焦燥より Ⅱ

 姉が暮らしていたという天幕のすぐ横の、馬繋ぎ場に愛馬を停める娘の手は震えていた。手よりも震える足では、どんなに叱咤しても入口を超えられない。

「俺じゃあ無理だから、兄さんが川に入って引き上げたんだ」

 この天幕の中に誰かの遺体があることは一目で分かった。天幕の天窓トーノは光を採り入れるため、雨や雪が降らない限りは、日中は開けられる。ただし、遺体を埋葬まで安置している場合は例外なのだ。それゆえ草原の者ならば教えられずとも、どの家族の間に死者が出たか判ぜられるのである。

 ただそれでも、娘は幽かな希望に縋っていたかったのだ。死んだのは姉ではなくて、他の誰かかもしれない。姉は何らかの事情があって――例えば盗まれた馬を取り返すために、この夏営地から一時離れているだけ。だから数日も経てば戻ってきてくれる、と。グムソムとナヤンの兄弟はきっと、姉によく似た誰かの遺体を発見しただけなのだと。しかしそんな夢想も現実を直視してしまえば、たちまち打ち砕かれてしまう。

 固く閉ざされた暗赤の瞳を開いたのは、悲痛にひび割れた少年の一言だった。

「……アムタグさん、あんたがやってくるの楽しみにしてたんだ。だから、顔を見てやってくれよ」

 少女は観念して目蓋を開く。天幕の女の側たる入口の左側――限られた空間の配置は伝統的に決まっているものなのだ――に、長方形の毛氈を下にして横たえられている遺体は、確かに姉アムタグだった。姉でしかなかった。

 ただ、湿った衣服を纏う体は、随分と青白くなっていた。ツェグナと同じく、さして色白ではなかった姉なのに。

 ツェグナが知る生前の姉と違うところがあるとすれば、髪の長さだけ。草原の民は配偶者が死ねば己の髪を副葬品とする。姉もまた、夫のために美しい髪を切り落としたのだ。断髪した際の姉は、自分が夫と同じ場所に逝く日がこんなにも早く訪れると、予想していただろうか。これではまるで、姉そのものが亡夫への供物のようではないか。

「――姉さん」

 少女はもはやいかなる呼びかけにも応えぬ姉の元に駆け寄る。しかし、涙を流しはしなかった。どんなに悲しくとも、埋葬までに死者を想って流した涙は河となる。そうして、冥府へと向かう魂の妨げとなってしまうのだ。

 姉は生前も、人並みならぬ苦労を重ねた。それでも優しい夫と縁づいて、幸せを掴んだはずだった。だのに、天はどうしてここまでアムタグを冷遇するのか。たったの三年で姉から幸福を奪った挙句、命まで奪うとは。

 娘はしゃがみこみ、氷のごとく冷たい体を掻き抱いた。己の衣服が濡れるのも構わずに。既に血が滲んでいた唇を更に噛み締め、喪失の痛みを堪える少女の背に、低く落ち着いた囁きがかけられる。

「……俺と君の婚礼はひとまず中止にしよう。君にとっては姉で、俺にとっても義母だったアムタグさんが亡くなったんだ。喪に服さないといけない」

 ナヤンはそう言うが早いが、ふらりと天幕から出て行った。

「俺、他の奴らに声かけてくるから、アムタグさんは今日中に埋葬しよう。……その、あんた、早く泣きたいだろ?」

 グムソムもまた、兄を追うように駆け出す。小さな背はたちまち遠ざかっていった。

 薄闇の中に取り残された少女の視界の端では、黒い蛇が二匹蠢いていた。

 叔父の一家では、燃料として用いる家畜の糞集めはツェグナの仕事だった。家畜の糞は、乾いていれば臭いはしない。そも畜糞は冬の間は防寒のために絨毯の下に敷かれもする、無くてはならないものだ。けれどもいとこたちが糞集めをツェグナに押し付けたのは、糞の下に潜む蛇を警戒するがゆえ。そういう訳で、ツェグナは数えられないぐらい蛇に遭遇した覚えがある。危うく嚙みつかれそうになったのも、一度や二度ではない。けれどもここは天幕の中なのに、どうして蛇がいるのだろう。

 ぼやけた目を凝らしてよくよく確認すると、蛇と錯覚したのは自分の二本の三つ編みであった。

 ――姉さんが死んだのに、いつまでもこんな髪でいてはいけない。

 既婚の女の印たる髪を慌てて解いた少女は、はっとして赤く濡れた唇を開く。

「……どうしよう」

 家畜とともにあらかじめ運んでおいた嫁入り道具には、流石に帯はなかった。だから、誰かに借りないといけない。でもツェグナはこれから一体、誰に頼ればいいのだろう。誰を支えに生きていけばいいのだろう。――もう何も分からなかった。何も、考えたくなかった。だが、果たさねばならない仕事はある。哀れな姉のために、副葬品を準備するのだ。姉が、あの世でも恙なく暮らせるように。

