懸念より Ⅱ
腹が満たされたのだろうか。主にすり寄って横たわった愛馬の首を撫でつつ、少女は唇を噛み締めた。すっかり夜は明けたのに、フフリは未だにやってこないのだ。
フフリは約束をすっぽかすような人ではあるまい。昨日の短い語らいだけでも、彼女の人柄は十分に理解できた。だから何らかの事情のため、彼女はこの場に来られなくなってしまったのだろう。例えば、子供が急にぐずり出したとか。乳児を抱える家ならば、いかにもありそうな事態だった。とすれば、これ以上ここで待つよりも、彼女の天幕を尋ねた方がいいかもしれない。
けれど、急に訪れたりしたら邪魔にならないだろうか……。
暗い赤の瞳が愛馬から周囲の風景に移った途端、少女は異変に気付いた。現在ツェグナが座り込んでいる
「薄栗毛、行きますよ」
休息を妨げられた馬は不満げに鼻を鳴らした。が、愛馬の気持ちに構ってはいられない。
目指す場所へと辿り着いた少女は、溜息を吐かずにいられなかった。人だかりと馬に遮られ、一瞥しただけでは分からなかったが、その場所には
ナヤンがどうして南西の方をツェグナに教えたのかについては、後で彼に確かめた方がよいだろうか。フフリが誰もいない場所でと言ったから、より人目に付かない方だろうと早合点してしまっただけかもしれないが。
とにもかくにも、自分はフフリを随分と待たせてしまっただろう。だから謝らないと――などと思案しつつも、少女は人だかりの中心に目を向ける。皆がなぜ騒いでいるのか知りたかったのだ。しかしその原因を把握した数瞬の後、細い足はたちまち凍りついた。
「……フフリ! フフリ!」
老いも若きも一様に青ざめた顔をした人々の中心では、ツェグナが待っていた人物が、微動だにせずに横たわっていた。雨も降っていないのに、全身ずぶ濡れで。しかも、泣き喚く男に抱きしめられているというのに。
「コユ。分かっただろう? フフリは、もう……」
「そんなに泣くな。辛いのは分かるが、あの世に逝くのに苦労するのはフフリなんだぞ」
固く閉ざされた目蓋といい、力のない四肢といい、フフリが絶命しているのは明らかだった。だが、目立った外傷も、出血の痕跡もないのに、一体どうして。それになぜ、彼女が死ななければいけなかったのか。
ツェグナの頭の中をぐるぐると駆け回る疑念に最も苛められているのは、彼女の夫に違いあるまい。
「――フフリを返せ!」
フフリの夫はツェグナの姿を認めるや否や、獣にも勝る勢いで突進してきた。
「おい! いくら何でもよさねえか! この嬢ちゃんはあの女じゃないだろうが!」
「うるせえ、そんなの関係ねえよ!」
寸前で男たちが制してくれたが、抑え込まれてもなお、妻を喪った男は竜巻のごとく暴れまわっていた。
「お前の姉のせいだ! あのトゥグナト女があんな恥知らずな真似をして、川の主の怒りを買ったから、フフリが連れていかれたんだ!」
どうしてツェグナが頬どころか顔中を涙で濡らす男に反論できるだろう。ちらと確認したところ、フフリには首を絞められた跡さえなかった。となると、ぐっしょりと濡れた服の状態を鑑みても、彼女は溺死した可能性が高いだろう。まさしくアムタグのように。この夏営地は川の畔にあるのだから、さして不自然ではない。けれども、おかしいのだ。
フフリが川で溺死したとすれば、その亡骸を、自分で運ぶなり馬に乗せるなりして、ここまで運んできた誰かがいるということになる。
「コユが、約束があるからって天幕を出ていくフフリを見送ってから、乳を欲しがりだした赤子をここに連れてくるまで、怪しい奴は見かけなかったんだろ? 馬も、フフリの葦毛以外はいなかったらしいな」
「となると、そんなちょっとの間で川からここまでを往復するのは、絶対に無理だな」
「フフリがここに行くってのは、コユだってフフリが天幕から出る直前に教えられたそうだしな。他のやつなら尚更、フフリの居場所を知ってるはずねえよ」
しかしいくら何でも、フフリの生前の姿が最後に目撃されてから亡骸が発見されるまでの短時間で、殺害と亡骸の移動を行うのは不可能なのだ。女にしては大柄なフフリの体は、引き上げるだけでもそれなりの時間を要するだろう。いやそもそも、彼女の意識を奪うなりして川辺まで連れていくだけでも、さぞかし骨が折れるに違いない。
フフリの殺害とその後の工作を目撃されずに行うというのも、時間帯を鑑みれば不可能である。家長の一人イェフチェの妻とその娘は、丁度それぐらいの時間に、水汲みのためにノルホン川の畔に訪れたというから。つまりフフリは、陸の上で水死させられたのだ。こんな殺し方ができるのは、神や精霊だけだろう。
もみ合った痕跡でも、亡骸を引きずった痕でもいい。川辺に何らかの痕跡が残っていさえすれば、フフリを殺したのは人間だという可能性に――自分たちはノルホン川の主の怒りの的になったのではないという希望に縋ることができる。しかし、何らの痕もなかったら……。
「……今、テヌゲドが川辺の確認に行ってるそうだ。亡骸を引きずるなりした跡がないか、一応、な」
隠しきれない恐怖に震える声を絞り出したのは、ナヤンとグムソム兄弟の叔父ダヤルギンであった。
「どうする、叔父さん。巫者のところに行く日を早めるか?」
「そうだなあ。ぐずぐずしてても、状況が良くなることはねえだろうからなあ。でもそもそも、いつもの巫者の手に負えるか怪しいぞ」
