懸念より Ⅰ

 炉では炎がぱちぱちと爆ぜているが、傍に居ても冷え切った心は温まらない。膝を抱える少女が流す涙には、悲しみだけでなく怒りも溶けていた。姉が敢えて神々の怒りを招く方法で自殺したと信じて疑わない者たちへの。そして、姉のために声を上げることすらできなかった、意気地の無い自分への。

 一体どれくらい、自らの不甲斐なさを責めていただろう。

「……ツェグナさんはいるかしら?」

 犬の唸り声がしたので振り向くと、入口に若い女が立っていた。どの家庭でも番犬は飼育されているものなのに、今まで犬の存在に気づけなかったなんて。自分はそれほど自失していたのだろうか。

「そっか。あちらの天幕は清めの最中だから、ナヤンの天幕の方にいたのね」

 丸い顔に優しげな笑みを乗せている彼女は一体誰なのだろう。どんな用事があって、新参者もいいところのツェグナを訪ねてきたのか。

「わたしはフフリ。コユの――なんて言っても、あなたはまだ分からないでしょうけれど――妻で、アムタグさんについて話があってきたの。うるさくするつもりはないから、入ってもいいかしら?」

 ツェグナの内心を見透かしたのだろうか。これまたふわりと優しい声で名乗った彼女は、ナヤンが眠る天幕の男の側にちらりと目を向けた。

 先ほど寝付いたばかりの青年の体調を慮って、フフリを追い返すべきなのかもしれない。けれどもツェグナがまごついている間にフフリは中に入ってしまった。

「まず、アムタグさんのことについて、お悔やみを言わせてもらうわね」

 互いの肌のぬくもりが感じられるほど近寄られたから分かったのだが、フフリは女にしては随分と大柄だった。少なくとも並みの男と同じぐらいの身長があり、それに見合った体格をしている。しかし乳を連想させる白く艶々とした肌や、整っているというほどではないが愛嬌がある顔立ち、柔らかな話し方のために、威圧感は覚えない。むしろ、可愛らしい人だな、というのが第一印象だった。

「わたしとアムタグさんは友人だったの」

 ツェグナとアムタグは、見た目も中身もよく似た姉妹と囁かれ続けた。そして、自分たち姉妹にはある共通点がある。陰気なツェグナも生真面目なアムタグも、愛想がないのだ。 

「そうなんですか。……ありがとうございます」

 はっきり言って他者に好かれる方ではない姉に友人がいたなんて。打ち明けられた事実が嬉しくて、茜色の瞳は再び熱を帯びた。

「わたしたちは同じ年に結婚したし、わたしのお母さんはトゥグナト族だから、いつの間にか友達になっていたわ。料理や縫物をしながら、沢山おしゃべりをしたのよ。アムタグさんは、わたしのお産の手伝いもしてくれた。アムタグさんには、どんなに助けられたか分からないわ」

 ふと気が付くと、ツェグナは暖かで懐かしい――乳の香りに包まれていた。フフリは自らの胸元が濡れるのを少しもいとわず、しゃくりあげるツェグナの背を撫でてくれた。そのふっくらと柔らかな、けれども指先が固くなった手は、遠い昔に喪った母の手そのもので。少女はとうとう、あたりを憚る気力を手放してしまった。

「……そうよね。悲しいわよね。わたしも、邪霊が見せる悪い夢じゃないかと思ってるわ」

 いっそ、本当に夢だったら良かったのにね。

 ぽつりと漏らした女の眦もまた、煌めく雫で濡れている。固く抱き合って慟哭する女と少女の涙が枯れ果てたのは、一体いつだったのだろう。

「わたしは、アムタグさんがみんなが考えている不敬を犯す人じゃないって信じてるわ。絶対にそうよ」

 ふっくらとした唇から紡がれた言葉は、むずがる赤子を宥めるようでありながら、毅然としていた。

「わたしたち、なんでも言い合える親友だったんだもの。悩みがあったのなら、わたしに打ち明けてくれるはず。それにアムタグさんは……」

 姉の友人の虹彩は、一般に黒髪に黄色い肌、赤い瞳を持つ草原の民にしては紫に近い色をしていた。きっと南方の民の血が幾分か混じっているのだろう。彼の地の者は、草原の民と同じ色の髪と肌を持っているが、双眸は青や紫を宿しているというから。しかし華奢な肩を掴んでツェグナを真っ直ぐに見つめる女の瞳は、落ち着いた色合いに反して、怒りにすら通じる激しさを帯びていた。

「どうか、落ち着いて聞いて頂戴ね。……アムタグさんは実は、」

 ああ、前もこんなこと言われたな。

 もはや十年の昔にも等しい、希望が打ち砕かれた寸前を思い起こすと、再び目の前が真っ暗になった。

「誰か、来ているのか?」

 しかしがばと身を起こす音に続いて、男の低い声が響いたために、続きを聞くのは叶わなかった。

「ごめんなさいね、ナヤン。起こすつもりはなかったのだけれど、そんなの関係ないわよね」

 慌てふためいた様子から察するに、フフリもまたナヤンの存在を忘れていたのだろう。

「……赤ん坊が起きているかもしれないから、お暇させていただくわ。お姑さんは優しい人なんだけど、流石に乳は出せないし」

 病人の眠りを妨げた申し訳なさのゆえか。フフリは妙にそそくさと暇を請うた。

「でも、まだまだツェグナさんと二人で、誰にも邪魔されない場所でじっくり話したいことがあるの。だからどうか、明日の朝太陽が登ったらすぐ天幕を出て、オボーまで来てくれないかしら。ちょっと早いけれど、絶対に来てほしいの」

