悲憤より Ⅰ

 不安に慄く目で見送られながら、家長たちの一団は朝靄に包まれた夏営地を発った。もっともコユは憔悴の激しさ、ナヤンはまだ熱っぽいため残ったのだが。しかしツェグナが加わったため、一行は七名で老巫者の元を目指すこととなったのである。

 一行はめいめいの愛馬に跨り、緑の草の海を進む。その最後尾では、河原毛と薄栗毛の駒が並んでいた。

「しかしツェグナさん。あんた、く……おとなしそうに見えて思い切ったことするんだなあ。叔父さんたち相手に、自分も老巫者のとこまで付いていくと言い張るなんて」

 河原毛に跨った少年が、薄栗毛に跨った少女に声をかけた。

「……あの、わたし相手にそこまで丁寧な喋り方してくれなくてもいいですよ。その、あなたの叔父さまに何か言われるかもしれないので、普通にしてもらえば」

「分かった。でもだったら、あんたも普通にしてくれよな。あんた、今は一応俺の叔母さんだろ? つまりあんたの方が目上の人間じゃないか」

「……はあ。それはそれで、色々と顰蹙を買いそうなんですが、頑張ります」

 少女はぼそぼそと――彼女にとっては普段通りに、大抵の他者にとっては極めて無愛想に応じる。が、少年にはさして気に留めた様子はなかった。

 少年と少女の後ろでは、少年の叔父ダヤルギンが荷物を乗せた牛車を操っていた。

 草原では馬や羊のみを飼育するわけではない。羊の群れの先導を務めさせるために山羊も飼う。羊は臆病な動物であり、羊のみの群れは怖がってばかりで、移動させるのに手間取るのだ。そこで、活発な山羊の出番である。どんな荒地でも山羊が先に進めば、羊はその後ろをついていく習性があるのだ。山羊の毛は他の家畜のものよりも細く柔らかな、高級品でもある。

 牛や駱駝は馬では運べない荷物を移動させる際に重宝する。例えば天幕や人間も含めたその中身は、馬で引くには重すぎるのだ。また、牛はもちろん駱駝の乳も飲用になる。

 他には、金色の亀に支えられた、世界の中心に位置するという山脈付近には、犛牛ヤクやその牛との混血もいる。遊牧民は家畜の乳や毛、脂に皮のみならず、血や糞までもを利用して生きているのだ。骨だって、遊びの道具になる。姉と羊の距骨シャガイを賽子にして競い合った際の楽しさは、背中が曲がる頃になっても忘れられないだろう。

「姉の潔白を証明したいっていう、あんたの気持ちは理解できる。俺も、兄さんが同じような疑いをかけられたら、我慢できねえだろうし。……だけど、父さんとアムタグさんは、本当に仲が良かったんだ。だから……」

「だからって、それは姉さんが川に身投げをしたという証拠にはなりません」

 グムソムの叔父が操っている牛車では、去勢羊二頭と当歳馬一頭だけではない。牝の子羊が一頭、不安げな顔で揺られていた。この子羊はツェグナの持参金の一部でもある。羊の足に合わせていたら間違いなく、老巫者の元に到着する時間が遅れてしまう。だから今回は荷物として運ぶと、ダヤルギンの発案で決定したのだ。

「アフズの老巫者さまなら、姉さんが死んだ経緯を明らかにできるはずです。わたしは姉さんを信じています」

 老巫者に対価を払い、姉がなぜ命を落としたのか詳らかにしてもらう。それがツェグナが考え出した最善の方法であり、供養を除いては姉のために行える最後の恩返しだった。

 結果、姉は川に身投げしていたと告げられたら、その言葉を受け入れる。巫者が神々や精霊から預かった、あるいは神々や精霊が巫者の口を借りて告げる言葉は、常に真実なのだから。しかしツェグナは姉が本当に川に飛び込んでいたとしても、姉を恨んだり、憎んだりはしないだろう。姉は、ツェグナが思っていたよりも脆く、支えを必要とする人だった。ただそれだけだ。

