第10話 ムーアへ

 その日、アトラは夕方早くに眠りについた。悩みはいまだ晴れなかったが、数日続いた寝不足が自然とそうさせたのだろう。誰に邪魔されることもなく、死んだように眠った。

 そしてすっかり夜が更け、家族も寝静まったころに目覚めた。ゆっくりと上体を起こすなり、深く呼吸を整える。


 いくつもの夢を見た。それらは瞬く間に忘れ去られていったが、終わり際に見た、自分が沼に溺れていく悪夢が、目覚めをひどいものにしていた。

 闇の中で人影を追い、走った。だんだんと足が沈み込み、最後には息ができなくなる。誰を追っていたのかはわからない。あれはレジーだったのか、それとも……。


 新鮮な空気が吸いたくなり、上着を羽織って椅子を南の窓際に運ぶ。音を立てないように窓を開けば、ひんやりとした秋の夜風が部屋に入り込んでくる。寒さに襟元を絞めて、窓辺に肘をつき外を眺めると、庭木の横から満月が顔を覗かせていた。


 鬱屈した気分とは裏腹に、思考はやけに澄んでいた。上手くいかない自分について、とりとめなく考える。

 探求と抑制、相反する心がいつも己を苦しめる。自ら求めるものが自らを傷つける。

 き立てられる選択肢。どちらを取るかは、二つに一つ。


 ──ふと気づけば、目の前の手すりに小さな小さな蟻がいた。


 ひょっとしたらこの蟻は、あの子供に殺された働き蟻の代わりに動き出した怠け蟻なのかもしれない。奇妙な妄想とともに、なぜだか親近感が湧いてくる。


(暗い巣穴の奥で、お前はいったい何を考えていたんだ?)


 急にいたずら心が芽生えた少年は、口をすぼめて息を吹きかけてみた。

 だが、どんなに強く吹けども、蟻は光沢のある手すりから微動だにしない。驚嘆して、しばし呆然と見つめていた。


 ふっと笑みがこぼれる。小さな蟻に敬意を払うと、そっと静かに窓を閉めた。

 時計を見やれば、六つ並ぶ1の数。なにか因果を感じながら、身支度を始める。


 すでに心は決まっていた。今から七年前の満月の晩、家族に悟られないようこっそりと抜け出したときと同じく、まるで妖精のごとく足音を立てずに家を出る。

 光に消える白皙はくせきと闇に溶け込む黝黒ゆうこくの髪をもつ少年は、街灯が静かに照らす夜の街へと消えていった。


 フラガリアは小道の入り口にたたずんで待っていた。アトラを見るなり唇を緩める。


「やっぱり来ると思った。安心して、私もいま着いたとこだから」


「君までいなくなったら、夜に眠れないどころじゃないからね。行って帰るだけだよ」


「今更だけど、アズレアちゃんとハロルドくんも誘えばよかったかな?」


「もちろん連れていくつもりなんてないよ。ふたりとも寝たら朝まで起きないし」


「それは仕方ないか。はい、これどうぞ。荷物になるから大したものじゃないけど」


 そう言って袋を差し出してくる。もはや些事さじにこだわる気にはならなかった。


「ありがとう。今度お礼するよ」


「ふふ、楽しみにしとく。食事は持ったし、懐中電灯も持った。あとはなにかある?」


「ないよ」


「それじゃあ行きますか。いざ、ムーアへ!」


 フラガリアは小さく手を掲げ、アリさんの声で叫ぶ。

 まるで遠足だ。本人が楽しいだけにしか思えない。それでも、多少は気分が紛れるかもしれない。冷たい風に頭が冷やされれば、自分もいくらか冷静になるだろう。ここ数日、自身の大人げなさに反省するところはあった。アトラはそんなことを考えながら、少女と共に暗い夜道を歩き出す。


 墓へと続く北東の道から枝分かれした、北西に伸びる小道を進んでいく。道路の左側は塀を乗り越えて草が蔓延はびこり、右側は手入れされた生垣が連なっていて、深緑は進むにつれその勢いを増していった。圧迫するような植物の背後には、まるで何かが潜んでいるかのようにも思われた。

 まばらな街灯と懐中電灯の光を頼りに黙って歩く。フラガリアは静けさがつまらないと思ったのか、あるいは不安を感じたのか、出し抜けに会話を切り出した。


「ねえアトラくん、気になっていたことがあるんだけど」


「なあに?」


「アウレアさんの占い館に山羊やぎの悪魔……バフォメットの像があったでしょう? ペラーとなにか関係があるのかと思って」


「あれは悪魔なんかじゃない。コーンウォールにおける嵐の神ブッカだ。バフォメットの有名な絵は近代になって描かれたもので、フランスのブルターニュに伝わる彫刻から影響を受けたとされている。本来のバフォメットはそれとはまったくの別物だよ」


「そうだったの、ごめんなさい」


「もっともブッカ自体そこまで古い神ではないのだけど。おそらく崇拝を禁じられた古い神に、新たにつけられた名前だと僕は思ってる。迫害されてきたペラーにとって、ブッカは大切な神だった。ペラーとは神の召喚──インヴォケーションを行う魔術師なんだ」


