうほどに。雷を恐れるのは邪悪な者たちだけでない。人間もまた一たび雷雨の襲来を受ければ、布団に包まって身を隠すのが常だった。

 雷の力は、雷そのものが去っても残り続ける。ために雷が落ちた場所は、白い動物を贄として捧げるまでは踏み荒らしてはならない聖域となるのだ。同様に稲妻に打たれた樹は強力な魔除けとなり、邪悪な存在はこの「雷の樹」が燃えている場所には接近できない。

 雷と同じく霊を追い払う力を有するものとしては、鷲木菟やその羽根が挙げられる。が、稲妻には効能が劣るのだ。もっとも鷲木菟の羽には、大抵の悪意をもって放たれた術を返す力もある。なので、鷲木菟の羽と稲妻とどちらが魔除けとして適しているかと問われれば、答えは前者なのだが。

 何はともあれ、このよくよく観察すれば家長の一人オゲネイに似ている気がする男の発言は理に適っている。しかしそれでは、家畜の世話も満足にできなくなってしまうのだが。

 そんなことはありえないとけど、雷を火打ち石のように持ち歩けたら……。

 腕を組んだ瞬間、少女の脳裏で一筋の光が閃いた。

「――雷の樹」

 突然の関係があるようなないような発言に、周囲の視線は一斉に少女に集中する。

「……いえ、あの。実はわたしの結納品に、雷の樹があるんです。コルドス氏の長が、わたしがここで上手くやっていけるように、嫁入り先の炉に挨拶する時に使えばいいって、特別にくださって。量も、丸々一本分はあります」

 本当は、叔父がツェグナの嫁入りの準備を満足にしてくれなかったので、憐れまれたというのが真相だった。だが、そのあたりの事情を詳らかにする必要は一切ない。

「それで、ですね。霊が活動する日暮れから夜明けまで、それぞれの天幕で雷の樹の薪を一日一本ぐらい燃やせばいいんじゃないかな、と……。霊は火も恐れますけれど、特に神聖な雷の樹の炎が燃え盛る、雷の樹の煙が沁みこんだ天幕には近寄れないはずですから」

 しどろもどろになってしまったが、我ながら良い案ではないか。少女は内心で自分自身を称賛せずにはいられなかった。

「――でも、あんたはそれでいいのかい? 折角の貴重な品なのに。そりゃあ、私たちにとってはありがたい話だし、コルドス氏にとってはなんてことない物かもしれないけどさ」

 大きな欠伸をした我が子を、女は慌てて抱き上げる。

「いいんです。炉の火への供物は、普通の樹の枝や乾酪でも問題ないですし、これ以上姉さんみたいに犠牲になる人を出したくないですから。ただ……」

「ただ?」

 ぱちりと目を開いた我が子には明るい笑顔を向けた女も、ツェグナには焦燥を隠さなかった。

「オゲネイさんとボソルさん、ダヤルギンさんにイェフチェさんへの見張りは続けませんか? ……まだ犯人がテヌゲドさんだと決まってはいませんし、テヌゲドさんの家族の心情を考えたら、決定的な証拠が出るまでは、そうするべきだと思うんです」

 これにはいまだ疑いを晴らせぬ家長や、その家族はあからさまに顔を顰めた。だが結局は、ツェグナの提案通りに対策を続行すると決まったのである。

「今回と同じことが繰り返されたら、お互いのためになりませんから、見張りはそれぞれ別の家の方がした方がいいでしょうね」

「そうだな。それがいいんじゃないか」

 弟への疑いは晴れたためなのか。ナヤンは妙に――と、言ってもツェグナは彼の人となりをほとんど把握していないが――明るい様子で同意した。とはいえ、この発言を不快に感じた者はちらほらと存在し、

「……トゥグナトの子のくせにでかい面しやがって」

 ダヤルギンの長男など、押し殺されているがツェグナにはしっかり届く声量で、ぼそりと吐き捨てたのである。大方、ツェグナが場を取り仕切ってしまったのが癇に障ったのだろう。このぐらいの雑言ではさほど傷つきはしないのだが。

「――てめえ!」

 しかし、丁度戻ってきたグムソムは、従兄の悪口を聞き流しはしなかった。

「今、何て言った? ――ふざけんじゃねえぞ」

 ツェグナとナヤンが止める間もなく、グムソムは従兄に殴りかかった。腕っぷしの方はさっぱりだと、昨夜ツェグナに漏らした少年が。

 家長とはいえまだ細い腕をした少年と、家長ではないがしっかりと筋肉がついた逞しい体躯の青年では、勝負にならなかった。

「もういい! もういいんだ、グムソム!」

「お前もいい加減にしねえか! グムソムは俺の兄貴の息子なんだぞ!」

 ナヤンは弟が投げ飛ばされたあたりで慌てて止めに入ったのだが、彼の秀麗な顔は真っ青になっていた。弟の盾となり、拳を二、三発浴びたのが悪かったのかもしれない。もっとも相手の方も激高した父親から一発殴られたのだが。

