憂慮より Ⅱ

 ナヤンはまだ本調子ではないため、今晩も独りで休みたいのだという。そのためツェグナは、グムソムと二人きりで一晩過ごすこととなった。

 家長だけが着席を許された入口の真正面ではなく、男の側で。これまた家長ならば許される胡坐ではなく、通常の片膝を立てる座り方をしている少年の両手は、後ろで縛られている。

 睡眠中は犯人候補の手を拘束する。これは皆で決めた対策なのだが、今グムソムが拘束されている理由ではなかった。二人きりになったらグムソムがツェグナに危害を加えるかも、と紐を差し出してきた者がいたのである。ツェグナは断ったものの、グムソムは紐を受け取ったのだ。

「何か食べたい物があるなら言ってください。口まで運んであげますから」

 ひたすらに俯き黙りこくっている少年に声をかけると、腫れあがった顔はやっと上がった。

「……あんた」

 酷い顔だな、と思わず目を瞠ってしまったが、ツェグナとて似たようなものだろう。

「あんた、どうして俺に普通に話しかけられるんだ? 疑ってないのかよ?」

 殴られた頬が痛むのか。しっかりとした眉は顰められているが、濃い緋の双眸は真っ直ぐにツェグナに向けられていた。

「あんた、さっきあそこにいて、コユが言ったこと聞いただろ? アムタグさんと俺は仲が悪かったって。なのに……」

 ツェグナは未だ、この天幕の炉に触れられない。またグムソムも両手を封じられているから、天幕の中は薄暗かった。しかし濃緋の双眸が濡れているのはあからさまで。

 グムソムは、何に対して涙しているのだろう。公衆の面前で糾弾された屈辱か。兄以外の誰も庇ってくれなかった悲しみか。あるいは、されるがままだった自分の無力さか。不仲ゆえに義母を殺害したのでは、と疑われてしまった現状にか。――おそらくは、その全てだろう。

 ツェグナには彼の心情の全ては理解できない。所詮、顔を知って五日も経っていない間柄なのだ。しかし、彼の憂いをたった一つだけ晴すことはできる。

「だって、ありえないんですもの」

「――は? 何が?」

「何がって、この状況ではただ一つしかありえないでしょう? あなたは姉さんやフフリさんを殺した犯人ではないということです」

 少年と向かい合った少女は、ふ、と溜息を漏らした。なお、ついでに馬乳酒を差し出したのだが、ぽかんと口を開いた少年には一顧だにされなかった。いい加減に喉が渇いているし腹も減っているだろうと、気を利かせたつもりなのだが。

「わたしはアフズ氏族で過ごした晩に、あなたは絶対に犯人ではないと気づきました。わたしの考えが正しければ、姉さんとあなたがどんな間柄だったかに関わらず、あなたが犯人であるはずがないんです」

 致し方なく生前の姉が醸した馬乳酒を一息に干し終えると、少年の顔が間近に迫っていた。

「――どうしてそんな風に言えるんだ!? 俺が生まれた頃から知ってるみんなは俺を疑ったのに、どうしてあんたが……!?」

 互いの息がかかるほど近くにある面には怒気すら滲んでいた。腕が戒められていなかったら、グムソムはツェグナの服の襟を掴んでいたかもしれない。

「あんたもしかしたら、俺があんまり惨めだから、同情してんのか!? ――んな下手な慰めはよしてくれよ!」

「ええ……。一つ言っときますけど、わたしはそんな善人じゃないですよ? 姉さんたちを殺したやつは、見つけ次第縊り殺してやりたいですし」

 ツェグナがあくまで無表情を貫いたためか。激高して声を荒げていたグムソムも、次第に落ち着いていった。

「わたしはあなたが犯人じゃないという絶対の確信があるから、こうして呑気に二人きりでいられるんです」

 もう一度馬乳酒を進めると、少年も今度はおとなしく干した。やはり空腹だったのだろう。グムソムはツェグナが見つけ出した凝乳脂ウルムも欲しがったので、匙で食べさせてやった。

 凝乳脂は美味しいけれど食べすぎると胃がもたれる。なのでツェグナは凝乳ヨーグルトと半々にした。日持ちがしない凝乳脂はすっかり酸っぱくなっていたけれど、とても美味しかった。