「……そっか」

 僅かな怒りも込めて――なお、先ほど暗いと言われかけたのは、事実だから別に気にしていない。全く気にしていない――語気を荒げて言い切ると、グムソムは俯き、それきり口を噤んでしまった。ちらと確認した横顔は、痛みを堪えていた。堪えているよう・・ではなくて。グムソムを悩ませているものが、肉体と精神のどちらから兆しているのかまでは定かではないけれど。

「どうしたんです? 腹でも下してるんですか?」

 急に黙りこくられたままでは気味が悪い。少女がぼそりと喋りかけると、少年の面に落ちていた影はたちまち消えてしまった。

「いや、んなことないけど」

「ふうん」

「あんたもしかして、内と外じゃ全然違う感じなの? おもしれーな」

 普通にしてくれと要求してきたのはそちらなのに、勝手な口を利くものである。

「仮にも叔母に向かって“おもしろい”は失礼ですよ」

「ごめん、ごめん」

 ツェグナが半ば以上わざと声を尖らせると、少年の歯が白く輝いた。

 初めてのグムソムの笑顔は悪くなかった。顔立ちも体格もまだまだあどけないが、あと三、四年もしたらいい男になりそうな気がする。グムソムが父親似だとしたら、姉が年の離れた夫を熱愛したのも不思議ではない。単純な美醜においては兄のナヤンの方が圧倒的に上なのだが。

 叔父さんたちにこき使われる日々では、男の人の良し悪しなんて気にする余裕すらなかったけど、わたしはもしかしたらこういうのが……。

 初めての発見は、少女をいささか落ち着かなくさせた。

「――ああ、あれだ」

 しかしほんの僅か浮足立った気持ちも、アフズ氏族の夏営地が姿を現せば、流石に引き締まる。

 巫者とて巫儀を行っていない間は、あらゆる意味で普通の人間と変わらない。いかに強大な呪力を所持していても、特別な権勢を誇っているわけでもない。結婚をして子を儲け、家族のために家畜の世話をし、狩りをするのだ。現にツェグナが老巫者とまみえたのも、彼が放牧していた羊たちを柵に入れている最中だった。

「そうか。そんなことがあったのか。……大変だったろう」

 アフズの老巫者はツェグナにさえ微笑んでくれた。ツェグナは、ダルキル族とは長きに渡って様々なものを奪い合ってきた仇敵トゥグナト族なのに。第九天で白き造物主に謁見したのも一度や二度ではないという逸話が信じられなくなるぐらいの、温かな笑みだった。

「アムタグという人が本当に太陽が昇っている間に川に入ったのなら、それは罪深いことだ。川の水を汲むのに乳桶や鍋を使っただけでも、主はお怒りになり水を他の場所に移してしまうのだからな。お前たちが恐れ慄いているのももっともだ」

 白い髭の合間から紡がれる声音は、しわがれていてもなお朗々と響く。

「しかし、川の主さまは我々の想像など及びもつかぬ方でもある。その怒りも。フフリという人も、冥府の主の従者に魂を奪われただけかもしれん。水云々は、儂にはどうなっているのか皆目見当もつかんが……」

 フフリは川の主に殺された――アムタグのせいで死んだのではないかもしれないと仄めかす言葉に、ツェグナの目の前は明るくなった。もうすぐ夕食時だというのに、朝日に照らされた気分である。

「そういう訳で、どちらにせよ巫儀を行わなければ、何とも言えん。だが、供物を捧げるべきなのも事実だ。ちょうどいい頃合いだし、良い貢物を持ってきてくれているし、早速行うとしよう。弟子を呼びにやるから、準備が整うまで外で待っていてくれ」

 死者の世界は地上とはちょうど鏡像の関係である。そのため、死者に干渉するための巫儀を行うのは夕刻からと決まっていた。そもそも死霊というのは、冥府にいても地上で彷徨っていても、日没から活発になるのである。

 死者は死んでから喪が明けるまでの四十日の間に、冥府に向かうとされている。だからまだ死んで間もない姉の魂は、地上をうろついている可能性の方が高い。老巫者が姉の魂の居場所を探し出せれば、自ずから姉の死の経緯も把握できるだろう。死者というのは生前の人格がどうあれ、えてして怒りっぽいものだ。しかし、姉ならば虚言を弄しはすまい。

