悲憤より Ⅱ

「愚かなる者たちよ。そなたらがノルホン川の主と呼ぶ我は憤っておる」

 ただ人は人ならざる者と意思を通わせす術を持たない。ために老巫者の弟子は川の主の言葉を訳して復唱したのだろう。こちらをねめつけ、あるいは睥睨している川の主からは、足元にひれ伏したくなるほどの怒気が発せられている。

 太鼓の音色はいつの間にか止んでいた。片面張りの皮の太鼓は、巫者が異界へ赴く際の馬である。巫者が振るう撥は鞭なのだ。その音が止んだのだから、老巫者は無事に第九天に辿り着けたのだろう。

「長くそなたらの地を守り、そなたらの祖を慈しんできた我に対し、よくもまああのような非礼を働けたものだな」

 老人の肉体に入っているというのに、川の主の身のこなしの軽さと言ったら、まるで青年だった。しかもなおかつ気品に満ち溢れている。

 巫者が他界への飛翔を行っている間、その肉体に別の魂が憑依すれば、肉体は入った魂そのものになる。若者の霊に憑かれれば、満足な歩行すらままならなかった身であっても、軽やかに舞う。また火を恐れぬ霊が入れば、真っ赤に焼けた炭火を握ったとしても、火傷一つ負わなくなるのだ。

 ――一体あなたたちは何をやって、こんなにも川の主さまの怒りを買ったのです?

 老巫者の弟子は呆れと恐れが入り混じった目で、チャルダラン氏からの客人たちを問い質す。

「……それは、姉にでしょうか? 姉があなたさまの領域を汚したために、お怒りなのですか?」

 とうとう膝から崩れ落ちた少女は、それでも勇気と声を絞り出し、大いなる存在に問いかけた。

 川の主の言葉をこちらが解すことはできずとも、彼はただ人の言葉を理解できるのだろう。川の主は憤怒を宿し燃える目をそっと伏せた。その面には暗い影が落ちている。

「否。我はそなたの姉がなぜ死なねばならなかったのか存じておる。そして、そなたの姉を憐れんでおる」

 川の主は姉に対して立腹しているのではなく、むしろ同情している。その事実が仄めかす真実に至った瞬間、少女の内では暴風が巻き起こった。幽かな喜びと安堵を、憎悪が吹き飛ばしてゆく。

「では、姉は事故でもないのですか? 誰かに川に突き落とされ、殺されたのですか?」

 恐る恐る吐き出したのは、フフリの死に直面してからずっと、頭の片隅にあった可能性だった。アムタグもまたフフリと同じ誰か――それが冥府の主の従者か悪霊か、はたまた頭がおかしい人間かは不明だが――に殺されたのではないか。だとすれば、疫病が流行っているいるわけでもないのに、短期間で人死が連続したのも不思議ではない。

「左様」

 もはや完全にツェグナを注視している川の主が身じろぎすると、無数の鈴がしゃらしゃらと擦れあった。

「ついでに、フフリと申す女は確かにあの場所で水によって死したものの、我の仕業ではない。そこな娘の姉と同じ者の手にかけられたのだ。術を使うのでもなく、確かにその者の肉の手によって」

 川の主はいつの間にか、老巫者の弟子が通訳を終えるよりも前に、チャルダラン氏の家長たちに詰め寄っていた。

「だというにそなたらは、フフリと申す女を害したは我だと決めつけ、我が名を汚しおった!」

 つまり川の主は、自分の名誉が損なわれたと激高しているのである。

 自分たちの早合点の結果に恐れ入ったのだろう。チャルダラン氏の家長たちは、ほぼ同時に川の主の足元に平服した。ツェグナも慌てて彼らに倣う。

「……この度の非礼、申し開きの言葉もございませぬ」

 家長たちで最も年嵩であるオゲネイの背の震えようは、魂が抜けだしたのかと問い質したくなるほどだった。もっともこんな状況下では、恐怖のあまり魂が抜けだしたとしても致し方あるまい。

「我々は生きている者は誰も知らぬほど昔から、あなた様のために乳酪や乾酪チーズの供物を捧げてまいりました。しかしこれからは、天神さまと同じように、美しい馬をも供え、あなた様の御名を称えさせていただきとうございます。あなた様が騎乗するに相応しい、真白の馬を」

 次に年嵩のボソルは、歯の根をがちがちと鳴らしながらであるが、精一杯の謝意を表した。

「……白馬は上天の君への捧げ物であろう。我は月毛でよい。月毛がいなくば葦毛を」

 ひたすらに平伏する人間たちの様子に、思うところがあったのだろう。川の主がまき散らしていた、吹雪か氷柱めいた威圧感は和らいでいた。長く厳しかった冬が終わり、若芽が芽生え牡丹一華アネモネが咲き乱れる春を迎えたかのごとく。

 しかし、川の主はたちまち眼差しを氷の刃とし、ほっと安堵の吐息を漏らしかけた人の子にめがけて振り下ろした。草原の天候は移ろいやすいものなのだ。

「ただし、そなたらの申し出を呑むには、一つ条件を付けさせてもらう」

 卑小なる人の子を睥睨したまま、川の主はにんまりと微笑む。

「……先ほども申した通り、アムタグと申す女とフフリと申す女を手にかけたのは、同一の存在である。そしてそれはそなたらも顔を知る者で、今この天幕に集いし九名の人の子の中にいる」

 途端、天幕の内は密やかな騒めきで満たされた。基本的に無表情を通していた老巫者の弟子でさえ、通訳の務めをしばし忘れ、呆然としていたほどである。もっとも若き弟子は川の主に一睨みされるやいなや、直ちに役目を思い出したのであるが。