 姉が生きていた証も、こうして消費すると減ってしまう。これからは犯人を捜しつつ、普段の仕事もきちんとこなさなければ。

 少女は姉の味を噛み締めつつ、最後の一口を頬張る。

「……でもあんた、どうして俺は犯人じゃないって断言できるんだ?」

 頭から湯気が出そうなぐらいだったグムソムの顔色も、すっかり元通りになっていた。コユの拳がめり込んだ部分を除いては、であるが。

「だってあなた、初めて会った時に言ってたじゃないですか。あなたじゃ川に沈んでた姉さんを引き上げられなかった、て」

「そういや、そうだな……。あんまり色々ありすぎたから、正直一言一句は覚えちゃいねえんだけど」

 量も長さもごく普通だが、黒々とした睫毛に囲まれた瞳は、早く次をと促している。

「発見された時のフフリさんの様子から察するに、フフリさんも亡くなった後、一度川に沈められたはずです。目的は察することもできませんし、ついでにどうやってあの場で溺死させたかもさっぱりですが」

「そりゃ、そうだろうな」

「……あなた、姉さんより体格が良かったフフリさんのご遺体を大きいオボー近くから川まで、川からオボーまで運べますか? ――絶対に無理でしょう? それに、あなたではフフリさんに力で敵いませんよね?」

 グムソムは物理的に、フフリの遺体の発見時の状況を作れない。よって彼は犯人ではない。それが、ツェグナが導いた答えだった。

 女にしては著しく大柄だったフフリ。その彼女を水浸しにするとしたら、犯人は彼女の体を、殺害現場からノルホン川まで運ぶ必要がある。フフリの体がすっぽり収まる桶でもあれば、話は別だ。だが、そんなものは少なくともこの夏営地には存在しないだろう。

 いずれにせよ、力においては老婆と引き分けになる程度のグムソムである。馬に乗せて運ぶという手もありはするが、彼ではフフリの体を持ち上げることすらままならないだろう。だってグムソムはフフリよりも身長が低くて体も細いのだから。

 万が一、グムソムがフフリを川に沈めるまでは実行できたとする。それでも衣服に沁みこんだ水の重みを計算に入れると、引き上げるのは不可能だろう。

 そもそも手段はともかく、フフリは溺死させられる際に足掻いたはずだ。まさしく死に物狂いのフフリの抵抗を、グムソムが抑え込めたはずはない。だからグムソムはフフリを絶対に殺していない。よってどんな軋轢があったとしても、グムソムはアムタグ殺しの犯人にもなりえない。

 諸々の事実を考慮すると、アムタグとフフリを殺害したのはある程度の力と体格に恵まれた男であるはずだ。まさしく残りの五人の家長たちのように。だが依然として、フフリを殺害した手段もだが、犯人がフフリの居場所を突き止めた方法も、謎に包まれている。

「わたしがあなたは犯人ではないと考えたのは、こういう次第です」

 ツェグナが推理を詳らかにすると、少年はほうと息を吐いた。

「あの時はちょっと……いえかなりコユさんが怖かったので言い出せなかったのですが、明日皆さんにお伝えしましょう。きっと、分かってくださいますよ」

 彼を元気づけようと紡いだ励ましは、しかし既に必要なかったらしい。

「――あんた、凄いんだな!」

 腕を縛られているというのに、グムソムは体を跳ねさせて感嘆の念を露わにした。ために少年は均衡を崩し、前のめりに倒れたのである。ツェグナがグムソムの肩を掴んで支えたのは、彼が額を打ち付ける寸前だった。

「……悪い。ありがとう」

「別に、そんな、」

 ふわりとした笑みは、胸の奥をむずがゆく刺激する。

「ただ、あなたが実は呪力を持っていて、フフリさんを手にかけた時には力持ちの霊を憑依させていたんじゃ――なんて追及されたら、反論できないのですが」

 ツェグナは自分の推理に自信があるが、ほんのわずかな懸念もないわけではない。

 巫者は大抵、成年に達するまでに病や発作という形で霊の召命を受ける。意思に関わらず選ばれた者たちの苦痛は、宿命を受け入れ、太鼓を握るまで治まらない。この並大抵ではないという苦しみを隠し通せる者などいやしないだろう。が、万が一の場合もありえはする。

「安心してくれ。俺にも俺の家系にもそんな力はないのは、皆知ってるから。第一、それじゃあがやったことにはならないんじゃないか? 肉体は俺でも、中に入ってる魂が違ったら、それは俺じゃないんだから」

