焦燥より Ⅰ
柔らかな風にそよぐ草を食む羊たちは、永遠の蒼天から見下ろせば真珠そのものだろう。では、自分はどうなのだろう。薄い栗毛の馬の背の上で、ツェグナはふと考えた。自分が生まれるよりも前に叔父がしでかした、花嫁略奪事件。その後始末をさせられる娘か。もしくは、長年の怨敵である部族に嫁がされ娘か。どちらにせよ、哀れな身の上であるのは変わりなかった。
――選りによってダルキル族に嫁がされるなんて、姉妹揃ってなんて可哀そうなのかしら!
同じ部族の同じ年頃の少女たちが、蔑み混じりに囁いていた同情の文句は、耳の奥に僅かに残っている。そろそろダルキル族の
けれども娘は、齢十五にして敵陣に単騎で乗り込む最中にしては、悲観していなかった。嫁ぎ先の部族には、姉が三年前に嫁しているのだから。姉アムタグは、父と母が病に倒れてからは、ツェグナの唯一の家族であった。厳しくも優しい姉と、久々に言葉を交わす時が楽しみでならない。
姉はツェグナと同じ理由で、トゥグナト族ならばこの草原で何よりも忌み嫌うダルキル族に嫁がされた。しかし姉の夫は存外に優しくて、姉を愛し慈しんでくれたのだという。我が娘を敵にくれてやるのを惜しみ、代わりに姪二人を差し出した叔父よりも、よほど。それに、ツェグナの夫となる青年は、姉の夫の長男だ。良い関係を築けると信じたい。
一年で最も喜びに満ちた夏を迎えた草原は、緑の地に白や黄色、赤や青の点を散らした織物そのもの。
族長やその妻子といった有力者ならばともかく、一般の草原の民は羊毛を固めて作る
少女が薄い唇に笑みを乗せると、
ただ、持参した馬乳酒がそろそろ尽きかけている。だから少なくとも夕暮れまでにはダルキル族の夏営地に到着したかった。それに、太陽が沈めば狼が出るかもしれない。トゥグナト族もダルキル族も、その他の部族も、天神の命を受けて生まれた狼の末裔である。だからといって狼を恐れないはずがなかった。
遊牧を営む民は、季節によって
今年は良い草に恵まれているから、このままノルホン川の畔を目指していればよいはずだ。とにかくこのまま、真っ直ぐ東に。
少女が己の心と愛馬の
既婚の婦人の証たる二本の三つ編みにも、帯を締めない服にも、ツェグナはまだ慣れなかった。草原の娘は、嫁するまでは髪は一つに編み、帯を締めるものだから。
一方今の自分と同じ格好で嫁いでいった姉アムタグは、戦士さながらに凛々しかった。しかし内心では、ツェグナと同じ想いに揺れていたのだろうか。それでもなお姉は、冷たい叔父一家のただなかに残される妹を不安がらせまいと、気丈に振る舞っていたのだろうか。
たったの三歳しか年が離れていないというのに、姉はツェグナを妹というより娘のごとく可愛がってくれていた。そしてこれからは、ツェグナが姉を支えるのだ。心を通わせあっていた夫を喪って間もない姉は、ひどく落ち込んでいるらしいから。
姉の夫はダルキル族きっての
持参金とする家畜や家具を決定する話し合いの場で、使いとして訪れたダルキル族の者が詳らかにした、姉の近状を耳にした際は、胸が痛んだものだった。姉の亡夫はともかく、ダルキル族の大半はトゥグナトの女を真実受け入れてはおるまい。そんなダルキル族の者が哀れみを募らせてしまうほど、アムタグは憔悴しているのだ。生真面目で、人に弱みを見せるのを良しとしなかったあの姉が。
ツェグナの婚礼は、姉の夫が冥府の先祖の列に加わる前から決まっていた。また婚礼の季節たる夏の間に喪は明けるので、滞りなく進められた。寡婦は一年は再婚できないとはいえ、姉が晴れの場に顔を出すには何らの障りもない。その場でツェグナは、姉にある提案をするつもりだった。
子がないまま――あるいは子がいてもまだ幼い間に――夫に先立たれた草原の女は大抵の場合、自分の腹から出たのではない亡夫の息子と再婚する。亡夫に息子がなければ、兄弟などのできるだけ近い関係の者と。
冥府に下った魂は、なおも生前と同様に暮らす。一族とともに住まい、家畜の世話をし、狩りをするのだ。ただ、二人以上の夫を持った女が赴くのは、常に最初の夫の元である。草原では大抵の場合は、「
姉の亡夫には、先妻が生んだ息子が二人。姉は次男の妻に収まればよいし、慣習に照らしてもそうすべきである。ただそれを控え目な姉や、元服して間もない十四歳の少年が言い出せるかどうか。だからツェグナが、宴の場で進めるのだ。一年後は姉さんとグムソムさんたちの婚礼だね、と。
アムタグが無事に亡夫の次男の妻となれば、今度はツェグナが姉となる。そうしたらゆっくりとこれまでの恩を返し、互いの子の世話をしあって……。
未来の幸福を夢想し輝く茜色の瞳に、羊でも雲でもない白い物体――