 残りの男たちは驚愕と、そしてそれを凌駕する疑心を宿した眼差しを、互いの顔に突き刺した。俺ではない。ならばお前ではないか、と。ツェグナも、冷静ではいられなかった。この中にアムタグとフフリを殺しただけでなく、なおも平然と皆を騙しぬいた悪魔がいるのである。川の主の面前でなければ、怪しい者全てににじり寄って、お前ではないかと問うただろう。

「……な」

 客として訪れた際も、天幕における男女の位置は守られる。向かいに目を向けると、本来は血色がよい頬を蒼くした少年は、石か岩になっていた。けれども濃緋の瞳だけをきょろきょろと動かして、周囲の様子を――蔓延した猜疑心に人々が呑み込まれる様を観察している。彼は最後にツェグナの顔にたっぷりと視線を注ぎ、そうしてそっと目を逸らした。恐るべき手の餌食となった女と同じ茜色の双眸を、これ以上は直視できないとでも言うように。

 人間たちの醜態がよほど気に召したのだろう。くつくつと嗤う川の主は、ますます唇の端を吊り上げた。

「アムタグと申す女の喪が明けるまでに、罪深き者をそなたらのみの力で突き止められれば、我も怒りを――そなたらの非礼を忘れようぞ」

 惑い、喚く人の子に突き付けられた笑みは、いっそ慈悲深かった。だが川の主はあからさまにこの状況を愉しんでいる。

「しかしそれが叶わなければ、もしくは喪が明けるまでに人の子の生命が九つ喪われてしまったら、我は罪深き者とその氏族に大いなる災いを贈ろう」

 要するにチャルダラン氏族は、犯人と知恵比べをしなければならないのだ。どう考えても不可解な方法でフフリを殺害した、口惜しいが頭が切れるに違いない誰かと。そうして、最長でもあと三十七日後までに犯人を突き止めなければ、今度こそ呪われてしまうのである。

 ついでに、猶予期間が短くなる可能性は十分にあった。頭がおかしいに違いない犯人が、あと七人殺さないという保証なぞ、どこにもない。

「氏族の者全ての命を贄として受け取るか。馬を受け取るか。我としてはどちらでもよいが、待っておるぞ」

 ――罪深き者を突き止められれば、いつでも直ちに我を呼び出すがよい。答え合わせをしてやろう。

 老いた巫者の年若き弟子が、静かに川の主の宣言を繰り返す。そののち響き渡った哄笑は、通訳を必要としていなかった。


「……おや。お前さんたち、どうしてそんなに険しい目つきをしておるのだ? 天神陛下はお前たちの貢物の魂を受け取ってくださったというのに」

 ややして天上から戻ってきた老巫者は、訪れた際とはまた異なる緊張に支配された男たちの表情に目を瞠る。

「大伯父上。それが、大変な事態になりまして」

 巫者は、巫儀において陶酔に至った間、その場で起こった出来事の記憶を持たない。若き弟子は男たちの異変の理由を察しえぬ師のために事の次第を述べた。師の魂が異界を旅している間に起こった出来事を。

「……まさか、」

 アフズの老巫者は、魂となって遠い南の帝国とやらに赴いた経験さえあるという。しかし偉大な老人も、二名を殺害した犯人がこの中にいると告げられた際は、あからさまに驚愕していた。

 けれども老巫者は齢の数だけ知識と経験を積んでもいる。よって、平静を取り戻すのも、天幕の中の人間では最も早かった。

「お前たちが取り乱しているのも無理はない。しかし、川の主さまがお前たちのみで解決せよと命ぜられたというのなら、他にお縋りするするのはやめた方がよかろう。さもないと、川の主さまがますます気を損ねるだろうからな」

 チャルダラン氏族には、嫁してきた女たちも含めて巫者の力を持つ者はいない。だから本当に人間のみで、この困難を乗り越えなくてはならないのだ。

「そういう訳で、儂はこれ以上は力も知恵も貸してやれぬ。そもそも、儂にも何がどうなっているのやらさっぱりだから、知恵を貸すなど端からできぬ相談だがな!」

 場の空気を少しでも和らげんとしたのだろう。かか、と豪快に相好を崩した老人は、しかし慈しみ深い目で未だ動揺から覚めやらぬ客人を宥めた。

「しかしいかにお怒りとて、川の主さまも無理難題を申し付けはしないだろう。お前たちが力を合わせれば、必ず女たちを手にかけた犯人を捕らえられるはずだよ。だから犯人が分かったらすぐに来るがいい。貢物も次はいらないから」

 老人は、いつの間にやら傍に控えていた老女に合図をする。すると老巫者の妻であろう老女は、馬乳酒を差し出してくれた。

「どうぞ、たんとお飲みください。今日はもう遅いですから、泊まっていってくだされ」

 どうにか平静を装えるまでになった男たちは、火打ち石や小刀とともに帯から下げている器で馬乳酒を受け取った。しかし彼らはいずれも、指先をかたかたと震わせている。それはそうだろう。いつ自分を狙ってくるか分からない人殺しと同じ天幕で、一晩過ごすなんて。恐ろしくて一睡もできやしない。

「……とはいえこの天幕は狭いですし、孫たちもおりますからな。お一人ずつ、別々の所に泊めてもらうように頼んできましょう」

 夫同様に人当たりの好い老女の人徳の故か。チャルダラン氏の一行に寝床を提供してくれる家庭はすぐに見つかった。しかしそれでもツェグナは眠れなかった。正確には、姉を殺したのは誰なのかと考えてばかりで、眠る暇もなかったのだが。

 寝る間も惜しんで熟考を重ねた結果、少女はたった一つだけ、揺るぎない事実を掴んだ。些細な発見を、皆一様に目の下に隈を作った男たちに打ち明けるなど、帰路を急ぐ最中でさえできなかったけれど。

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