 よほどツェグナに伝えたい話があるのだろう。待っているわ、と半ば無理やりに約束を押し付けて、フフリは去っていった。

 ツェグナはもうすっかりフフリに好感を抱いていた。姉の友人であった彼女と、もっと話していたい気持ちもある。だから明日の朝の約束自体に不満はない。しかし待ち合わせ場所が分からなかった。これでは約束の場所に辿り着くことすらできやしない。

 オボーというのは選ばれた丘の上に、石や土を積んだ聖所である。

 草原の民は、遥かな祖を生み出した存在でもある、永遠の上天――頭上に広がる蒼空を崇拝している。よって、一面ほとんど平らな草原において盛り上がった、言い換えれば天空に近い場所というのは、自然と崇拝の対象となるのだ。

 オボーの周囲では祭事が行われる。また石や土だけでなく、鎧や兜、衣服、食物、容器、布、薬、装身具などを、願いを叶えてもらうべく捧げたりもする。こういった堆積を見かけたら、新たに石を積み上げる習慣もある。でないと、なにがしかの災難に見舞われてしまうのだ。

 とにもかくにもオボーというのは、草原の民において知らぬ者のない、聖なる場所である。が、オボーは一か所でなく、どこにでも存在しているから、一体どのオボーを目指せばいいのやら。新参者のツェグナには、フフリが意図していたオボーがどこにあるのか、さっぱりなのである。この夏営地に到着した際、ざっと確認した限りではそれらしいものは確認できなかったが……。

オボーなら、南西の方に進めばいい。少し遠いけれど、馬ならすぐだ」

 ツェグナの混乱を見透かしたのだろう。ナヤンは病身を再び横たえる前、ぽつりと囁いた。

「ああ、すみません」

 具合が悪い彼を煩わせてしまったという後ろめたさもあって、少女は反射的に頭を下げた。

 天幕は常に南面して――入口が南に、その真向いの家長の場所が北になるように設置される。よって進むべき方角さえ教えてもらえば、目的の場所に辿り着くのは容易いのだ。

「……あの、わたし、今晩は姉さんが暮らしていた天幕に泊まりますね。あちらも、清めはもう終わっているでしょうから」

 もう寝付いてしまったのだろうか。抑えた声に返事はなかった。

「あなたをこれ以上患わせたくないですし。それに、」

 姉さんの存在を、少しでも感じていたいから。

 少女は誰も聞いていない言葉を飲み込み、自らも暮らすはずだった、真白の天幕を後にする。

 死者の遺品を清めるには二つの炎の間を通らせるか、煙を浴びせるかの二通りの方法がある。今回は、天幕そのものをアムタグの遺品とみなし、燻したのだろう。魔除けの効果があるとされる杜松の実の、すっきりとした香りが染みついていた。姉の気配を駆逐してしまうほどに。ただそれでも、残されている名残はあった。片隅に置かれている桶には、姉が拵えただろう馬乳酒がたっぷりと残っていたのだ。

 ツェグナはそういえば、姉の死を知らされてから水の一滴も摂取していなかった。元来夏は乳や乳製品だけで過ごすものだし、衝撃のあまり食欲などすっかり忘れていたのだ。今だって別に空腹を覚えているわけではない。それでも、流石に何か摂取した方がいいだろう。

 草原の者ならば常に帯から下げている専用の器に馬乳酒を注ぐ。そうして少女は、中指と薬指で馬乳酒を弾ぎ、天と炉の炎に捧げた。骨身となった信仰と習慣は、脳裏を喪った存在で埋め尽くされていても、恙なく行える。

 慈母の乳であるかのごとく器の中身を干した少女は、ごろりと女の側に横になった。

 本当は帯の代わりとなりうる毛氈の切れ端なり、毛皮なりを探すつもりだった。しかし体が休みたいとだだをこねている。ツェグナには、体の欲求に抗う気力すら残っていなかった。

 少女はただひたすら体を休めつつ夜明けを待った。本当は、くたびれた体を温めるべく、灰の中で眠っている炉の炎を起こしたい。けれども今のツェグナには、この家の火を扱う権利はないのだ。

 炉の火というのはその家庭を象徴し、また守護する聖なる存在である。たとえその家で生まれ育った娘であっても、嫁して別の家の一員となれば、炉の火への拝礼は禁じられるのだ。婚姻にあたって欠かせぬ炉の火への挨拶も済ませていない、供物の肉や乳酪バターを捧げていないツェグナが、どうしてこの天幕の炉に触れられよう。そんな真似をしてしまったら、怒った炎が火事を起こしてしまうかもしれない。さすれば今度こそ、姉が残した全てがなくなってしまう。

 まんじりともせずに待っていると、約束の時は存外早く訪れた。愛馬は馬繋ぎ場で利口に待っていて、ツェグナが跨って合図をすると、すぐに駆け出してくれた。

 もしも姉が死んでいなかったら、今頃ツェグナは姉とともに、ノルホン川に水汲みに行っていたのかもしれない。草原の女は、水汲みに行く日は特に早起きをする。しかし姉は毎日早起きして水を汲んでいたから。だのにツェグナはたった独りで、見ず知らずの場所に向かっている。――空想と現実の落差は、いたく涙腺を刺激した。それでも少女は、約束の目印を見逃さなかった。

 フフリはまだ来ていないので、昨日から繋ぎっぱなしだった愛馬の前後の左足を保定紐チュドゥルで縛って放してやる。そうすると馬は、自由に動き、また草を食み水を飲むけれど、人間が追えなくなるほど遠くには行かないものなのだ。

 嬉しそうに草を食む愛馬の姿を横目で眺めつつ、少女はふくよかな姿が近づいてこないかと目を凝らす。しかし、空の色がすっかり変わってもなお、待ち人は現れなかった。

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