憂慮より Ⅰ

 一行が氏族の夏営地に戻ってきたのは夕刻だった。殺されたフフリの夫はざんばら髪を揺らしつつ、未だ下馬してすらいない七名ににじり寄る。馬繋ぎ場はそれぞれの天幕の近くに設けられるものである。だからまずはこのまま各々の天幕に向かいたいところだ。が、コユはこちらの行く手を阻むかのごとく立ちはだかっている。ツェグナには彼を無視して横を通り抜けるなど、できそうになかった。

「……それで、どうなったんだ?」

 絞り出された声は酷く掠れていて、聞き取るのもやっとだった。服も大層くたびれている。

 この人はもしかして、ずっとここでわたしたちを待ってたんじゃないか。

 少女に冷や汗を流させた危うい何かが、目の前の男からは発散されていた。しかし、薄栗毛の背から降りたツェグナはともかく、馬上の男たちは微動だにしない。それはそうだろう。川の主から、自分たちの中にアムタグとフフリを殺した犯人がいると宣言されたなど、どうして目の前の男に告げられるだろうか。

 あの時、川の主は九人の中に犯人がいると述べた。しかし、確実に犯人から除外できる者もいる。まずは老巫者とその弟子だ。

 巫者たちは術を使うなり魂を飛ばすなりすれば、この世の誰よりも容易に姉とフフリを殺せただろう。彼らは巫儀によって魂の旅をすることもできるのだから。しかし川の主は、呪殺もしくは魂による殺人を否定していた。つまり、二人が死亡した時間帯にアフズ氏の夏営地にいた彼らには、犯行不可能なのである。

 同じ理由で、ツェグナも犯人から除外できる。フフリ殺害の時はともかく、ツェグナはアムタグの亡骸が発見された後に、この夏営地に到着したのだから。

 一連の殺人が同一犯によって行われたと断言されている以上、ツェグナはフフリ殺しの犯人にもなりえない。つまり犯人は、老巫者の元に訪れた家長たちの誰かなのだ。だから家長たちは、ひたすら黙りこくっているのだろう。

「……どうしてさっきから何も言ってくれないんだい?」

「川の主さまは、そんなにもお怒りだったの?」

 しかし男たちは戸惑っている間に、一行の帰還を察知し集まってきた人々に囲まれてしまった。だから事情を説明しないわけにはいかない。

 ――ここで声を上げなかったら。今度こそ勇気を出さなかったら、姉さんを殺した犯人を特定するなんてできっこない。

「あの! それについてはわたしが説明します!」

 白くなるほどに拳を握りしめ、少女は声を張り上げる。

「……だから皆さん、その間にどこか近くの馬繋ぎ場に馬を停めてきてください」

 途端、馬上の男たちは我に返った。めいめい天幕を目指す馬たちは、主の心情を知ってか知らずかのんびりと歩んでいた。

 一方いくつもの目に囲まれたツェグナは、しばらくは腿あたりの服の生地を握っていた。豊かでも貧相でもない胸の奥では、破れそうなぐらいに心臓が脈打っている。ツェグナを囲む者のうち幾人かは、早く喋れと苛立っているだろう。言葉にされずとも、目を見ればだいたい分かった。けれども皆、急かしたりせず、ツェグナを待ってくれた。だから少女は、どうにか薄い唇を開けたのである。


 川の主の言葉は、驚愕と恐怖を聴衆にもたらした。

「……じゃあ、あれかい? オゲネイかボソルかテヌゲドか、ダヤルギンかグムソムか……もしかしたらうちの人が、犯人かもしれないのかい?」

 戦慄く手で口を押えた女はイェフチェの妻に違いない。この夏営地の者は皆、ツェグナとコユ一家を除いては、犯人かもしれない人物の家族なのである。そもそもこの氏族そのものが、遡ると二、三世代前に共通の父祖を持つ者たちの集まりなのだ。故に、動揺は大きかった。

「そんな……。あたしの息子が、そんな恐ろしい真似をするもんか! オゲネイもボソルも、信心深い子なんだよ!」

 血相を変えた老婆が、少女の細い肩に掴みかかる。ツェグナは老婆の叫びによってはじめて、オゲネイとボソルは兄弟なのだと気づいた。

「……お前、さては嘘を吐いてるね!? そうなんだろう!?」

 どこからこんな力が出ているのだろう。絶叫する老婆は、確かに足腰はしっかりしているし、動きも矍鑠かくしゃくとしている。とはいえ若者の肩の骨を軋ませるほどの腕力を、筋張った四肢のどこに隠していたのか。

 少女が痛みに耐えかねたまさにその時。頬に打ち付けられた手は皺が寄り、乾燥していた。

「――本当のことをお言い! 早く!」

 錯乱した老婆は、自分が何をしているのかすら、もはや理解していなかった。無我夢中で少女に振り下ろした拳が、真っ赤に腫れ上がっていることすらも。

 あと一、二回ツェグナを叩いたら、老婆の皮膚は裂け、血が滴るのではないだろうか。老婆の痛ましい様子が耐えられず、少女は反射的に目を瞑った。

「……おばさん!」

 まだ高く澄んだ少年の声が、艶やかな髪に隠れた耳朶を打つ。

「これ以上こんなに暴れてたら、血が出るだろ? ……神聖な大地を血で汚すと、おばさんが精霊に怒られるじゃないか!」

 目蓋を開くと、グムソムが老婆にしがみ付いていた。しかし哀しいかな、まだ声変わりすらしていない、少女とさして変わらぬ体格の彼では、力ではこの老婆の動きを封じられない。