 馬具は絶対に供えなければならない。あとは、裁縫道具と……。

 天幕の中は物の配置もまた概ね共通している。姉が必要とするであろう品々を探すべく、よろよろと立ち上がった少女の眉は、明白な違和感によって顰められた。天幕の男の側が、妙にがらんとしているのである。これではまるで、この天幕では男が暮らしていなかったみたいではないか。

 姉の夫が冥府に下ったのは三か月も前だ。だから遺品が既に整理されていてもおかしくはない。また、ナヤンは独り立ちしている。この二名の所持品がこの天幕に存在しないのは当然だ。だが、グムソムの私物や道具はどこに置いているのだろう。気になるが、そんな詮索をする勇気はなかった。

 結局ツェグナが姉の継子であった兄弟にその日尋ねられたのは、

「この櫛、副葬品にしていいですか?」

 女の側で見つけた見事な彫刻の櫛は、本当に姉のものかということぐらい。

「ああ。これは父さんが、アムタグさんのために拵えたんだ」

 ツェグナの掌の上の櫛を長い指で摘まんだ青年は、いっそ嫋やかですらある面を曇らせたままぽきりと折ろうとして、できなかった。

「悪い、グムソム。お前がやってくれ」

「うん。……兄さん、大丈夫か?」

 少年は兄から櫛を受け取るや否や、膝蹴りの要領でへし折った。

 地下に逝った死者たちは地上と変わらぬ暮らしを送る。とはいえ地上と地下では違うところもある。地上と地下では、何もかもが反対になっているのだ。方位も上下も、時間も。例えば地上の右は地下の左であり、地上が昼であれば地下は夜である。地下の太陽は西から上り、地下の月は東に沈む。故に草原では、死者に捧げる品は全て破壊するか傷をつけるのが習わしであった。地上において全き物は、地下においては壊れていて使い物にならないのだから。

 グムソムは次に、ツェグナが引っ張り出した針仕事の道具に刀を振り下ろす。少年の瞳に落ちた影に、少女の体は硬直してしまった。濃い緋色の双眸が一瞬アムタグの亡骸に投げかけた眼差しは酷く乾いていて、一切の感情が伺えなかったから。

 少年が小刀を鞘に納めるとすぐ、男たちの一団がやってきた。

「叔父さんたち、頼む」

 姉の埋葬の手伝いをグムソムが頼んだのは、兄弟の叔父一家らしい。壮年の男と青年二人は、グムソムとは顔立ちがどこか似通っていた。

「……お前の頼みだから構いやしねえよ、グムソム。俺とお前は同じ炉の主だしな。でもナヤンはどうしたんだ? そこの可哀そうな嬢ちゃんは女だから仕方ねえけど、そこでぼさっと見てるだけのつもりなのか?」

 埋葬の際には女を関わらせない決まりがある。だが男にはそういった禁忌は存在しないため、兄弟の叔父ダヤルギンのぼやきは当然と言えば当然だった。

「兄さんは川に入ったから、ちょっと体調崩したみたいなんだ。無理させたくない」

「――ったく」

 ぎろり、と男は横目でナヤンの蒼い顔をねめつける。彼が呑み込んだ言葉を察するのは容易かった。役立たずめ。亡骸の前でさえなければ、兄弟の叔父は躊躇いなく吐き捨てただろう。

 入口から出て行った死者は同じ道を辿って戻ってきて、家族の誰かを連れて行ってしまう。これもまた草原においては常識であった。故にアムタグの亡骸もまた、天幕の裾から運ばれていったのである。

 少女は瞬きもせず、この世で最後に見る姉の姿を脳裏に焼き付けた。

 ――姉さん。どうして日があるうちに川に入ったの? 水を汲む時に、足を滑らせて落ちてしまったの?

 もはや応える者のない問いかけは、呑み込むしかなかった。

「叔父さんの態度はあまり気にしないでくれ。昔から厳しい人なん、だ」

 視界から一団の影すらも消えてしまった後。ナヤンはできる限り平静を装っているが、絞り出された弁明にはあからさまに咳が混じっていた。彼の魂は体から抜け出してしまったのかもしれない。

 魂は主に睡眠中に、虫や小動物の姿をとって体から抜け出してさ迷い歩く。そうして魂が見聞きしたものが夢だ。しかし睡眠中でなくとも、魂が体から抜け出すことはままある。驚いたり、悪寒を感じた瞬間がそうだ。

