愛情より Ⅲ

「……皆さんご存じのとおり、わたしと姉さんは叔父のかつての過ちを償うべく、チャルダラン氏の花嫁となりました」

 心情の上では身内でもなんでもないとはいえ、確かに叔父である男が犯した罪と向き合うと、叫びだしたくなってしまった。草原においてはあり触れたものでもある行いが、どんなに多くの人生を狂わせたのか、知ってしまったからこそ。

「ニルチャさんが嫁入りする最中、その姿を見かけた愚かな叔父は、美しいニルチャさんに一目ぼれしたのです。そうして氏族の仲間と共にニルチャさんを攫った」

 もっとも、当時から腕っぷしで知られていたグムソムたちの父によって、花嫁はすぐに奪い返された。叔父はグムソムたちの父と、ニルチャを賭けて争ったものの敗北した。そうして将来娘が生まれれば差し出せとの、屈辱の誓を結ばされたのである。もっとも後に色々と理由を付け、条件を変更させたのだが。

 ニルチャがトゥグナト族の――ツェグナの叔父の元にいたのは、ほんの数日だった。だから兄弟の父は、後にこんなこと・・・・・になるなんて、全く考えていなかったのだろう。

 何はともあれ、兄弟の母は多少の波乱はあったものの、無事に婚約者の妻となった。

 一度他の男のものとなったとしても、草原においては結婚の妨げにはならない。ハフルの母など、身ごもった状態でイェフチェの妻に納まったぐらいだ。

 しかし取り戻されてから数か月以内に、ニルチャの懐妊が明らかになった。そうして流石に彼女の過去が問題となったのだろう。腹の子は夫の子なのか、ツェグナの叔父の子なのか、と。

 これまたどちらの子なのかはっきりしない時期に生まれた赤子が、女児であれば良かったのだろう。娘はいずれ嫁して部族を離れるのだから。

 あるいはいつかのグムソムの発言の通りに、グムソムとナヤンの兄弟の生まれる順番が逆であったら。父親似だというグムソムならば、微妙な時期に生まれたとしても、ニルチャの夫の子だと認められただろう。

 哀れな女性は、仇敵トゥグナト族の子を孕んだに違いないとの、蔑視の日々をどうにか耐えた。けれども生まれてきたのは残酷にも、母親にそっくりな男児であるナヤンだった。そうして哀れな女性とその息子は、複雑極まりない立場に置かれることになったのである。

 兄弟の母は取り戻されずにツェグナの叔父の妻として、トゥグナト族で暮らしていた方が、まだしも心穏やかに過ごせたのかもしれない。ただ皆が皆、ニルチャ母子を排斥していたわけでもないだろう。

 たとえばコユやその母は、比較的友好的に母子に接していたに違いない。しかしその彼らとて、ナヤンはトゥグナト族の子ではと疑っていたのである。でなければ、どうしてゲレルタヤがあんなにも、ツェグナにグムソムとの結婚を進めてくるだろうか。ゲレルタヤは親切心から、禁忌である可能性がある婚姻を止めようとしていたのだ。

 積極的な敵意と消極的な否定に晒され続けた日々で、ナヤンはどれほど苦悶したのか。ツェグナにはその全ては想像できない。できるはずがない。しかし、幾分かは察せられた。

 ――トゥグナトの子のくせにでかい面しやがって。

 テヌゲドの死が明らかになり、皆で今後の対策を話し合った後。もう亡い青年が吐き捨てた暴言は、ツェグナではなくナヤンに向けられたものだったのだろう。だからこそグムソムは、負けると分かっていても、従兄に挑んでいったのだ。

 少女が推理を詳らかにすると、少年は唇を噛み締めた。

「だからあなたは後で、“あそこまでしてくれなくても良かった”と言った時、驚いたのですよね?」

「……」

 ツェグナの問いかけに、少年はますます悲痛に面を歪ませる。それが何よりの答えだった。

 引っかかる点は他にも沢山ある。例えば姉の葬儀の後、既に独立していたナヤンを、ダヤルギンは家長たちの集いに呼ばなかった。これはダヤルギンがナヤンの体調を慮っていたのではなく、兄の子として認めていなかったからかもしれない。