「それに、ツェグナが言ったことは全部本当なんだ。……でもだからって、オゲネイさんたちのどっちかが犯人だって、決まったわけじゃないだろ? だからおばさんも、」

「――そういうお前はどうなんだ?」

 少年の説得を遮った声はひび割れていて、氷よりも冷ややかだった。

 草原の民は概ね赤い目を持っているが、その濃さには無論個人差がある。中でもコユの虹彩は朱色を帯びた、まさしく焔のごとき紅なのだが、この時の彼の双眸は燃え盛っていた。憎悪によって。

「お前、アムタグさんと仲悪かったよな」

 つかつかと少年に歩み寄る彼は、もはや先ほどまでの妻の死に打ちひしがれていた男ではなかった。

「……は? 確かにそうだけど、それが、」

「しらばっくれんな! 皆知ってんだよ! いつもガミガミ言われるから、アムタグさんとはできる限り一緒にいたくない、ってお前がぼやいてたのは!」

 ――ああ。それで姉さんが暮らしてた天幕の男の側には物がなかったんだ。

 頬やその他の部位の熱も忘れ、少女は男と少年の諍いを注視する。いつの間にやらグムソムの腕の中からいなくなっていた老婆も、その他の人物も、息を潜めて事の成り行きを見守っていた。

「親父さんが死んだ後すぐ、自分の天幕から出て行って兄貴のとこに引っ込んだぐらいだもんな。よっぽど嫌いだったんだろうな!」

 甲に筋の浮いた拳が少年の左の頬に打ち付けられると、噛み締められた唇から紅い珠が零れた。

「親父さんが死んだ頃、ナヤンには既にツェグナさんとの結婚の話が出ていた。だから、お前がアムタグさんを娶らなくちゃならなくなった。お前、嫌いな女を妻にするのが嫌で、それぐらいならいっそ、って殺したんだろ!?」

「――な。そんな、わけ……」

「後ろからこっそり近づいて川に突き落とすぐらい、ちびで弱虫のお前にだって、簡単にできただろうな」

 老婆さえ押さえきれなかった少年が、成人した男に抗えるはずはない。激高したコユの拳は、今度は少年の鳩尾を抉ったのだが、止めに入る者はなかった。

「……そ、そんな馬鹿なことがあるか! だいたいそうだとしても、どうしてフフリさんまで殺さなくちゃならないんだ! それにそもそも俺は、フフリさんがあそこで待ち合わせしてるって知らなかったんだぞ!?」

「んなこと分かんねえよ! でも、一番怪しいのはお前なんだ! ――だいたいお前、だったらフフリが死んだ頃、何してたんだよ。言ってみろよ」

「それは……」

 フフリが死んだ頃といえば、グムソムは丁度ツェグナと入れ違いに、姉の天幕、もしくはナヤンの天幕に戻っていたのだろう。家長たちが話し合った晩、グムソムだけは叔父ダヤルギンの天幕に泊まったそうだから。アフズ氏族の夏営地に向かう道中、彼があの時間帯に何をしていたか、ぽつぽつと呟いていた記憶がある。しかし、それを裏付けられる者はこの場にはいない。だから誰もコユを止められない。

 フフリの居場所を把握していなければ彼女を殺せない、という指摘はもっともである。ただし、グムソムがフフリとツェグナの約束を知らなかった、といくら主張したとて、皆の耳には虚しく響くばかりだろう。

「……今にして思えば、アムタグさんはトゥグナト族とは思えないぐらいできた人だった。親切で、働き者で。少なくともお前よりはずっと立派な人だった。だからここには、トゥグナトだからってあの人を殺そうとするやつはいねえんだよ」

 節くれだった指が、喉頭の隆起がない首に絡む。その瞬間、遠くから悲鳴が聞こえた。

「――やめてくれ!」

 ふらつきながらも黒鹿毛から飛び降りたナヤンは、血相を変えてコユを突き飛ばした。天幕の中からでも、外部の音は結構聞こえるものである。それにこの騒ぎだ。まだ魂が戻っていないのか、あるいは戻っていたとしても念のため体を休めていたナヤンでも、だいたいの事情は把握できただろう。

「……血が出ている。でも、大地には垂れてないからな」

 弟を抱きしめた青年は、弟の顔を汚す液体を自らの袖で拭う。その手つきの優しさは母親にも比せられた。

「もう大丈夫だ。お前は俺が守ってやるからな」

「……うん」

 グムソムもまた、赤子のごとく兄に身を委ねている。兄弟の実母はグムソムが十歳の時に病に倒れたという。母亡き後は、ナヤンがグムソムの母親代わりだったのかもしれない。

「……川の主様は、犯人を見つけろと命ぜられたんだろう? グムソムはまだ可能性があるってだけなんだから、こういう風に決めつけてもいいことは一つもない」

 弟の細い体を抱きしめる青年が、ぽつりと呟いた。確かに、ナヤンの言う通りである。

「コユ。お前の気持ちは分からんでもないし、確かにグムソムは怪しいけど、あれじゃあやりすぎだ」

「そうだよ。みんなで協力して、犯人を見つけないといけないのに」

 グムソムが糾弾されていた最中は、親の仇に向ける目を少年に向けていた面々も、落ち着きを取り戻したらしい。そうして皆で話し合っていると、自然とある決まりが出来上がった。これから事件が解決するまでは、六人の怪しい者たちには見張りを付け、一人きりになる時間がないようにする、と。こうすれば、少なくとも新たな犠牲者は出ないだろうから。  

 そうしてツェグナは、グムソムの監視役に決まった。望んだわけでは全くないが、ツェグナならばグムソムに情けはかけないだろうと、押し付けられたのである。

「でも、他の方たちの見張りは家族がするのに、いいんですか?」

 騒動が静まった後でこっそりと尋ねると、ナヤンは寂しげな微笑を浮かべた。俺がグムソムを見張っていたと言っても、誰も信用しないだろう。だからよろしく頼む、と。

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