憤懣より Ⅰ
草原の夫は妻が床から出た後もしばらくは寝具の中にいるのが常である。しかしテヌゲドは、例外的に妻よりも早起きしていた。
グムソムの説明によると、テヌゲドの妻は体が弱く、あまり長く起きていられないらしい。故にテヌゲドは結婚してからしばらくは、通例ならば女が行うはずの水汲みさえ行っていたという。厳つい見た目からは想像しがたいが、彼は妻を溺愛していたのだろう。
幸いにも彼の妻は三人の子を無事に産み落とし、うち二人は娘だった。これまた幸いにも健康な娘たちは、物心つくと率先して家事をこなしていった。つまりテヌゲドが早起きする理由はとうに失われていたのだが、体に染みついた癖は抜けなかったのだろう。よってテヌゲドはいつも女と同じくらいの時刻に起床し、朝食を摂るより前に、家畜の無事を確かめに行くのを常にしていたのだ。
テヌゲドは今日も普段通りに天幕から出て行って、そして戻ってこなかった。家族はいつまでも戻らぬ家長の身を案じ、天幕の周囲を探し回った。そうして泡を吹いて倒れているテヌゲドを発見したのだという。これは、テヌゲドの天幕に向かう最中、いつの間にかどこかに行ってしまったナヤンの話だった。
ツェグナとグムソムが駆け付けた頃には、遺体の周りには人だかりができていた。
「あなた! ……そんな、嫌よ!」
「お父さん! 目を覚まして!」
故人の妻子はとうに冷たくなっているだろう亡骸に縋りついている。その姿はあまりに痛ましく、ツェグナは直視できなかった。
「……テヌゲドさん、父さんの友達だったんだ。それで俺も、随分可愛がってもらった」
グムソムもまた、遺体を確認するなり沈痛に目を伏せ唇を嚙み締めたが、涙を流しはしなかった。家族が泣くのを堪えているのだ。どんなに悲しくとも、グムソムが泣くわけにはいかないだろう。
「グムソム。ちょっとあっちに行きましょう」
ツェグナが俯いている少年を適当な場所に誘ったのは、彼や故人の家族の心情を慮ってではなかった。無論彼らには哀れみを覚えてはいるが、それ以上に気になる事柄があったのだ。
「……どうしてテヌゲドさんは一人で天幕から出て行ったんでしょう? 見張りは?」
ぼそぼそと耳元で呟くやいなや、少年はあ、と短く叫んだ。
「あんたたちも気づいたのかい? ――テヌゲドが一人でいる時間があったなんて、どうなってるんだろうねえ」
背後を振り返ると、覚えのない面立ちの初老の女が佇んでいた。
「ゲレルタヤさんだよ。コユのお袋さんなんだ」
今度はグムソムが、ひそやかな声で耳打ちする。
「……コユは今、孫たちの世話をしてるよ。まだ赤子の下の子はともかく、上の子は母親が急にいなくなったもんだから、ずっと泣いてる。フフリは死んだってことを、まだ理解できないんだ」
打ちひしがれた息子と孫たちの姿を見ていると、胸が締め付けられそうになる。だけど自分まで泣くわけにはいかないから外に出ていたと、女は語った。息子は今、悲しみのあまり錯乱しているだけだから、昨日の行いを許してほしいとも。
「……別に俺、あんなこと気にしてねえし。だから、おばさんもコユも気にする必要はないよ。コユにも言っといて」
少年がにこやかに微笑むと、ゲレルタヤはぎこちなくも頬を緩めた。昨晩の彼の様子を知るツェグナとしては、目を剝く想いである。グムソムは体はともかく、人間としての器は大きいのかもしれない。少なくともツェグナならば、激情に駆られるが故とはいえ自分を殺そうとした人間を、こんな風にさらりと許せはしないだろう。
「お嬢ちゃんは、昨日ちゃんとグムソムを見張ってたみたいだね。一目で分かるよ」
女は袖から除くグムソムの手首にちらと眼差しを投げかける。褐色の毛氈から突き出た部分には、紐の痕がくっきりと残っていた。
「これでグムソムは犯人じゃないってはっきりしたね。あたしはあんたが優しい子だって知ってたから、息子の手前違うんじゃないかって言い出せなかったんだけど、ほっとしたよ」