 睡眠中以外に魂が出て行ったとしても、意識を失ったり、動けなくなるわけではない。しかし顔色が青ざめるなどの症状が現れるのだ。まさしく今のナヤンのように。ナヤンはきっと、川に入った際に肉体が驚いたか寒気を感じて、そのために魂が抜けだしてしまったのだろう。

「……君には申し訳ないが、グムソムたちが戻ってくるまで、俺の天幕で休ませてくれ」

 もしかしたら熱も出ているのかもしれない。鮮やかな紅の目を先ほどよりも潤ませた青年は、申し訳なさそうに呟いた。独りになりたい、と。

「分かりました。……とはいえ、あなたも炎の清めを受けないといけませんから、グムソムさんたちが戻ってきたら呼びに行きます」

 魂は一般的には、放っておいてもそのうち肉体に戻ってくる。が、悪霊に捕まったり、はたまた道に迷ったりなどの障害に遭遇し、長く肉体を不在にする場合もあった。そうして九年魂が戻らなかったら、その肉体は死を迎えるのである。だからしばらく様子を見て、ナヤンの魂が戻った兆しが確認されなかったら――体調が回復しなかったら、巫者シャーマンの元を訪れなければならないだろう。


 埋葬の際は、死者の愛馬を屠り、その肉を立ち会った者たちで食らい、皮と頭蓋をも供えるしきたりがある。そのため少年たちが戻ってきたのは、夕暮れ間際になってからだった。

 埋葬の後は、亡骸に少しでも接した人物や遺品は二つの炎の間を通らせるか、煙を浴びせなければならない。浄化の作用を有する火もしくは煙でなければ、死の穢れは清められないのだから。

 だからツェグナも、ごうごうと燃え盛る炎の間を歩んだ。しかしその間に、グムソムとナヤン兄弟以外のダルキル族から向けられた眼差しは氷そのもので。ツェグナの体中に突き刺さった敵意は、長年の怨敵であるトゥグナト族であるという事実だけでは説明しきれなかった。

「それにしても、日が昇っている間に川に入るだなんで。……恐ろしいことをしでかしてくれたもんだね」

「働き者で感心な娘だと思ってたのに、最後にこんな真似をしでかすなんて。……夫の後を追いたい気持ちも、分からないではないけどさあ。だったらだったで、別のやり方があるだろうに」

 やめた方がいいと理解しているのに、少女は密やかに紡がれる蔑みの方向を確認してしまった。視線の先の女たちは、皆一様に顔を歪めている。彼女らは皆、同じ部族の者と結婚してはならないという掟に従い、他の部族から嫁いできた者であるはずだ。だから、トゥグナト族の生まれついての怨敵ではないはずなのに。

 太陽が空にある間に川に入ると天の怒りを招き、雷が落とされる。生きた姉の姿が最後に目撃されたのは早朝だったという。小用で天幕を出たナヤンが、挨拶を交わしたというから、事実なのだろう。

 そして、姉の亡骸が見つかったのはまだ明るいうち。つまりアムタグは理由は定かではないが、日中に川に入ったのだ。なんて罰当たりな真似をするんだろう、と周囲の者が眉を顰めるのももっともだった。アムタグは愛する夫の死に耐え切れず、身投げして後を追ったと解したのも。それでも、ツェグナは叫びだしたかった。

 ――これはきっと事故なんです。姉さんはそんな冒涜的な真似をする人じゃありません。

 姉の潔白を訴えたかったのに、喉はひゅうとなるばかり。

「あ、あの、」

 ようよう絞り出せた喘ぎに反応したのは、傍らにひっそりと立つナヤンだけだった。

「トゥグナトってのは今も昔も、恥知らずばっかりだな!」

 ダヤルギンは相変わらず体調が悪そうな甥と、その花嫁となるはずだった娘をねめつける。炎に照らされた頬に刻まれていたのは紛れもない嘲笑だった。この人も、姉は自殺したと決めつけているのだ。

「叔父さん。今はそういうことはよした方がいいんじゃないか? アムタグさんの魂が聞いてたら大変だし、アムタグさんは父さんとあんなに仲が良かったんだから、仕方ねえよ」

 姉の義子であったグムソムは、この部族では比較的トゥグナト族に好意的な方だろう。しかし彼もまた、姉は自殺であると疑っていない。

「炎の近くに死霊が来るもんかよ。それよかグムソム、今晩お前は俺の天幕に来い」

「なんで?」

「今回のことで、ノルホン川の主は絶対に怒ったはずだ。怒りを鎮めてもらうために、近々巫者のとこに行かなきゃならねえだろう。その日取りを、他の家長と話し合うぞ」

「あー、そうだな。……でも、貢物は俺が出すよ」

 姉の潔白を訴える勇気を持たない娘は、ただただ身を縮ませて、糾弾の眼差しに耐えていた。

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