上天より
田所米子
序 水中より
流れる水とは痛みを覚えるほど冷たいのだと、女はこの時初めて知った。悲鳴を上げる間も、助けを求める間もなく転落した川の水は、針となって女の全身を刺す。あるいは凍った藪に転がり落ちてしまったら、今まさに女を悶絶させている感覚に見舞われるのかもしれない。
女を掴んで離さない水が、これほど冷ややかなのはなぜだろう。夏とはいえいまだ日が昇って間もないためか。
草原の朝の厳しさを、女は骨身に沁みて理解していた。女は生まれて九回目の春を迎えた時分に父母を喪った。そうして妹と共に叔父の一家で、奴婢さながらに使役される日々が始まったのである。以来女は太陽が空を茜色に染める前に、床から出るのを常としていたのだ。
女は、従姉妹の擦り切れたお古を押し付けられ、家畜の世話に追われる最中、涙したことはなかった。母親に仕立ててもらった刺繍も眩い晴着を纏う、同じ年頃の娘たちを、羨んだ覚えはないと言えば嘘になる。それでも女は、大切な者のために働くのを、何よりの喜びとしていたのだ。嫁す前は、三つ下の可愛い妹のため。嫁してからは、年が離れた優しい夫のために。
女同様に他部族から嫁してきた他の妻たちが、時に眉を顰め諫めるほどの献身。その裏には密かな対抗心があった。働き者であったという夫の前妻に負けてはならぬと、女は胸の中で密かに炎を燃やしていたのである。
夫の前妻は身目麗しい女性だったという。翻って平凡な容姿の自分が女の仕事を怠れば、夫の心はたちまち己から離れるだろうという不安も、もちろんあった。
しかし夫は女の憂いを知ってか知らずか、女を慈しんでくれた。お前はお前だと、過去の諍いを背負わずともよいと。だから女は己と変わらぬ齢の息子を持つ夫を愛したのだ。夫と共に過ごした日々は、心も体も満ち足りていて幸せだった。幸福は三月前に、あっけなく女の元から去っていったけれど。
青ざめた剝き出しの項を、緩やかな流れがそっと撫でる。川を汚すと上天の怒りを招き雷を落とされるのだと、草原では語り継がれている。だのに、ぼやけた視界に映る空は相変わらず穏やかだった。
女の唯一の取柄といえる艶やかな髪は、夫が生前愛用していた品とともに、夫に供えるべく切り落としていた。それもまた草原の女の習わしであったが、女はたとえそのような決まりがなくとも、己の密やかな宝を夫に捧げただろう。
そう。女は夫を誰よりも愛していた。だからこそ、自分を母として受け入れてはいない夫の息子たちを、我が子として遇してきた。
子は父から骨を、母から肉を継ぐ。骨と肉を繋ぐのが血である。夫から骨を継いだ子供がいるからこそ、女は夫亡き後も生きていたかった。生きていけるという、希望を持てた。だのに、どうしてこうなったのだろう。
穏やかに流れるが深い川は、さして大柄ではない女の体をすっぽりと呑み込んでいた。水を吸って重くなった衣服は、蛇のごとく女の全身に絡み、締め付けている。
このまま水に翻弄されるままだったら、自分はどうなるのだろう。息苦しさとないまぜになった不安は、女を戦慄かせた。
この世の全ての川は北の海に注ぎ込み、その北の海にはぽっかり開いた大きな口が開いているという。世界を取り巻く海には、牙に猛毒を隠し持つ大蛇が潜んでいるともいう。さすれば自分は、古老の昔語りの二つの恐るべき大口のいずれかに吸いこまれるのだろうか。いや、その前に息が尽きてしまうだろう。
夫を女たちが住む世界から連れ去ったものを意識すると、ただでさえ冷たい背筋は凍り付いた。今、自分は死ぬわけにはいかない。冥府の主の従者に捕らえられるわけにはいかないのに。
――これは、何かの間違いだ。きっと……。
確かな期待を求めて伸ばした指を掴む者はなかった。遥か昔、炎から作られたとも、天神の鏡であるとも唄われる太陽。その暖かな――女が渇望する熱に焼かれた空よりも暗い色合いの瞳が、絶望に瞠られる。そうして幾ばくかの後、零れた熱い涙は河の水と混じりあった。滴るそばから冷たくなっていく雫を拭ってくれる力強い指はもはやない。夫の堅い指先はとうに神聖なる大地の中で腐敗し、柔らかく崩れているのだろう。
女が水鳥であったら。原初の乳海に三度潜り、大地の元となった泥を咥えて持ってきたという
思いつく限りの懐かしい名を叫んでも、音ではなく銀色の泡となるばかり。
――せめて、あの子に会いたかった。そうして、このことを伝えたかった。
ひときわ大きな泡を吐き出した女は、最後の力を振り絞り、帯を締めぬ腹に手を当てた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます