愛情より Ⅰ

 食事の時間も惜しんで飛ばしてきたためか。チャルダラン氏の一行がアフズ氏族の夏営地に到着したのは、前回よりもいささか早い頃合いだった。天もまだ青く澄んでいる。

 アフズ氏族の方でも、今回の一件は知れ渡っていたのだろう。一行を最初に発見したのは老巫者でもその妻や弟子でもなかったが、ただちに目指す天幕へと案内してくれた。

「おお! よく来たな。正直儂は、どうなるものかと気を揉んでいたのだが、これで一安心だな!」

 気の良い老巫者は、朗らかに一行を歓迎する。

「では、早速儀式を始めよう。今回は冥府に下るのでも、霊と接触をするのでもないから、日暮れを待たずともよいのだよ」

 かくして足を踏み入れた天幕には老巫者の弟子もいた。今回も彼が通訳を務めるのだろう。そうして衣装を身に着けた老巫者は太鼓を――巫者の馬を叱咤する。その音色は、異界を旅する能力を有さぬただ人にとっても神秘的だった。

 陶酔に誘われた老巫者の魂がいつ体から抜け出し、天窓トーノをすり抜け、上天へと旅立っていったのかは定かではない。

「……手がかりを与えてやったというに、随分と遅いお出ましであるな。待ちくたびれたぞ」

 しかし幾ばくかの後にそこにいたのは、確かにノルホン川の主であった。前回居合わせなかったコユとナヤンが、はっと息を呑んだのが、気配で伝わってくる。

「ふむ。しかし利口に罪深き者を連れてきたではないか。それだけは褒めて遣わそう。とりあえずアムタグと申す女の喪が明けるまではと、待っていた甲斐があったというものだ」

 川の主は上機嫌らしく、くつくつと愉快そうに嗤った。この中に犯人がいるという宣言に騒めく人の子の様子を。

 そうして、ひとしきり人の子の愚かしさを堪能した川の主が、何事かを発しかけたまさに瞬間。

「――お待ちください、川の主さま」

 人ならざる者の言葉を遮るという無礼を犯した少女に、居並ぶ者は驚愕と非難の眼差しを突き刺した。

「これから先は、わたしの口から説明させていただけないでしょうか? わたしの推測が正しければ、川の主さまのお手数を省くことにもなりますゆえ。……違っていれば、笑い飛ばしてくださいませ」

「よかろう。実は我も、そなたらがいかに罪深き者を割り出したのか、興味があったのだ」

 幸いにも川の主が気分を害した様子はなかった。むしろ新たな玩具を与えられた幼子さながらに、ツェグナの次なる発言を待っている。

「そういう訳で、これから犯人が誰なのか説明します。でもその前に、一つだけ質問させてください」

 大いなる者の許可は無事に貰えたが、だからと言って緊張が解れはしない。少女は震えを抑えながらも、ある男と真っ直ぐに向かい合った。

「ナヤンさん。あなたはグムソムから貰ったという鷲木菟の羽を、今でも持っていますか? ずっと――私たちが最初にこの天幕に訪れて、川の主さまからお言葉をいただいていた頃も、身に着けていましたか? ずっと身に着けていたとしたら、火に誓えますか?」 

 質問の裏に隠された意味を、青年は一瞬で察したのかもしれない。

「可愛い弟が手を傷だらけにして見つけてくれたんだからな。俺は貰ってからずっと、肌身離さずあの羽根を身に着けている。火にだって誓える」

 それでもナヤンはいつかの透明な笑みを浮かべ、一瞬の躊躇いもなく答えてくれた。

「そうですか。――ではやはり、犯人はあなたなんですね、ナヤンさん」

 少女は表情一つ変えない――どこか物悲しい笑みを浮かべたままの青年の瞳をじっと見つめる。まるで、世界には自分たちしかいないかのように。

 しかし少女の発言は確かに波紋を広げていた。老巫者の弟子すら驚愕と狼狽を露わにし、少女と青年の様子を交互に伺っている。

 チャルダラン氏の家長たちもまた、言葉を、呼吸すらも忘れていた。そうして少女か名指しされた青年のどちらかを凝視している。しかし、いち早く我に返った者の叫びにより、静寂はついに破られた。

「――ふざけんなよ!」

 震える拳で地面を叩いた少年は、喉も裂けよとばかりに絶叫する。

「兄さんが犯人なはずはない! だって兄さんはあの晩、この天幕の中にいなかったじゃねえか!」

「……グムソム」

 自分の潔白を訴える弟の名を呼んだ青年は、この時初めてその端正な面を歪めた。涙をこらえる幼子。あるいはその子を案じる母親のごとく。

「ツェグナ! いくらあんたでも、でたらめ言ったら張り倒すからな!」

 少女は烈火の怒りに黙って耳を傾け、受け止めた。グムソムが怒り混乱するのは当然のことだから。ツェグナだって、信じたくはなかったのだから。

「……それについて、これから説明します」

 内心では未だ激高しているだろう。けれどもグムソムは、ツェグナが目線で懇願すると、ひとまず怒りを抑えてくれた。他の家長たちも、息を潜めてツェグナの言葉を待っている。

「思い出してください。あの晩川の主さまは犯人について、“今この天幕に集いし九名の人の子の中にいる”とおっしゃられましたよね。そしてわたしたちはそのお言葉を、そのまま受け止めた。それが、そもそも間違いだったんです」

 ツェグナも他の者も、九名とは老巫者とその弟子、亡きテヌゲドとダヤルギン、オゲネイとボソル、イェフチェとグムソムとツェグナだと考えた。その時いた・・という基準を何にするかによっては、それも間違いではない。