 流石に思うところがあったのだろう。今は面を伏せているオゲネイとボソル兄弟が、先ほどまでは余裕そのものだったのも、ナヤンを同族と認識していなかったためではないか。そして皆のそういった態度が、ナヤンを少しづつ蝕んでいったのだ。辛いどころではない日々において、ナヤンの味方は家族だけだったのだろう。

 父親は、ツェグナとの婚姻を整えることで、ナヤンはダルキル族であると――自分の息子だと認識していると示してくれた。しかし彼の父親はその後すぐに絶命してしまった。そうしてナヤンに残された味方は、可愛い弟であるグムソムだけになった。寄る辺ないナヤンが弟を心の支えとし、弟のためだけに全てを捧げたとしても、驚くには値しない。

 グムソムもまた、兄はダルキル族であると心から信じているに違いない。しかし父や弟に認められていても、ナヤン自身が自分の出生に疑いを挟んでいては、苦しみは無くならないのだ。

 兄弟の母ニルチャは、非常に美しいだけでなく働き者だったという。彼女はツェグナの叔父によって運命を狂わされていなければ、誰よりも幸福になれたのだろう。しかしその母親も、周囲からの冷遇の果てに、病に倒れてしまった。真面目で心優しいナヤンは、トゥグナトの子である自分を産んだから母は不幸になったと、思い詰めてしまったのだ。しかしそもそも、ツェグナの叔父に――トゥグナト族コルドス氏に目を付けられなければ、兄弟の母は不当な苦しみを味わわずに済んだ。

 故に川の主の発言を聞いたナヤンは、あと六人殺そうと決意したのではないだろうか。ナヤンは自分をトゥグナト族であると認識していた。ならばあと六人殺せば、母の苦悩の大本であり、仇敵でもあるトゥグナト族を根絶できると考えたのだろう。コルドス氏はトゥグナト族では最も大きな氏族だ。コルドス氏が壊滅すれば、トゥグナト族そのものの存続が危うくなりかねない。

 とはいえ、何の罪もない六人の息の根を止めるのは、心が痛んだはずだ。だからナヤンはせめて、母を特に苦しめた者たちを犠牲者に選んだのではないだろうか。

 問いかけると、ナヤンは震える手を握りしめた。

「……その通り、だ」

 トゥグナト嫌いであったというテヌゲドは、友人の妻でありながら仇敵の子を産んだと、ニルチャを責め続けたのだろう。彼の怒りは、友人を想えば想うほど燃え上がったはずだ。だからグムソムは、テヌゲドに可愛がられていたにも関わらず、彼に好意を抱いてはいなかったのだろう。

 酷いトゥグナト嫌いであったというダヤルギンや、夫に影響されてトゥグナト嫌いになったという彼の妻。及びダヤルギンの息子たちは、ニルチャやナヤンにどんな態度を取っていたのだろう。その一端を物語っているのが、テヌゲドの死が明らかになった後の一件ではないだろうか。

 ナヤンがテヌゲドやダヤルギン一家を憎んでいたとしても、少しもおかしくはない。むしろ当然だった。彼らには、ナヤンに殺意を抱かれるに十分な理由があったのだ。だからこそ、見張りの任が解かれ久々に家族だけが揃った晩にすぐ、ナヤンはダヤルギン一家を殺害したのだろう。

 ハフルは同族の好もあって兄弟の母に可愛がられていた。だのに周囲の言いなりとなって、ニルチャを深く傷つけたのだ。ナヤンは内心で、ハフルへの侮蔑を募らせていたのだろう。そしてそんな相手に今更好意を伝えられたとしても、嫌悪感が大きくなるばかりだっただろう。