振り返って確認したら、グムソムは輪から少し外れた場所で、叔父と話し込んでいた。まだ寝込んでいるのか、ナヤンの姿はなかったが。
「あのトゥグナト女のせいでこれ以上人死が出るのは我慢できねえ。……今回こそ、アフズの老巫者に縋るべきじゃねえのか?」
「フフリの埋葬を今日中に終わらせて、明日の朝には老巫者のところに向かおう。……アフズ氏の夏営地は、ちと離れてるからな」
グムソムとその叔父の周りには、いつの間にか家長たちが集まっていた。そうして彼らは昨晩の相談の続きに興じだしたのである。物言わぬ肉塊となった妻の傍らで慟哭するコユはもちろん、現在川辺に赴いているテヌゲドも、議論には加わっていないが。
ダルキル族アフズ氏族の老巫者の名声もしくは異名は、ツェグナも耳にした覚えがある。トゥグナト族にも巫者はいるので、周囲にアフズ氏の老巫者に頼った経験のある者はいなかったが。
巫者とは、この地上ではない世界――九層の天あるいは冥府への旅を行う力を有する者の呼び名である。天界と地上、冥府は中心に開いた一つの穴で繋がっているので、巫者の魂はその穴を通って異界へと赴くのだ。
巫者は同じく巫者であった祖先や、その他の人間、はたまた動物の扶助霊を持つ。扶助霊は巫者の相談役であり、手助けをする存在でもある。よって、従えている扶助霊の数が多ければ多いほど、その巫者の力は強い。十も霊を従えていれば大巫者と呼ばれ、人々の畏敬の念を一身に受ける。
アフズ氏族の老巫者の扶助霊は九柱であるが、その幾つかは他の巫者から奪ったものだという。概ね生前と変わらぬ暮らしを営む死後の地下の世界において、巫者は族長よりも高位の存在となる。また、真に偉大な巫者の魂は死後、冥府に下るのではなく上天へと昇る。そうして三層目の天に広がる楽園で、選ばれた死者たちと共に子孫を見守るのだ。アフズ氏族の老巫者も、死後に天で憩う栄誉を授かるかもしれない。
巫者は一般に世襲であり、その素質は特定の家系に受け継がれる。ダルキル族ではアフズ氏族とはまた別の氏族にも、巫者の力を持つ者がいた。
人々が巫者の元に赴くのは、病人の体から抜け出した魂を見つけ出して元に戻す、あるいは取りついた悪霊を追い払う――つまり、病気の治療。あるいは、各家庭で祀る
「二歳の去勢羊の一匹……いや、二匹は連れて行った方がいいかな? ……こんなこと初めてだから、どれぐらいの捧げものをすればいいか、見当つかねえな」
牡羊は去勢され、丸々脂の乗った牡が最も美味である。今年の春に生まれた子羊ならばともかく、婚礼の宴でさえ一匹しか潰さない成熟した去勢牡を、二匹差し出そうというのだ。チャルダラン氏の家長たちは、どれだけこの事態を重く受け止めているのか。察するには十分すぎる会話だった。
「グムソム。お前んとこ、当歳馬で毛並みがいいのがいただろ。それもついでに付けといたらどうだ? ……お前のとこは、家畜がいすぎても世話しきれねえだろ?」
「ん。そうする」
家長たちの相談が一段落つくと、鹿毛の馬に跨って中年の男がやってきた。ツェグナは初めて顔を見たのだが、彼こそがテヌゲドだろう。男の暗い表情は、結果を舌よりも雄弁に物語っていた。ノルホン川には、フフリ殺害の手がかりは残されていなかったのだ。
妻は川の主に殺されたと嘆いていたコユも、何だかんだで僅かながらの希望に縋っていたのかもしれない。妻を殺したのは人間であると。とすれば、その者を探し出して、掟に従って罰すればいい。コユは、その誰かに怒りを向けても許される。しかし彼の期待は粉々に打ち砕かれた。
「ノルホン川の主よ! どうして俺の妻に怒りを向けられたのです!? 赤子だって生まれたばかりなのに……」
卑小なる人間が、大いなるノルホン川の主に歯向かえるはずがない。抑えきれぬ涙でくぐもった問いかけこそが、哀れな男ができる精一杯の反抗だった。
草原では決まった埋葬地もなければ、逆に埋葬してはいけない場所もない。よってフフリはこの場に埋葬されると決まった。彼女の葦毛の愛馬も、いずれこの場で屠られるだろう。
フフリの埋葬が決まった以上、女がこれ以上この場にいるわけにはいかない。しかし少女は、騒動を察して駆けつけていた他の女たちと歩調を合わせ、放っておいた馬を捕まえようとはしなかった。
「……グムソムさん!」
どうやらトゥグナト嫌いらしいダヤルギンが離れた合間に、ぼんやりと佇んでいた少年に、今度こそ勇気を振り絞って声をかける。
「あの……実は、一つお願いがあるんです」
小づくりな唇が紡いだ言葉に、少年は眉を寄せた。
「あんたがそうしたいなら俺は反対しないけど。でも、叔父さんほどじゃなくてもトゥグナト嫌いばっかだぜ? わざわざ不愉快な想いしなくてもいいんじゃないか?」
グムソムの指摘はもっともである。けれどもツェグナは、どんな暴言を浴びせられかけてもいいから、確かめたいことがあった。
姉以外の人間に自分から話しかける。慣れない行動をしたためか、心臓がうるさかった。が、とりあえず第一の試練は終わったのである。
「明日はあなたにちょっと頑張ってもらうことになります」
天幕へと戻る最中。愛馬の首を撫でる少女の眼差しは、刃よりも鋭かった。
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