「どうぞ、お入りください」

 ややして準備が整ったと告げてきた青年は、どことなく老巫者に似ていた。巫者の力は特定の家系に受け継がれるのだから、当然かもしれないが。

 老巫者の天幕は老巫者とその弟子、チャルダラン氏族の家長たち、ツェグナの計九人を詰め込むには小さすぎた。狭いと感じたのは、老いた巫者が醸しだす威圧感のためかもしれないが。あるいは、贄として選ばれた去勢羊が、微動だにせず横たわっているためかもしれない。絶命した羊の血は、一滴も垂らしてはならぬと容器に貯められていた。大地はできる限り血で汚してはならないのだ。

 先ほどまでの巫者は、人の好さそうな老人でしかなかった。しかし衣装を纏い太鼓を持った彼からは、近寄りがたいまでの神聖さが発せられている。

 胴着、頭巾、手袋、太腿にまで達する長靴からなる巫者の装束は、鷲木菟わしみみずくの姿を映し取っている。袖下の縫い合わせから垂れるふさは鳥の風切り羽根であり、肩から垂れている皮や布の房は翼である。頭巾からも顔を隠すほどに様々な布の辺が垂れ、長靴には黄色い糸で鳥の脚が描かれていた。

 だが、明白に違う箇所もありはする。それは胸や両肩、両腿、両膝、両肘に付けられた計九枚の円形の鉄の飾りであり、悪霊を追い払うべく数多下げられた鈴であったりした。

 いかな巫者とて、性質の悪い霊と戦う羽目になったら、ただでは済まないかもしれない。そのために彼らは鷲木菟に扮するのだろうか。鷲木菟やその羽根は、悪霊や人喰鬼マンガスなどの悪魔の接近を阻止するのである。

 どおん、と巫者が太鼓を叩く音と、しゃらしゃらと鳴る鈴の音が交錯する。太鼓は装束と同様に神聖であり、汚してはならない。この力強い音が、巫者を陶酔へと、その魂を異界へと導くのだ。

 世界の中心に開いた穴は、天を留める釘であるともされている。夜空の中心にある不動の星、つまり金の釘がそれだ。この天上の釘は馬繋ぎ棒でもあり、他の星々は繋がれた天神の馬であるとも語られている。

 巫者の魂はいずれ――もしかしたら既に、従えている霊の助けによって、天窓から抜け出しているかもしれない。さすれば巫者はまず、無数の馬が繋がれている第一天へと至り、停まり座オロホにて捧げ物をするだろう。巫者はこれより上の天でも捧げ物をしなくてはならない。

 第二天では、小鳥の姿をした生まれる前の魂が戯れる、銀の幹と黄金の葉を持つ聖樹の威容を仰ぐだろう。第三天では選ばれた祖先たちに挨拶をするだろう。第四天では全ての川の源たる豊穣の海を、第五天では全ての植物の母たる生命の樹を眺めるだろう。第六天では月に、第七天では太陽に拝するだろう。第八天では天神の九柱の息子たちに迎えられるだろう。そして、第九天には黄金の山があり、永遠なる神は妻たる出産の女神とともに、真白の天幕に住んでいる。上天の天幕は金の屋根棒オニーバガナ、銀の壁材ハナから成り――

 初めて目の当たりにする儀式に圧倒され、ただただ息を潜めていた少女の肌は、異変を悟って粟立った。先ほどまでは年齢相応に丸かった老人の背が、しゃんと伸びている。巫者の魂が異界を旅している間、体に何者かが入るというのはままある事態である。けれども今老巫者の体に入っているのは只者ではあるまい。

 大いなる存在はただ人たちに向かって何事かを述べる。

「…………」

 古老の教えにある通り、人ならぬ者の言葉はツェグナには解しえなかった。グムソムも同様らしく、ただただ戸惑っている。しかし、これまた言い伝え通りに、巫者の弟子はその言葉を理解しえたらしく、青ざめた顔で呟いた。

「ノルホン川の主さまがお出でになった!」

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