――他の連中はどうしてたか訊いてくるから、ちょっと待っといてくれ。
グムソムから涙を隠そうとしたのだろうか。息子と同じ色の瞳を熱く濡らした女は、急に顔を背けて歩んでいった。その白いものが目立つ髪は、背の半ばまでの長さしかない。彼女は恐らく、息子の結婚とほぼ前後して夫を喪ったのだろう。
ややしてゲレルタヤは戻ってきたのだが、他の家長たちを連れていた。その後ろにはナヤンまでいる。
「随分待たせちまったねえ」
彼女は声音こそ優しいものの、家長たちに向ける眼差しは氷柱よりも冷たく、狼の牙よりも鋭かった。一体何がゲレルタヤをここまで憤怒させているのだろう。
「ダヤルギンとイェフチェを捕まえた後、あたしたちと同じこと考えて、オゲネイとボソルと話してたナヤンを丁度見つけてね。それで、みんなを連れてきたってわけさ」
ナヤンが途中から消えたのは、そういう理由だったのだ。ナヤンは恐らく、テヌゲドの死を知ってからずっと、彼がなぜ一人でいたのか疑念を抱いていたのだろう。だから他の家長たちの様子を確かめに行ったのだ。
それにしてもナヤンはなぜ、叔父であるダヤルギンの元に最初に行かなかったのだろう。気になるが、単なる偶然かもしれない。オゲネイとボソルの兄弟が一緒にいるところを見つけたら、そちらを優先して当然だろう。
「……それにしても、あんたたちにはがっかりだよ。自分は絶対に犯人じゃないからって言いくるめて、普段通りにしてたなんてさ。グムソムはちゃんとみんなで決めた通りにしてたってのに。ま、あんたらの普段の振る舞いを考えれば、驚くようなことでもないけどさ」
女はふうと、重苦しい溜息を吐き出した。こんな非常事態でいい年した大人たちが、皆の総意を蔑ろにし、自分の我儘を貫き通したのだ。溜息の一つや二つ出てきて当然だろう。
見張り役を各々の家族から選んだのも、家長たちの独断を許してしまった原因かもしれない。家長である夫もしくは父が自分は違うと言い張ったら、妻もしくは子は信じてしまうものだ。更にお前は俺を疑っているのかと怒鳴られでもしたら、監視をやめるしかない。テヌゲドが一人でいた経緯も、このようなものだろう。
「あんたたちは身内が誰も死んでないから、心のどっかで他人事だと思ってるんだろうね」
「……そこまで言うこたあねえじぇねえか。俺たちは、ただ……」
「――お黙り! あんたたちの甘い考えは全部行動に出てるんだよ!」
家長たちでは最年長であるにも関わらず、拗ねたように唇を噛み締めていたオゲネイの反論を、女はぴしゃりと遮った。異変を嗅ぎ取った者たちは、次々に項垂れる家長たちを取り囲む。
「でもあたしは、嫁の仇を討たなきゃならないんだ! この嬢ちゃんやグムソムだってそう。あんたたちとは懸けてるものが違うんだよ!」
怒れる女の絶叫は雷となって大気を引き裂き、周囲に響き渡った。家長たちはびくりと肩を震わせる。
「というかもしかして、あんたたち全員グルなんじゃないのかい? 実際に手を下したのは一人でも、計画は四人で立てたのかもしれない。……何を目的としてるかなんて、あたしには察しもつかないけどさ」
ふうふうと荒い息を吐くゲレルタヤにとっては、潔白を証明できない家長たちは、嫁殺しの犯人でしかないのだろう。
「――やめてください、ゲレルタヤさん」
少女は慌てて、今にも殴りかかっていきそうな女の腰にしがみ付く。しかし、まるで意味をなさなかった。
「みんなで定めた決まりを守らなかったのは、確かにいけないことです。でも、テヌゲドさんが犯人かもしれないじゃないですか!」
興奮した女を落ち着かせるためにも、少女は声の限りを絞り出す。すると猛牛さながらに荒れ狂っていた女は、ぴたりと動きを止めた。
「……どういうことだ? だって、テヌゲドさんは殺され……」