 しかし少年は、ツェグナの不安を明るく笑い飛ばしてくれた。

「でもどうして川の主さまはあの時、”天幕の中にいる九人”なんて言い方したんだろうな? 老巫者さまとお弟子さんとあんたは最初っから物の数に入らないんだから、”チャルダラン氏六人”とかでも良かったのに」

 次の瞬間には、グムソムは眉を寄せて考え込んでいた。ころころと変わる表情もやはりツェグナを落ち着かなくさせる。

「……あ、それはわたしも気になってました」

 それからしばらく少女と少年は知恵を絞りあったのだが、人非ざる者の思考を理解するには至らなかった。川の主はやはり偉大な存在なのだ。

 成果といえば、ツェグナがグムソムと打ち解けられたと確信できたことぐらいだろう。だからこそツェグナは、思い切って少年に問いかけたのだが。

「それにしてもあなた、どうして姉さんを嫌っていたんですか?」 

 この天幕の奇妙な空白を目の当たりにして以来、薄々察していたからこそ、ツェグナは不思議でならなかった。姉は継子虐めを行う類の、性根が歪んだ人間ではない。グムソムにも我が子同然に接しただろうに、なぜ。

「……嫌いってほどじゃない。ただ、苦手だったんだ」

 震える声でなされた告白は自嘲でもあった。少女は黙して悲痛な囁きに耳を傾ける。

「あんたも気づいてるだろうけど、俺、弱虫なんだ。相撲でも馬術でも、勝てたことない。唯一弓だけはそこそこだけど、俺より上手い人なんて沢山いるし。……父さんはダルキル族一の勇士だったのに、似てるのは顔だけなんだ」

 両手が自由だったら、少年は抱えた膝に顔を埋めていただろう。

 ――兄さんと俺が逆だったらって、いつも考えてた。

 懊悩を吐き出した少年の体の線は、頼りないほど細かった。

「アムタグさんはそんな俺にいつもいつも、炉の主なんだからしっかりしなさい、父さんみたいに強い男になれるよう努力しなさいって、言ってきてさあ」

「姉さんは真面目な人でしたから。それに、あなたを心配してもいたのでしょう」

「それは分かってた。俺が悪いってことも。でも、そんな風に言われ続けるのは、結構きつかったんだ。……ただの逆恨みなんだけどな。でも、それで結構酷い言葉もぶつけちまった。母親面するな、とか」

 濡れた少年の瞳からは、とうとう涙が一筋流れた。

「父さんが死んでからはあの人も、色々参ってたんだろうな。最近ぱったりガミガミ言われなくなってたんだ。兄さんも驚いてたよ。それで俺も、これからは上手くやっていけるかもしれない、なんて思ってたのに……」

 ――俺、結局アムタグさんに一言も謝れなかったんだ。

 少女はただ黙って、しゃくり上げる少年の背を撫でた。

 アムタグはグムソムの発言によって、傷つきはしたかもしれない。でもグムソムを恨んではいないだろう。そう伝えたいのに、彼にかけるべき言葉を、ツェグナでは探し出せなかった。だから、せめて。

「なあ。俺にアムタグさんたちを殺した犯人を見つける手伝いをさせてくれないか?」

 いったいどれほど肩を寄せ合っていたのか。鼻を摘ままれても分からないほど暗くなった天幕の中。重くなった目蓋をどうにか持ち上げていると、唐突に話しかけられた。

「亡くなった後に罪滅ぼししても意味はないかもしれない。だけど俺も、アムタグさんのために何かしたいんだ。それにあんたに対しても、アムタグさんを信じてやれなくて、悪いことしたから。役には立たないかもしれないけど、少しでも力になりたい」

 暗闇に目を覆われていても、少年の笑みの心強さは、気配から伝わってきた。

「……わたしも、味方ができるのは、心強いです」

 そうして少女と少年は、寄り添って眠りに落ちた。

 翌朝。ほぼ同時に目覚めた少年と少女は、互いの腫れた目を確認して微笑みあう。ツェグナがグムソムの手の縛めを解き、馬乳酒を器に継いでいると、外から馬の嘶きと慌ただしい足音が轟いて――

「大変なことが起きたんだ。……テヌゲドさんが殺されていた」

 そうしてナヤンが、血相を変えて飛び込んできたのである。

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