ざっと確認したところ、天幕は八つ。夫となる青年は自分を娶ると決まった際、父親から天幕といくらかの家畜を与えられた。さすれば男は家長と名乗ることを赦されるが、真の独立は妻を娶り子を儲けて初めて達成されるものである。
つまりこの夏営地では現在は、八から一を引いた、七家族が暮らしていると見てよいだろう。富裕な家ならば二つ以上の天幕を持ち、用途に応じて使い分ける場合もある。だがチャルダラン氏はダルキル族の中でも傍流の方だ。
自分が呼べば、姉はきっと来てくれる。そうして抱きしめて、会いたかったと言ってくれる。
「――姉さん」
娘は馬から降り、あらんかぎりの声を張り上げたのだが、応じる者はなかった。もしかしたら放牧の手伝いにでも行って、天幕を留守にしているのかもしれない。
叔父一家や同じ部族の者たちに散々、「声が陰気でぼそぼそしている」と罵られ続けたツェグナのことだ。出せる限りの声量を振り絞ったつもりなのだが、姉には届かなかったのかもしれない。ただそれでも、こちらに近づいてくる人影はあった。それも、二人。
草原では、ちょっとした移動にも自らの足ではなく馬を用いる。いくらある程度固まっているとはいえ、天幕と天幕の間は大抵、徒歩で訪れるには遠すぎる程度に離れているのだ。よって、ツェグナに接近してくる二人も騎馬していた。うち一頭の馬は姉の愛馬に似た黒い毛をしている。
あれは姉ではないか。少女の胸は切なく疼いたが、ややして期待は見事に裏切られた。件の人物は体格から察するに男だったのだ。それに、馬の毛色も微妙に違った。
姉の愛馬は青毛――陽光が当たってもなお色褪せぬ漆黒である。対して名も知らぬ男が跨る馬は、鼻や腹のあたりに茶色を帯びる黒鹿毛だった。なおもう一頭は、亜麻色の胴体に黒っぽい四肢と
ツェグナは姉以外の人間の前に出ると物怖じしてしまう。それでも、この二人に話しかけないわけにはいかない。
「わたし、トゥグナト族コルドス氏のツェグナです。ナヤンさんの妻になる……」
少女は俯き、馬の手綱を握りしめながら名乗りを上げる。
「あんたがツェグナさん?」
すると、高い声が存外に近くから響いてきた。驚いて面を上げると、真っ先に飛び込んできたのは、真っ直ぐでしっかりとした眉が印象的な顔だった。背格好はツェグナとさほど変わらないが、顔つきから察するに少年で間違いないだろう。
少年とともにやってきた青年は、驚くほどの美青年だった。日に焼けて濃い肌色をした少年とは対照的に、雪と紛う透き通る皮膚をしている。青年の白い肌に刻まれた造作は、並みの女よりもよほど麗しかった。少なくともツェグナよりは、ずっと。ツェグナの取柄と言ったら、濡れたように艶を放つ髪だけなのだ。
「ええ。……あの、」
生来の性質ゆえ、娘は喉元まで出かかった問いを発せられなかった。
この二人には、一体どんな繋がりがあるのだろう。少年もそれなりに整った造作をしているが、青年とは比較にならない程度である。それにそもそも全く似ていない。ただ、ツェグナには彼らの関係性よりも気になる点があった。彼らは二人とも、常に強い日差しに晒される草原において欠かせない帽子の下の髪を、背に垂らしているのである。
草原の者は男も女も長く伸ばした髪を編む。そして元服した男ならば部族ごとに違いはあるものの、十本以上の三つ編みにするのだ。
ただ、家族が死亡した場合は例外である。喪が明けるまでの四十日間は、毛髪を編まずにそのまま垂らすのが決まりだった。身なりに構う余裕すらないという、悲哀の証として。暗澹とした面持ちといい、彼らがつい最近近しい者を亡くしたのは間違いないだろう。
「……やっぱり、アムタグさんに似てるんだな」
少年が噛み締めていた唇から押し出した囁きは、やはり沈痛だった。
「俺はグムソム。こっちが兄さんのナヤン」
少年が名を告げてもなお、彼の傍らの青年は、面を伏せたまま。己の花嫁となる娘に、労いの言葉の一つかけてくれる様子はなかった。もっともナヤンは、今にも倒れそうに青ざめた顔色からして、立っているだけでやっとなのかもしれない。
何はともあれ、彼らの父の喪はとうに明けているのに、どうして髪を編んでいないのか。
「どうか落ち着いて……なんて無理だろうけど、聞いてくれ」
怪訝に眉を寄せた娘にとって、その答えは受け入れがたいものだった。
「あんたの姉さんが……アムタグさんが、ノルホン川で死んでたんだ。俺と兄さんが、姿が見えないアムタグさんを探したら、川の傍にアムタグさんの青毛がいて。それで、底を覗いたら……」
震える唇が紡ぐ衝撃は、少女の希望を粉々にした。
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