目前で巻き起こった争いに圧倒されていたのだろう。ひたすら押し黙っていたナヤンが、涼やかな目を瞠った。
「確かにそうですけれど、亡骸が発見されたからといって、それが他殺であるとは限らないじゃないですか。今までの事件の犯人はテヌゲドさんで、最後に毒を飲んで自殺した。そういう可能性もあると思います。それに……」
大声で長く喋るのには慣れていないので、疲れてしまう。少女は息を整えるべくしばし深呼吸を繰り返したが、その間口挟む者はなかった。
攪拌すれば乳酪のごとく固まり、熱すれば脂のごとく溶ける原初の乳海。大いなる者の命を受けその底に潜り、三度の挑戦の果てに大地の材料となった泥を咥えて戻ってきた潜鳥。その勇気と献身を称えるべく、大いなる者が草原の民の祖に与えた、潜鳥と同じ色合いの双眸で、皆じっとツェグナを凝視している。
「……あの、一つ質問していいですか? フフリさんが亡くなっていたあの時、不審な痕跡がないかテヌゲドさんが確かめに行ったのは、自ら望んでだったんですか? 誰かに言われたから、とかではなくて」
しまった。これは先に尋ねるべきだった。でないと話が分かりにくくなってしまうし、違ったとしたら仮定は成り立たなくなる。
少女の背には冷たい汗が流れたが、
「そうだよ。な、みんな?」
ツェグナの内心を察したのか、グムソムが颯爽と助けてくれたので、事なきを得た。
「やっぱり、そうだったんですね。……それじゃあ話を戻しますけれど、どうしてテヌゲドさんはあの時、率先して確かめに行ったんでしょうか? もちろん、それ自体は決して悪いことでも、怪しいことでもありません。でも……」
感謝の気持ちは口角の緩みとなって表れた。グムソムもまた気づいてくれたのだろう。にこりと笑みを返してくれたのがとても嬉しかったし、勇気づけられた。
「テヌゲドさんが犯人で、フフリさん殺害の証拠を隠滅するためだったとしたら。そしたら、これまでに起こった事件を矛盾なく説明できる気がするんです。テヌゲドさんは早起きだったそうですから、姉さんが殺されただろう時間も、とっくに床から出ていたんじゃないでしょうか?」
全ての推理を詳らかにした少女が一歩下がると同時に、聴衆はどよめきに包まれる。
「……確かに。それにテヌゲドさんは酷いトゥグナト嫌いだったしな」
「アムタグさんを殺す瞬間をフフリさんに見られていて、それに気付いて口封じに――なんてことがあったとしても、不思議じゃないな」
「だとしても、なんて惨い……」
四人の家長たちの家族は、次々にツェグナの意見に賛同してくれた。もっともその裏には、自分たちの失態を抹消し、家長を救おうという思惑もあるのだろうが。
「……あの。でも、これはあくまでただの推測です。オゲネイさんにボソルさん、ダヤルギンさんにイェフチェさんが犯人という可能性も、まだ十分に……」
少女の控え目な囁きは、熱狂に呑み込まれる。
「――さっきから黙って聞いてたら何よ。あたしのお父さんを人殺し呼ばわりして!」
いつからそこにいたのだろう。頬どころか胸元までぐしょぐしょに濡らした少女が、輪の外で拳を震わせていた。
「そこのトゥグナト女はともかく、あんたたちはお父さんがどんなに家族思いで優しい人か知ってるでしょ!? ねえ!? 何か言ってよ! ――どうしてみんなお父さんを信じてくれないのよ!」
彼女は姉を喪った直後の自分だ。けれど、彼女を追い詰めてしまったツェグナには、慰める権利などありはしない。慰めに行ったとしても、彼女の心に余計な負担をかけるだけだ。
これ以上己の浅慮が生み出した光景に向き合っていたくなくて、少女はそっと面を伏せる。視界の端では、地面に崩れ落ちて泣き叫ぶ娘に、少年が駆け寄っていた。
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