 ナヤンもハフルが態度を変える以前は、それが恋愛に基づくものかはともかく、彼女に好意を抱いてもいただろう。そんなハフルに急に拒絶されてしまったのだ。かつてのナヤンは裏切られたと感じたに違いない。そうして、ハフルへの憎悪はますます強くなっていった。

 ――お前、テヌゲドやハフル、ダヤルギン一家はともかく……。

 ハフルが当時ナヤンやその母に取っていた態度の冷たさは、コユも言外に認めている。ハフルは他者から見ても、ナヤンに殺されて不思議ではない振る舞いをしていたのだ。

 もっともハフルについては、ツェグナが彼女の気持ちをきちんとナヤンに伝えられていたら、また別の道があったかもしれない。しかしどんなにハフルが悔いたとて、兄弟の母ニルチャは救われないのだ。

「済まなかった、ナヤン。……俺や妻のことはいい。でも、ハフルは赦してくれないか? でないとあいつはあの世でも……」

「あんたやハフルに今更謝られたところで、母さんが泣き暮らした日々は無くならない」

 自分の言動が娘の死を招いたと悟ったのだろう。イェフチェは掠れた声を絞り出したのだが、ナヤンは冷ややかに拒絶した。

「あんた、グムソムが生まれるまでずっと、母さんに言ってたそうじゃないか。“トゥグナトの子にダルキル族の財産を奪わせるつもりか”って。あとついでに、オゲネイさんとボソルさんは父さんに、俺を殺すよう勧めてたそうだな。あんたらのお袋さんが教えてくれたよ。あの人、ほんと親切・・だよな」

 この天幕に集ったチャルダラン氏のほとんどは、ある意味罪人だったのだ。少女は軋む胸を抑えずにいられなかった。

「俺は、自分も含めてトゥグナト族なんて滅びればいいと思いながら生きてきたよ。だから今回の事件を起こしたんだ」 

 しかし唯一罪のない少年は、兄に縋りつく。

「どうしてだよ、兄さん! ……確かに母さんのことを考えたら腹も立つけど、でもテヌゲドさんたちを犠牲にしてまで、トゥグナト族を滅ぼそうとするなんておかしいよ!」

 グムソムは涙どころか鼻水まで垂らしていたが、ナヤンは弟を拒絶しなかった。むしろ、仕方がないなとでも言いたげな、慈しみ深い目を弟に向けていた。

「俺たちがトゥグナトを滅ぼすとしたら、草原の男らしく戦って、だろ!?」

 慈母と紛う笑みを浮かべた青年は、泣きじゃくる弟をそっと抱きしめる。

「お前はやっぱり馬鹿だなあ。武芸は何もかもからきしのお前だ。戦に加わっても、真っ先に倒されるに決まってるだろ?」

 その手つきの優しさが、少年に兄の最後の動機を教えたのだろう。

「――もしかして、トゥグナト族を滅ぼそうとしたのも、結局は俺のためなのか?」

 呆然と呟いた少年の双眸からは、再び滂沱の涙が溢れた。

「俺を本当の意味でダルキル族として扱ってくれたのは、今ではグムソム、お前だけだからな」

「……兄さん」

 これまで黙してツェグナの推理に耳を傾けていた川の主は、あやすように弟の背を撫でる青年をじっと見据える。

「……罪深き者よ。そなたはまことダルキル族の子である」

 若き弟子が躊躇いつつも通訳したその言葉を、ナヤンはどれほど欲していただろう。彼が心底渇望していただろう承認が、どうして選りによってこの瞬間に与えられたのか。川の主はなぜ、ナヤンに真実を告げたのだろう。自分の領域を汚した者を更に苦しめるつもりなのだろうか。

 ツェグナは川の主の様子を伺ったが、その静かな面からはどんな感情も読み取れなかった。蔑みすらも。

 かっと目を瞠った青年は一筋の涙を流した後、息も殺して己を見つめる者たちに微笑みかける。そうして彼は、男ならば誰しも帯から下げている小刀を掴み、喉を割いた。ツェグナとグムソムは止めようとしたけれど、間に合わなかった。 

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