終 上天より

 亡骸となった兄に縋りついて涙する少年の背を、少女は悲しく見つめる。その茜色の瞳もまた、熱い涙で濡れていた。

 川の主の発言を抜きにしても、この結末は十分に予測できた。なのにどうしてナヤンを止められなかったのだろう。恐らくだがナヤンは、九人目の犠牲者として・・・・・・・・・・死ぬつもりだったのだろう。自分が生き続け、犯人だと突き止められた場合、グムソムに迷惑が掛かってしまうから。ナヤンは全てを諦めていたからこそあんなにも静かな――透明な目をしていたのだ。

 今にして思えば、川の主からの罰は、いつどんな風に下されるか告げられていない、あやふやなもの。だからナヤンは、九人が死んだとしても時が過ぎれば皆忘れるだろうと、考えていたのかもしれない。

 ナヤンがツェグナに犯人と見破られるまで生きていたのも、グムソムのためだろう。ナヤンはきっと、叔父一家を喪った弟の気持ちがある程度落ち着くのを待っていたのだ。

 姉たちを殺したナヤンへの怒りは無論ある。だが、悲しみが凌駕していた。

 ――どうしてわたしたちは、ナヤンさんを止められなかったんだろう。……どうしてナヤンさんを救えなかったんだろう。

 噛み締められた奥歯からはぎり、と軋む音が響いたのだが、少女の耳には届かなかった。心の軋みに紛れてしまったために。

 もしも何かが違っていたら、弟想いの優しい青年であるナヤンは、一連の恐ろしい罪を犯さなかったはずだ。ツェグナとグムソム、ナヤンで姉とその赤子を支える。そんな未来もあったはずなのに。どうしてそうならなかったのか――

 いつしか少女は少年の傍らに膝から崩れ落ち、泣きじゃくっていた。しかし川の主は、ぐしゃぐしゃになった二つの顔に、冷ややかな視線を投げかけるばかり。

「心中お察しいたしますが、そろそろ……」

 老巫者の弟子の冷静な指示のもと、ナヤンの遺体は男たちによって毛氈で包まれた。これ以上大地を血で汚さぬために。

「もう、顔も見れないんだな」

 少年の掠れた声は、静かな天幕の中でいやに大きく響く。

「……そうですね」

 グムソムはもう泣いていなかった。なんとか涙を抑えていた。

 そうだ。ナヤンはこれから冥府に向かわなければならない。なのに自分たちがこんなにも泣いていたら、彼のただでさえ困難な旅の障害が増えてしまう。ましてナヤンは冥府に辿り着いた後も、冥府の主が下す、いつ終わるかも定かではない罰に服さなければならないのだ。せめて黄泉路を辿っている間は、彼が少しでも安らかでいられるようにしなくては。

 二度、三度と深く息を吸うと、涙はどうにか止まってくれた。

「さて。そなたらは九つの命が喪われるのを止められなかったのだが、罰の覚悟はしておるのか?」

 もしかしたら川の主は、ツェグナやグムソムの慟哭が静まるのを、待っていてくれたのかもしれない。嗚咽が治まったまさにその瞬間。朗々と告げられた言葉は、通訳なしには意味を解しえなかったものの、確かな愉悦の響きがあった。

「我にとっては馬の供物の方が好ましかったのだが……そなたらが約束を守れなかったのだから、致し方あるまい」

 ツェグナはアムタグの喪が明けるまでに、犯人を特定できた。しかし九つの命が喪われるのは止められなかった。そしてナヤンはダルキル族チャルダラン氏の一員である。よって川の主は以前の宣言通り、チャルダラン氏に裁きを下すのだろう。

 忘れていたわけでは決してないが、改めて突き付けられた事実は、その場に居合わせた全ての人の子を戦慄させた。

「……川の主さまを失望させてしまいましたこと、申し開きのしようもございませぬ」

 少女は慌てて川の主の足元に平伏した。少年もまた、少女に倣って平伏する。

「しかしどうか、なにとぞご容赦いただけませんでしょうか? 川の主さまが望まれるのでしたら、どんなものでも捧げますゆえ」

 川の主に取引を持ち掛けた少女の無謀さに、家長たちのある者は呆気にとられ、ある者は恐ろしさのあまり硬直した。

「娘。そなたは、そなたらが用意できる程度の品で、我が満足できるとでも思っているのか? それは驕りではないか?」

 人ならざる者はくつくつと嗤う。確かに川の主の言う通りだ。族長の一族に生まれついたわけでも、さして裕福でもないツェグナたちが用意できる供物など、たかが知れている。

 ノルホン川の主に捧げ物をするのは、チャルダラン氏だけではない。広く崇拝されている川の主は、富裕で有力な氏族の供物をも受け取っているのだ。目の肥えた川の主を満足させるには、どんな手を打てばよいのか。

「……楽を捧げます。それが、家畜やその産物を除いてわたしたちが差し出せる、ただ一つのものでございますゆえ」

 思い悩んだ末に少女が辿りついたのは、両親が健在であった頃の暖かな記憶であり、傍らの少年との心弾む会話であった。自分もグムソムも、幾ばくかの音楽の心得がある。もうこれしか利用できるものを思いつけなかった。

「これからは毎年、馬を捧げる日に川の主さまに楽の音をも捧げ、川の主さまを称え続けます。我らだけでなく子や孫――子々孫々に至るまで、川の主さまの無聊を慰めるべく、力を尽くすとここに誓います」

 成功するかどうか定かではない、一種の賭けであった。しかしツェグナの策は川の主の興味をどうにか引けたらしい。

「だからどうか、我らの末裔が川の主さまのために奏でるのを止めるその時まで、罰を下すのは待っていただけないでしょうか?」

 沙汰を待って地に額を擦りつけていると、張り詰めていた空気がふっと和らいだ。

「傲慢だが勇気ある娘よ。そなたの願い、聞き届けようではないか」

 覚悟を決めて面を上げる。川の主は先ほどの蔑みではなく、慈しんでいるとも称せる、柔らかな笑みを称えていた。

「そなたが定めた日数以内に罪深き者を突き止めたのも、また事実であるしな。――ではそなたらの楽の音を、上天の君と共に楽しもうではないか」

 そうして川の主は去っていった。老巫者の魂もいずれ戻ってくるだろう。

 危機を回避した――正確には先延ばしにするのに成功したためなのか。はたまた緊張の糸が切れてしまったのか。ぼんやりと毛氈に包まれた兄の遺骸を眺める少年を、少女はそっと抱きしめる。

「共に祈り、奏でましょう。川の主さまだけではなく、ナヤンさんのためにも」

 鼻を垂らした少年は、それでも頷いてくれた。

「わたしとあなたの代で成し遂げられなければ、その次。その次が成し遂げられなければ、そのまた次……」

 涙に濡れた双眸には、しかし炎が宿っている。きっと兄の魂を救ってみせるとの、決意の炎が。

「上天より、この罪への赦しを賜るまで」

 少女はまだ細い体に回した、細い腕に力を籠めた。腕の中の少年から骨を、自分から肉を受け継いだ子の裔が、いつか彼を苦痛から解放してくれると信じて。

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上天より 田所米子 @kome_yoneko

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