「それは召喚を意味するサモンとはどう違うの?」


「神の召喚をインヴォケーションと言い、低位の霊を喚起することをエヴォケーションと言う。サモンはそれらをひっくるめて使われている言葉だ」


「どうしてペラーは迫害されてきたの?」


「下級の霊魂ならともかく、神を降ろすには依代よりしろとなる器が必要だから、ひょっとしたら古代は犠牲を捧げていて、野蛮とされたのかもしれない。それにブッカはあらゆる矛盾を肯定する存在だから、いかがわしくて不純と見なされてきたのも大きいと思う」


「詳しいのね」


 アトラは、自身が存在を否定する魔術について熱く語ってしまったことにもどかしさを覚えた。それゆえ、学術的に研究されていて格調高いと思うものに話を逸らした。


「……じつのところ、僕は、この国──かつてブリタニアと呼ばれた地域の神々に興味があるんだ。でも、神像の多くは破壊され、いにしえの神話はもう残っていないともされている。追い求めるものがすでに存在しないなんて、とても残念なことだよ」


「お爺さまが言ってたわ。ローマがやってくるまで、グレートブリテン島で作られた神像は木製だったんだって。たとえ破壊がなくとも、後世に残るのは難しかったでしょうね」


「なんだか君の方が詳しそうだ」


「ううん、私は物質的な歴史に興味があるの。精神的な歴史は勝手に想像するとゆがんでしまうから、扱いがとても難しいのよ」


「……そうだね」


「難しいだけで、すてきなことだと思うわ。それに、ブリタニアに興味をいだいてくれてなんだかうれしいもの」


「どういう意味?」


「私のミドルネームはブリタニアというの。亡くなったお爺さまが女神さまから名づけてくださったのよ」


「女神ブリタニア──この国の擬神化だね。とてもいい名前だと思う」


「アトラくんにとっては、作られた神という感じかしら」


「作られた神、か。たしかに。でも、創作と神話の境目とは、いったいなんだろう……」


 少年の顔は急に難しくなり、声はだんだんと小さくなっていった。


「ね、ねえ! アトラくんのミドルネームはどうしてエイリルというの?」


「……エイリルか。ファーストネームはお母さんが花の名から選び、そっちはお父さんがつけたんだ。妖精や美しさの意味があり、伝説のドルイド僧からとられたらしい。父方の先祖はアイルランドからやってきて、この地のペラーと結ばれたんだって」


「それじゃあアトラくんは、魔術師だけでなく妖精ともつながりがあるのね」


「名前なんてそんなものだ。僕には霊感もないし、信じてもいない」


「信じていてもいいと思うけど」


「もう昔とはなにもかもが違う。今を生きる人間に空想を信じることは難しい。ただ興味あるものを追い求めていただけなのに、本当に求めていたものはいつの間にか壊れているんだ。

 人生の最初の七年で好きになったものを、次の七年で否定していく。人は時とともに成長していくけれど、僕は逆に失われていくようだ」


「そんな……」


「レジーが死んでから、僕は泣いてばかりいた。いつまでも泣いてばかりではいけないと言われ、目が覚めた。だから空想は卒業して、現実を見ることにした。

 みんなは僕のことを優しくて真面目で、おとなしい奴だと思っているかもしれない。でも、そうじゃない。僕はそうしないといけないんだ」


 博識なフラガリアもとうとう返す言葉に詰まったのか、会話は途切れてしまう。

 アトラは無意識のうちに、かつて友とたどった道をなぞって丘を目指そうとしていた。だがすぐに、最短距離で荒野に入らなかったのを後悔することになる。いよいよ物悲しいムーアを正面に捉え、草の中に分け入っていこうとした矢先だった。


「おい、そこで何をしている!」


 突然の怒声。アトラは不意に右から顔を照射され、目がくらんだ。


「ん? やっやっ、お前は! コズグレイブのとこのせがれ! 貴様、またかー!」


 光の中から現れたのはひとりの老人。ふたりは目を覆ってうめき声を上げる。


「あぁ、しまった……」


「う~、なんなの。またって?」


「む、お前はどこの娘だ? こんな時間に、まったくもってけしからん!」


「待って、あまり大きな声を出さないでください」


「何を言っておる! 忘れもしないぞ、貴様は七年前──」


「その話は……」


「あの日の晩、お前たちが行方不明だとわかって、うちにも連絡が来たんじゃ。わしらは夜通し探したんじゃぞ。少しは大人になったかと思ったが、まさかまたやらかすとは!」


「夜なので、どうかお静かに……」


「ええい、黙れ! うちに連絡してやる!」


「ど、どうしよう?」


 まくし立てる老人に少女も困惑を隠せない。さらに悪いことに、新たに老いた女性の声も加わった。


「──あなた、なにごと?」


 大きな灯りが点き、『ブラウニーズ・ハニー』と書かれた看板が見えた。小さな妖精の子供が壺を頭に抱え、蜜蜂から逃げる可愛らしい姿が描かれている。

 ふたりはムーアに入るまさに直前で、養蜂家の老夫婦に捕まってしまったのだった。

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