「……兄さん。ごめん」

 まだ本調子ではない兄に余計な負担をかけたのが、よほど堪えたのだろう。グムソムは昼食を摂るべく天幕に戻ってもなお、しょんぼりと項垂れていた。ちなみに、そろそろ一緒に食事をしようと誘ってみたのだが、ナヤンには断られてしまった。色々と独りで考えたいことがあるらしい。それに、番犬がいるから寂しくはないのだという。

 こんな状況下である。ツェグナもグムソムも、無理は言えなかった。だがそれはそれとして、そろそろ蓄えが尽きる頃だから、ナヤンの天幕にも乳製品を作って持っていかなければ。

「あの……。気持ちは嬉しいですけれど、わたし、あれぐらいの悪口は気にしませんよ?」 

「――え? あ、ああ、うん」

 グムソムもまた思案していたのか。少年の細い肩はびくりと震えた。ツェグナから話しかけられるなんて、全く考えていなかったみたいに。

「それに、わたしが出しゃばりすぎたのは事実ですし」

 新参者というのは得てして排除の対象となるものである。ましてツェグナはトゥグナト族だ。この事件が解決してもこの集団とともに暮らしていくのだから、もっと巧妙に立ち回るべきだった。

 ――そこのトゥグナト女はともかく、あんたたちはお父さんがどんなに家族思いで優しい人か知ってるでしょ!?

 テヌゲドの娘の涙に濡れた顔は、今なお眼裏に張り付いている。

 ツェグナはテヌゲドの家族を深く傷つけてしまった。姉やフフリ、あるいはテヌゲドをも殺害した犯人を追い詰め、罰を下したいという欲求を抑えられなかったのだ。

 テヌゲドの家族は少し前のツェグナよりももっと辛い立場に置かれているだろう。彼らには確かめたい事項があるのだが、とても合わせる顔がない。

「――というわけで、雷の樹をテヌゲドさんの家族に持っていくのはあなたに任せたいのですが」

「あ、うん。それは全然構わないけど」

「ついでに、昨晩から今朝発見されるまでの、テヌゲドさんを含む怪しい方たちの様子を伺ってほしいのです」

 グムソムが相談に加わっていない間に決まった事柄の仔細は、既に伝えている。なので話は滞りなく進んだ。

「ところで、テヌゲドさんの習慣は、チャルダラン氏ならば皆が知っていることなんですか?」

「そうだけど。でも、どうしてそんなこと気になるんだ?」

「……いえ。テヌゲドさんの習慣を知っている者なら、自分も早く起きて、テヌゲドさんが家畜の様子を確認しに行っているところを――という風に、犯行を行うのも十分可能かと思いまして。それもあって、怪しい方たちの様子を知りたかったんです」

 もし、テヌゲドの習慣を把握しているのが、家族や友人などの近しい者だけだったら。そして近しい者であり川の主が宣言した犯人候補である者が、一人しかいなかったら。その時点で、犯人はテヌゲドもしくはその誰かに絞れたのだが。今となっては意味のない仮定である。

「ふーん。ま、人間関係は俺に任せてくれよ。ぶっちゃけあんた、そういうの得意じゃないだろ?」

 グムソムもすっかり元気を取り戻したので、昼食後に早速テヌゲドの天幕目指して馬を走らせた。どこまでも青い空の下、天窓が閉まっている天幕が視界に飛び込んでくると、胸がつきんと疼く。

 ――テヌゲドさんが犯人だとしてもそうじゃなくても、家族が死を悼む気持ちはきっと変わらない。わたしがそうだったみたいに。

 哀悼の気持ちを妨げぬためにも、ツェグナは故人の天幕から少し離れた地点で、薄栗毛を撫でながらグムソムを待った。自分と共に来たと悟られたら、グムソムまで拒絶されるかもしれないから。 

「どうしたんですか?」

 ややして戻ってきたグムソムの、よく日に焼けた顔は、あからさまに曇っていた。目の端には煌めく粒が溜まってすらいる。

 番犬の唸りはともかく罵声は聞こえなかったが、拒否されてしまったのだろうか。グムソムの精神状態も心配になって問いかけると、少年は手の甲でごしごしと涙を拭った。

「いや、そんなことねえよ。むしろ、ありがとうって受け取ってくれた。あんたのことも、もう怒ってないって」

「……そうですか」

 ならばどうしてグムソムはそんなに暗い顔をしているのだろう。暗雲よろしく立ち込める疑問の答えは、すぐに明らかになった。

「テヌゲドさんの昨日から今朝にかけての行動自体は、普段と変わりなかったそうだ。だけど、ずっと俺を心配してたんだって。俺はそんな馬鹿をやらかすやつじゃないって信じてるって、ずっと言ってたらしくてさ」

 それは、非常に居たたまれないだろう。ツェグナはグムソムをなんと慰めればよいのか、見当もつかなかった。

「俺、父さんの子だからって、結構可愛がってもらってたんだけど、実はテヌゲドさんのことそんなに好きじゃなかったんだ。なのに……」

 ただ一つ、断言できることがある。災いを回避するのはもちろんだが、もう誰も悲しませないためにも、一刻も早く犯人を割り出さなければならない。とうとうその場に崩れ落ちた少年の耳元で決意を囁くと、帽子を乗せた頭はこくりと傾いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る