 ――肉体は俺でも、中に入ってる魂が違ったら、それは俺じゃないんだから。

 ――でもどうして川の主さまはあの時……。

 しかし、肉体を基準とした数え方は、ただ人の常識でしかなかったのだ。間違いをツェグナに気づかせてくれたのは、初めて二人で過ごした晩のグムソムの発言である。

「肉体を基準に数えた場合は、その時天幕の中にいたのは老巫者さまとお弟子さま、亡きテヌゲドさんとダヤルギンさん。加えてオゲネイさんとボソルさん、イェフチェさんとグムソムとわたしになりましょう。しかし魂を基準に数えたら、どうでしょうか?」

 老巫者の弟子はあっと声を上げた。彼が真っ先に気付いたのは、流石というべきだろう。

「そうか! その時大伯父上の魂は既に天窓から抜けて、上天に達していた。それにノルホン川の主さまは人の子ではないから――」

 老巫者の若き弟子が呑み込んだ言葉を、少女は引き継ぐ。

「そうです。魂を基準に考えたのなら、あの時この天幕には人間の魂は八名分しか存在していなかったんです。なのに、川の主さまははっきり九名とおっしゃった。これが、何よりの助言だったんです」

 今にして思えば、川の主はこんなにもはっきりと、解決の糸口を与えてくれていたのだ。ツェグナがその事実にもっと早くに気付いていれば、こんなにも犠牲者を出さずに済んだ。ナヤンだって、こんなにも罪を犯さずに済んだのに。

 自らへの怒りと口惜しさを堪えきれず、少女は小さな手を握りしめる。長年の労働により鍛えられた皮膚は爪を通しこそしなかったが、赤い痕がくっきりと刻まれた。

「あの時この天幕には確かに、あと一人が魂として存在していた。そしてその一人が犯人だとすれば、私たちが行った対策の結果とも、一切矛盾しません」

 泣きだしそうに顔を歪めた少年を除き、家長たちは穏やかに佇んでいる青年を注視していた。妻を奪われたコユと娘を喪ったイェフチェなど、今にも殴りかからんばかりの形相である。

 コユとイェフチェがどうにか平静を装っていられるのは、川の主の面前で無礼を行ってはとの、自制心のゆえだろう。しかし彼らが血気を抑えていられるのは、積み重ねた齢ゆえに成せる技でもあり、

「……言いたいことは分かった。そうだな。それっきゃねえよ。でも!」

 まだ幼いとすら評せる少年には、耐えられぬ苦難であった。

「どうしてそれが兄さんだって断言できるんだ!? だったら逆に、あの時この天幕にいなかったチャルダラン氏のやつは全員怪しいじゃねえか!」

 少年は手負いの獣となって唸り、威嚇した。兄を――自らの大切な者を、もはやこの世でただ一人の肉親を守るために。

「……まず、私が先ほど述べた条件を満たすには、あの時この場にいなかったチャルダラン氏の誰かの肉体から、魂が抜けだしていないといけません」

 グムソムをこれ以上悲しませるのは、ツェグナとて辛い。しかし少女は、噛み締めていた唇を再び開いた。

「しかし、眠っている最中以外に魂が抜けだすと、顔色が青ざめたり、悪寒などの症状が表れ、病気になります」

「……兄さんがアムタグさんの葬儀の時からずっと体調を崩してたから、怪しいってか? でも他の奴の可能性だってあるじゃねえか!」

 それ以上は聞きたくないとばかりに、少年は頭を振る。

「そうですね。……ですからわたし、聞いて回ったんです」

 しかし少女が決定的な一言を発した瞬間、少年の体は硬直した。

「あの晩の、普段なら夕飯を食べていただろうあの時刻。家族に体調を崩している者はいなかったか、あの時何をしていたか。ナヤンさん以外の皆の天幕を回って」 

「……」

「皆さん、火に誓ってくださいました。あの晩のあの時刻は皆で夕食を食べていたと。体調を崩していた者も、眠っていた者もいなかったと」

 力が抜けた少年の腕は、体の横にだらりと垂れる。

「あの晩この天幕に肉体が存在しなかったチャルダラン氏の者で、あの時魂が体に確かにあったと証明できないのは、天幕で独りで寝込んでいたというナヤンさんただ一人。だから、あの晩にこの天幕に存在したもう一人の魂は、ナヤンさんのものでしかありえないんです」 

 ツェグナが一息に言い切ると、グムソムは初めて兄に疑念の眼を向けた。濃緋の双眸は、兄への信頼と疑惑の間で揺れている。

「――で、でも、悪霊が体に入っても、体調を崩すこと……え?」

 グムソムの指摘は正しい。魂が体から抜け出さずとも、悪霊が体に入れば病気になる。また、悪意を持って行われた術の結果、床に臥す場合もあった。

 しかしナヤンは、鷲木菟の羽根を肌身離さず身に着けているから、悪霊や大抵の呪術には害されない。よってナヤンが体調を崩す理由は、魂が肉体から抜けだした以外には、ほぼありえないのだ。強い力を有する巫者ならば、鷲木菟の羽根の効力を破れもする。だが族長でもその一族でもないナヤンが、込み入った術の対象とされる可能性は皆無に等しい。

「……に、兄さん?」

 その場にへたりこんだ少年は、呆然と兄の静かな面を仰いでいた。だからナヤンは、ようやくまともに語るつもりになったのだろう。自分ではなく弟のために、罪を否定しようと。

「でも、フフリさんは陸で溺死していただろう? あんな不思議なことは、俺にはというか、人間には――」

「できます」

 ナヤンの内心は痛いほど理解できる。しかし少女は、彼の発言を切り捨てた。

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